004:石棺
石の扉が、内側にジリジリと押されていく。
石と石が擦れる、耳障りな音。壁面の鉱脈が、振動で揺れる。
錆びた剣を構えた。刀身が「く」の字に歪んでいる。
これでは、鈍器にすら、なりそうにない。
巨大熊の咆哮。私は、思わず後ずさった。
背中が棺に触れる。冷たい感触。わずかに触れただけだったが、背中の火傷が裂けた。
石棺の表面に、私の血が付着する。
紋様が光る。脈打つような明滅。それに合わせて、石棺が振動した。
背中の火傷が脈打った。痛みではない。紋様の明滅に、身体の奥が応えているような感覚だった。
――血に、反応した?
轟音。巨大熊の肩が、ついに石の扉を押し倒した。
砂煙が広間を覆いつくそうとする。石棺の蓋が動く。
――中に、何かいるのか?
蓋の隙間から、大きな手が突き出た。
ごつごつした、人の手。掌が分厚い。
その大きな手が、石棺の縁を掴んだ。
蓋がずれて、中にいたものが起き上がる。
赤銅色の髪が見えた。長い。背中まで届く長髪を、後ろで束ねている。
大柄な男だ。肩幅も広く、胸板は厚く、腕も太い。
「……ここは、どこだ」
低い声。掠れている。
男は、不機嫌そうに周囲を見回した。
ボンヤリした目。寝起きの顔だった。
その目が、巨大熊を捉えた。
土煙を上げながら、突っ込んできている。
男の右手が、無造作に何かを掴んだ。
木製の長い柄。引き抜かれたのは、巨大な斧だった。
石棺から足を踏み出し、地面に降り立つ。
片手で斧を振るう。風圧。結い上げた鋼銀の尾が、大きく吹き上がった。
肉の裂ける音がした。
巨大熊の体が、縦に割れた。
地面に倒れる振動。黒い血が広間の床を染める。
内臓が零れ、湯気を立てている。
一撃。スキルカードを使った形跡は無い。
私は、石棺に背を預けたまま、動けなかった。
膝が震えていた。折れ曲がった剣を握っている右手も、小刻みに揺れている。
斧の軌道。腰の回転。足の踏み込み。全てが自然だった。
筋肉の連動。足から腰、腰から肩、肩から腕、腕から斧。力の伝達に一切の無駄がない。
ソーゼン老師が、茶をすすりながら、一度だけ口にしたことがある。
「型というのはなあ、誰でも歩ける道順じゃよ」
あの時は、気づかなかったが、今ならわかる。
型とは、他者が作ったものである以上、個々には最適化されていない。
極めるには、型を破って、自分の型を作る必要があるのだと――。
男の目が、私を捉えた。鉄灰色の瞳。焦点は定まっていない。
こちらに歩いてくる。不思議と威圧感はなかった。
巨大熊を一刀両断した男とは思えないほど、闘気が薄い。
私の前で立ち止まった。
「いいマメだ」
いきなり、私の手を取って言った。
剣ダコ。十年以上の鍛錬が刻んだ、不格好な角質の層。
美しくはない。女ではなく、武人の手だ。
「何度も皮が剥けて、固まってるな」
職人が、同じ職人の手を見た時の感想。そんな口調だった。
鉄灰色の瞳が、少しだけ焦点を結ぶ。口の端が僅かに持ち上がる。
笑みと呼ぶには淡すぎるが、初めて見せた人の表情だった。
「リンカ・シルベリア」
名乗るべきだと思った。
男の目が動く。何かが引っかかったような、そんな反応を見せた。
「あなたの名前は?」
少しの間。その視線が、巨大熊の血溜まりに落ちる。
何かを探しているような目だった。
「……ランズロー」
言ってから、わずかに首を傾げた。
「たぶん、そうだ」
自分の名前が「たぶん」とは、どういうことか。
聞きたいことは、山ほどあった。
何故、石棺の中にいたのか。強さの秘訣は。どうやって鍛えたのか。
しかし、身体が限界だった。
決闘の火傷。落下の打撲。巨大熊からの逃走。
限界は、とうに超えている。
視界が歪み、膝の力が抜ける。
倒れると思った瞬間、大きな手が肩を掴んだ。
「……おい」
ボンヤリした声。心配しているのか、困惑しているのか、判別がつかない。
意識が遠のいていく。
最後に見えたのは、ランズローと名乗った男の困惑顔だった。
***
肉の焼ける匂いで、目が覚めた。
脂が弾ける音。パチパチと小さな破裂音が続いている。
