011:合流
「お嬢様」
ベルタの声が、背中越しに飛んできた。
密林の湿った空気に溶けるような音量。前を歩きながら、振り返りはしない。
「あの方は、何者ですか」
真っ先にそれか。いや、ベルタにしてみれば当然だろう。
集落を出てから、正体不明の巨漢が付いてきている。
「師匠だ」
ベルタの肩が、少しだけ上下に動いた。
「……左様でございますか」
珍しく少し驚いた様子だったが、それ以上は何も訊いてこなかった。
ランズローを観察し、ベルタなりの結論を出していたのだろう。
樹冠の隙間から、細い光が落ちてくる。
腐葉土の匂い。頬を撫でる蒸気。密林はいつも同じ温度で、同じ湿度だ。
時間の感覚が鈍くなる。
「お嬢様。もう一つ、伺ってもよろしいですか」
「なんだ?」
「なぜ、あの決闘をお受けになりましたか」
きたか。訊かれると思っていた。
決闘という言葉に釣られて……などと言おうものなら、フォーラに告げ口されて、地獄の食卓が待ち受けているだろう。
「……受けなければ、別の手で来た」
前を向いたまま答えた。
決闘の申し出を断れば、ラドリックは、政治力で家督を奪いにかかっただろう。
帝都にも人脈を持つラドリックなら、そっちの方が有利だ。
ただし、時間も金もかかる。だから、決闘を選んだ。
私としても、一番マシな選択だった。
「では、相手が反則の札を切った時、なぜ降りなかったのですか」
声の温度が、少し下がった。こっちが本命か。
あの決闘で、バニエルが懐から取り出した黒級のスキルカード【轟炎葬】。
金級以上の使用は禁止されている決闘で、黒級を隠し持っていた。
黒級のスキルカードを使った時点で、相手の違反は確定している。
その場で、審判に異議を申し立てることもできた。
むしろ、その方が妥当な判断と言える。
あの審判は買収されているようだったから、私の負けと判定されただろうが。
――だが、私は戦うことを選んだ。
なぜか。答えは分かっている。
あの瞬間、私の中に沸き上がったのは、怒りでも、ましてや恐怖でもなかった。
高揚感。【自動障壁】を叩き割った自負が、判断を狂わせた。
勝ちの匂いに酔って、冷静な判断力を失わせていた。
「……過信だった」
私は、それだけを答えた。
ベルタの歩みが、僅かに遅くなった。
「左様でございますか」
すぐに、歩調が元に戻った。
危なかった。これで特別訓練からは逃れられる。
師匠は、このやり取りの間、一言も口を挟まなかった。
いつものボンヤリ顔で、欠伸をしながら歩いている。
もはや半分寝ているのではなかろうか。
しばらくして、樹木の密度が薄くなってきた。
光が増える。空気が乾き、肌にまとわりついていた湿気が剥がれた。
風の匂いが変わる。土と草の、乾いた匂い。
密林を抜けると、丘の上だった。眼下に麦畑が広がっている。
刈り入れ前の穂が風に揺れて、金色の波を作っている。
その向こうには、灰色の屋根が点在する集落があった。
シルベリアに帰ってきた。
一週間ほど離れていただけだが、帝都に留学していた時よりも感慨深い。
ベルタが隣に並ぶ。いつの間にか、侍女服に戻っていた。
黒装束は、どこへやった。
「合流地点は、この集落の中です。ガント殿が待っています」
シルベリアの東端。帝国の東の果て。
この場所なら、ラドリックの目も届かないだろう。
ランズローは、黙って風景を眺めていた。
目に力がある。はっきりと、この土地を見ている。
僅かに唇が動いた。聞き取れなかった。何かを思い出したのだろうか。
「……行こう」
私は詮索を振り払って、密林を後にした。
***
古い猟師小屋だった。
壁板が苔に覆われて、屋根の端は朽ちて欠けている。
小屋の周りは、枯れ草と湿った土の匂いがした。
廃屋寸前といった態だが、窓には布が掛けられ、入口には新しい足跡があった。
それも一人や二人ではない。複数の人間が、ここ数日の間に出入りしている。
ベルタが足を止めた。
右手の人差し指と中指を口元に当て、短い信号音を飛ばす。
口笛に似ているが、音の波形が違う。
黒影流の連絡符丁。シルベリア伯爵家の者でも、一部の人間にしか伝わらない。
小屋の中から、大きな青い鎧が現れた。
やっとのことで、扉を通って、外に出てきた。
全身鎧の継ぎ目なく磨かれた鉄板が、木漏れ日を鈍く弾いている。
横幅だけで並みの男二人分はある。角ばった兜の覗き穴の奥に、無骨な瞳が光っていた。
「……お嬢、よくご無事で」
騎士団長ガント。古流武術・剛亀流の使い手だ。
幼い頃には、この巨体に向かって、よく木剣を振り回していた。
ガントが、私の前で膝をついた。
鎧が軋む。片膝が地面にめり込み、地響きのような振動が伝わってくる。
「おかえり、リンカ」
ガントの背後から、もう一つの人影が現れた。
白衣をだらしなく着こなし、懐に薬瓶を差し込んでいる。
フォーラだ。見かけは、せいぜい藪医者だが、東都エストシュタットにまで顧客を抱える名医だ。
「心配をかけた」
皆に頭を下げる。
今度は過信も油断もしない。
私の身は、私のものであって、私だけのものではないのだ。




