003:坑道
生きている。
指を動かした。右手の親指が痛い。爪が剥がれている。
足首を回し、膝を曲げてみる。動く。
どうやら、ひどい怪我は負わないで済んだらしい。
目を開けた。遥か上方で、岩壁の隙間から、細い光が差し込んでいる。
光の筋が埃を照らし、薄い霧のように漂っていた。
体を起こす。眩暈に襲われたが、壁に手をついて、血の巡りをならしていく。
落ちた穴は、遥か頭上だ。壁面は切り立っている。今の身体では、登れそうにない。
周囲を見渡す。二人くらいなら、並んで歩ける幅の道がある。
――進むしかない。
壁伝いに歩いた。右手を壁面に当て、指先で岩の感触を確かめながら進む。
目が暗闇に慣れてきた。壁面の隙間から、ごく僅かに光の漏れている箇所がある。
坑道の構造上、地上との繋がりが、完全には断たれていないのだろう。
靴先が硬いものを蹴った。白骨だ。衣服の残骸が、僅かに骨に絡みついている。
かつて、この坑道で働いていた鉱夫か。それとも、私のように落ちてきた者か。
骨だけの手が、何かを握っている。赤茶色に錆びた鉄の剣だ。
白骨の指を一本ずつ外し、柄を引き抜いた。乾いた骨の折れる音がした。
――すまない。貰っていくぞ。
死者には申し訳ないが、最悪のナマクラだった。
刀身は錆で膨れているし、切っ先は欠けている。
シルベリアきっての鍛冶師ダリウスでも、研ぎ直すのは無理だろう。
だが、落ち着く。手に剣があるというだけで、安心する。
――剣士の性だな。
さらに坑道を進んだ。
しばらくすると、空気が変わり、乾いた埃の臭いが強くなってきた。
緩やかに下っている。出口とは逆方向かもしれない。
だが、微かな風が吹き付けている。空気が動いている。
ということは、どこかに繋がっている証拠だろう。
どのみち、戻るという選択肢はない。
私は覚悟を決めて、風の方向に従って坑道を下りた。
――揺れて、いる?
足裏に伝わる振動。何ものかが、地面を踏みしめる音。
暗闇の奥で、二つの青い光が灯り、徐々に毛むくじゃらの生物が姿を現した。
巨大な熊。そう呼ぶしかない。
後脚で立ち上がれば、天井に頭が届くどころか、突き破るだろう。
腰の高さで、私の背丈を超えている。
黒い体毛の下には、鋼のような灰色の筋肉が透けて見える。
血管のような青黒い何かが、体内で蠢いている。
この大きさに、この禍々しさ。魔物の巨大熊だ。
私は、錆びた剣を構えた。
――戦うか、逃げるか。
熊は脚が速い。しかも、この体格差では、逃げたところで、すぐに追いつかれるだろう。
ソーゼン老師の声が蘇る。縁側で日向ぼっこをしながら、欠伸混じりに呟いた言葉だ。
「リンカよ、甲殻のある虫と、裸の虫がおってな。裸の虫の方が、案外と長生きするんじゃ」
答えを聞く前に、老師は寝落ちした。それでも、意図はわかった。
巨大熊の体を観察する。
前脚の付け根。肩甲骨の下。毛皮が薄く、筋肉の境目が見える。
――そこだ!
右足で地面を蹴り、間合いを詰める。斜め下から、関節の隙間を狙って斬り上げた。
刃が毛皮に触れる。が、錆びた剣は、あっさりと折れ曲がった。
巨大熊は、苛立ちの唸り声を上げ、前脚を持ち上げた。
横に跳ぶ。地面が砕けた。砂利と岩片が飛散する。風圧で体がよろけそうになった。
――老師のようには、いかないか。
あの人なら、この剣でも斬れる、と思う。
少なくとも、剣が折れるだけという、情けない結果にはならないはずだ。
逃げる。巨大熊が現れた方向に向かって、私は全力で走った。
いずれ必ず追いつかれる。この先に、何かがあることを願うしかない。
さもなくば、死だ。
背後から、巨大熊の咆哮が聞こえてくる。
坑道全体が震えて、天井から小石が落ちる。
追ってきた。坑道の壁を削りながら、突進している。
岩が砕ける音。壁が崩れる振動が、足裏に伝わる。
距離が縮まる。熱い息を背中に感じる。
前方。坑道の先に、何かが見えた。
石の扉だ。高い。巨大熊と同じくらいある。
片方が僅かに開いていて、人が通れるほどの隙間がある。
考える暇はなかった。隙間に身体を滑り込ませる。
扉を抜けた先は、大きな広間だった。
天井が高い。壁面には、鉱脈のようなものが走っていて、僅かに光を灯している。
中央には、黒い石棺が鎮座していた。
人ひとりが、ちょうど横たわれるほどの大きさ。表面に紋様が刻まれている。
文字ではない。渦を巻くように、石棺の全面を覆っている。
背後で、巨大熊が唸り声を上げた。
扉の隙間に、巨体を押し込もうとしている。
石の扉が軋む。長くは持ちそうにない。
前には石棺。後ろには魔物。退路はない。
「万事休すか……」
答える者はいない。
広間の静寂だけが、私の声を呑み込んだ。
本日あと2パート投稿予定です。