鼻腔に流れ込む煙の匂い。獣脂の重い香りがする。
身体中が痛い。だが、鋭い痛みが、鈍い痛みに変わってきている。
焚き火。広間の石畳の上で、乾いた木材が燃えている。
その向こう側には、大きな人影があった。
――ランズロー、だったか。
直前の記憶が蘇る。石棺から出てきて、巨大熊を一撃で屠った男。
その巨大熊を短刀で捌いている。
魔物の肉には毒がある。だから、普通は食べない。
だが、この男は迷いなく解体している。手馴れている。
短刀が、関節の繋ぎ目に吸い込まれるように入っていく。
骨を避け、腱を断ち、皮と肉を分けていく手つき。
力任せではない。どこに刃を入れれば、最も少ない手数で捌けるかを熟知している。
フォーラの笑顔が目に浮かんだ。
銀縁の眼鏡をかけた、シルベリアきっての女医。
「魔物の肉って、毒抜きすれば、案外いけるんですよ。ほら、食べてみてください」
満面の笑みで差し出された、魔物の姿焼き。十歳の私は、何も知らずに食べた。
そして、寝込んだ。
「あら、まだ耐性が足りませんね。次は量を減らしましょう」
減らした量でも、また寝込んだ。
そうやって回数を重ねる内に、魔物の肉を食べても平気な体になった。
フォーラは終始、ニコニコと微笑んでいた。悪魔だった。
「食え」
ランズローが、焼いた肉の塊を差し出した。
棒に刺した肉。表面が焦げている。
脂が滴り落ちて、焚き火に落ちるたびにジュッと音を立てる。
私はそれを受け取り、躊躇なくかぶりついた。
硬い。筋肉の繊維が、歯に抵抗する。噛み切るのには、かなり顎の力がいる。
しかも、かなり獣臭い。フォーラの料理は、香草と一緒に煮込んで、臭みを消していた。
毒素は抜いていなかったが、味と香りは、料理と呼べるものに仕上がっていた。
――硬い、臭い、うまい。
空腹が最高の調味料とは、よく言ったものだ。
最後に食べたのは、いつだ。決闘の前の朝食か。もう丸一日以上、何も口にしていない。
飲み込む。胃に落ちる。身体の芯に、熱が灯る。
ランズローが、私を見ていた。
「いい食いっぷりだ」
ニヤリと笑う。さっきの淡い微笑みとは違う。
もっとはっきりした、人間らしい表情。
「……まずくはない」
素っ気なく返した。
気にした様子もなく、ランズローも肉にかぶりつく。
巨大な顎が、肉の塊を三口で平らげた。
食べ終えた骨を焚き火に放り投げる。
火が大きく燃え上がり、バチバチと爆ぜてから、すぐに落ち着いた。
ランズローが唐突に言う。
「ところで、今は聖樹歴の何年だ?」
聖樹歴。ソウルツリーの発見を起点とする、帝国の公式な暦だ。
この男の口から、そんな言葉が出るとは意外だった。
「1005年だ」
ランズローの動きが止まる。
焚き火を見ている。しかし、瞳の焦点が定まっていない。
長い沈黙。焚き火が爆ぜる。火の粉が舞い上がり、暗い天井に消えていく。
「……まだ、百年ちょっとか」
百年。石棺の中にいた男が、百年と言った。
あの石棺に、百年も入っていたということか。
いや、人間が百年も生きられるはずがない。
どう見ても、この男の姿は三十歳くらいだ。
――いったい何者なんだ。
訊きたかった。だが、鉄灰色の瞳は、ここではない、どこか別の場所を見つめている。
今は聞くべきではない。長い沈黙の後、ランズローが呟いた。
「……間に合うかもな」
焚き火を見たまま、独り言のような声量だった。
「何に?」
思わず尋ねた。
ランズローの目が、一瞬だけ鋭くなる。焦点が合った。
「……さあな」
はぐらかされた。
だが、さっきの目は、ボンヤリとはしていなかった。何かを知っている目だった。
思い出せないのではなく、言わなかったのだ。
百年という時間。石棺。そして「間に合う」という言葉。
この男は何かの目的を持って、あの中にいたのだろうか。
問い詰めてみたい気持ちもあったが、無駄だと思い直した。
言うと決めたら、はっきり言うし、言わないと決めたら、絶対に言わない。
そういう人間だと思った。
本日あと1パート投稿予定です。




