006:指導
石蜥蜴が、壁を這っている。
二匹。暗闇の中で、紫色の舌がチロチロと動いていた。
気づいた時には、ランズローの左手が一匹を掴んでいた。
壁に叩きつける。紫色の地をまき散らしながら、石蜥蜴が潰れた。
もう一匹が飛びかかってきた。
ランズローは、無造作に斧の柄を横に向けた。
石蜥蜴の体が弾け飛び、壁にぶつかって動かなくなった。
たった二秒。あっという間の出来事だった。
ランズローが振り返る。
「見てただろ」
「……ああ」
「次は、お前がやれ」
それだけだった。
ソーゼン老師なら、婉曲に理屈を教える。
ベルタなら、何度も実演してから、やらせてくれる。
場合によっては、手取り足取り教えてくれる。
――見て、覚えて、やってみろ。
ということだ。
少し困惑したが、不快ではなかった。
この男は、「教えない」のではなく、たぶん「言葉にできない」のだ。
それから、しばらく歩いた。
ランズローは、のんびりした足取りだが、一度も振り返らずに進み続けている。
どれくらい経っただろうか。坑道の中では、時間の感覚が曖昧になる。
腹が鳴った。私ではない。
「……」
ランズローが、懐から巨大熊の肉を取り出す。
昨日の残りだ。冷めて、さらに硬くなっているはず。
それを苦もなく噛みちぎり、咀嚼している。
私は、少し躊躇した。前回ほど空腹ではなく、野性味の強い臭いが、強烈に伝わってくる。
だが、食べた。
――硬い、臭い、まずい。
肉を飲み込む。水が欲しくなって、通路の水たまりから掬って飲んだ。
「不味いな」
「……ああ」
同意なのか、相槌なのか。ランズローの表情は変わらない。
不味い肉を黙って食うだけ。会話もほとんどないが、この男とは、何かが通じている気がする。
ランズローが、腰に手をやった。
短刀を抜く。肉を切り分ける時に使っていたものだ。
「これでいいか」
受け取る。刃渡りは短い。
相手の懐に飛び込まなければ、届かない長さだ。
「借りる」
ランズローは、小さく頷いた。
短刀を腰に差す。心許ないが、錆びた剣よりは、かなり増しだ。
――これで、やれるか?
ランズローの動きを思い出す。
歩きながら、私は脳内で反復練習を繰り返した。
「……来るぞ」
再び魔物の気配がした。
ランズローは、斧を構えもしない。
私が前に出る。短刀の柄を握りしめると、爪のない親指に痛みが走った。
暗闘の中に、黄色の光が瞬いた。
石蜥蜴。今回は一体だけ。
短刀では、まだ遠い。私は、ジリジリと間合いを詰めた。
石蜥蜴が、壁面から跳んだ。
口が開き、牙が光っている。
ランズローは、相手の勢いを利用していた。
空中では、方向を変えられない。
私は、身体を沈めた。
石蜥蜴の身体が、私の頭上を通過しようとする。
その軌道に合わせて、ゆっくりと短刀を振るう。
柔らかい手応え。時折、ガリガリと石を削るような音もした。
グチャリと、後方から石蜥蜴の潰れる音がした。
息を吐く。右手の親指から、じわりと血が滲んでいる。
柄を握り締めていた圧力で、生爪の傷口が開いたらしい。
――まだまだか。
ランズリーは、もっと素早く、無駄も無かったように思う。
「……流れがある」
ぼそりと、独り言のような声量だった。
流れとは何か。訊き返す前に、ランズローは歩き出していた。
背中を追う。短刀が腰で揺れる。
さっきより少しだけ、その重みが頼もしかった。
***
坑道の様子が変わった。
壁面の凹凸と採掘痕が消えて、滑らかになっている。
遺跡だ。壁には、紋様が刻まれている。
渦を巻くような曲線と、直線的な幾何学模様が、交互に繰り返されている意匠。
ランズローが入っていた、石棺の紋様に似ていた。
道が、左右に分岐した。
どちらかが、出口に通じている。そんな気がする。
しかし、どちらが正解かは見当もつかない。
ランズローが立ち止まった。鼻を動かしている。
それから、壁に手を置いた。指先が、石の表面をなぞる。湿り気を確かめているようだ。
すると、ランズローは、迷わず右の通路に足を向けた。
「なぜわかる」
「……勘だ」
「勘で、わかるものなのか」
「風と湿り気で、だいたいわかる。こんなことは、誰にでもできるだろう」
誰でも、できるものではない。
暗視や熱感知のスキルカードがあれば別だが、この男は素の感覚だけで正解を引いている。
風も湿り気も、私では、俄かには感じ取れないほど微量だった。
――力だけでなく、感性も常人離れしている。
しばらく、右の通路を進んだ。
紋様が濃密になっていく。壁面だけでなく、天井にも広がっている。
ランズローが足を止めた。
異質だった。その壁面には、紋様だけでなく、象形のような記号も刻まれている。
「……知っている」
ランズローが壁に手を触れた。
大きな掌が、円環の紋様をなぞった。
指先が、記号の溝に沿うように動いている。
数秒後、ランズローは手を離した。
そのまま振り返りもせず、歩き出す。
何も言わない。私も訊かない。
石棺で眠っていた男が、記憶の断片を拾い集めている。
横から口を出すのは、無思慮に過ぎると思った。
さらに、黙って歩き続けた。
しばらくして、通路が緩やかに登り始めた。
匂いも変わった。鉱物と苔だけではない。もっと複雑で、生き生きとした匂い。
光が差している。暖かみのある自然の光だ。
足が速くなった。
長い間、地下にいた身体が、太陽の光を求めていた。




