013:申立て
グランツフェルトの外れ。街道沿いに、壁の漆喰が所々剥がれた小さな家があった。
庭先に薬草が植わっている。フォーラの手によるものだろう。
伯爵館の中庭にも、フォーラの管理している薬草園がある。
「先生、フォーラよ。診察日じゃないけれど、お客を連れてきたわ」
フォーラが戸を叩くと、家の中から足音がした。
扉が開く。白髪の老人。痩せているが、背筋は伸びている。
「エンリコ先生、シルベリアのお嬢様よ。話を聞いてあげてね」
フォーラは気だるげに言ったが、「お嬢様」という言葉を選んだ。
この一語で、私の正体を伝えている。
エンリコが小さく頷いた。
「入りなさい」
家の中は、質素だった。木の卓と椅子が二脚。壁際に書棚が一つ。
棚に並んでいるのは法令集の写しと、帝国の官報の綴じ本だ。
窓から差し込む朝の光が、卓の上に四角い影を落としている。
古い紙とインクの匂いが、薄く漂っていた。
エンリコが椅子を引き、私に座るよう促した。
フォーラは、窓際の壁に寄りかかる。
「話を聞こう」
私は簡潔に話した。
決闘の経緯。父ジェラルドの死後、叔父ラドリックが家督を主張し、代理決闘に持ち込んだこと。
代理人のバニエルが、規定で禁じられた黒級のスキルカードを使用したこと。
エンリコは、黙って聞いていた。
最後に、私は前回の決闘を無効にしたい。その手伝いをして欲しいと言った。
すると、エンリコは少し目線を外し、間を空けてから訊いた。
「無効にして、どうしたいのか。爵位を取り返したいのか?」
「再決闘したい」
エンリコの眉が動いた。
それから、少し早口になって話し始めた。
「お前の話が本当なら、法廷で争えばいい。黒級の不正使用があったなら、記録を揃えて組合に申し立てるだけだ。決闘の結果は覆る。相続権も戻る。わざわざ、もう一度戦う必要はない」
「負けたままでは、いられない」
「法廷で覆れば、負けてはいないことになる。公にも周知される」
「周りは関係ない。私の問題だ」
エンリコが口を閉じた。
少しの間を置いて、目の色が変わる。
元官僚の実務家としての目ではなく、もっと深い、何かを見定めるような目だ。
「もう一度負けたら、ラドリックの相続が確定する。今度は覆せない。お前は、領地も家名も、全て失うことになる」
「覚悟している」
「領民は、どうなる」
喉の奥が詰まった。
ラドリックの統治が続く。あの男の下で、領民がどうなるか。
「……それは」
言葉が続かなかった。エンリコの言っていることは正しい。
法廷で勝てるなら、そちらのほうが確実だ。領民を危険に晒さずに済む。
だけど、それでも、私は戦いたい。今度は勝つ自信もある。
しかし、戦いに絶対はない。万が一の可能性はある。
何も言えず、身体が固まる。
エンリコが、フッと息を吐いた。
「正直者だな」
老人の声に、棘はなかった。
「今の帝国は、法廷も金で動く。裁定官の買収、証人への圧力、書類の改竄。正しい手続きを踏んでも、金を積まれれば覆される」
エンリコは、卓の上で指を組んだ。
「法廷で負ける可能性は、低くない。むしろ高い。決闘の方がマシだろう」
エンリコが頷いた。自らを納得させるかのように。
「協力しよう」
立ち上がって、書棚に手を伸ばした。迷いなく一冊を引き抜く。
古い革装丁の書物。頁の端が擦り切れている。エンリコの指が頁を繰っていく。
「帝国決闘法、第十七条」
エンリコの指が、条文の上で止まった。
「決闘における金級以上のスキルカードの使用は禁止する。違反があった場合、敗者側に再決闘の請求権が発生する。ただし――」
エンリコが顔を上げた。
「請求には三つの要件がある」
指が条文を追う。
「一、公式記録との照合。組合支部に保管された決闘記録と、申立ての内容が一致すること」
「二、立会人または第三者の証言。証言書の添付が必要となる」
「三、管轄支部への正式な書面による申立て」
記録はあるし、証人はいる。問題は書面だ。
「私が書こう」
ここに来た時点で、私たちが何を求めているかは分かっていたのだろう。
フォーラが黙って、窓際から歩み寄り、机の上に酒瓶を置いた。
エンリコが苦笑した。
「フォーラ。朝から酒はいかん」
「なら、晩酌にどうぞ」
そう言って、フォーラは元の場所に戻った。
お茶らけているが、お礼の品だ。こういうところには卒がない。
エンリコは、書棚から羊皮紙と万年筆を取り出した。
インク壺の蓋を開け、穂先をインクに浸し、書き始める。
「少し時間をもらう」
エンリコは、それだけ言って、手を動かし続けた。
万年筆の先が、羊皮紙の上を走る音だけが、部屋に満ちる。
フォーラは窓際で腕を組みながら、黙ってエンリコの背中を見ていた。
***
窓の外の光が赤くなり始めた頃、エンリコが卓の灯に手を伸ばした。
使い捨ての照明具だ。燭台に触れるだけで、淡い光が灯る。
その灯りの下で、万年筆がもうしばらく走り、やがて止まった。
卓の上に、羊皮紙が三通並んでいた。申立書二通と、私信が一通。
「証人への根回しは済んでいるか」
「観客席にいた騎士に接触しています」
「騎士の名は?」
ベルタから聞いていた名前を告げた。
エンリコの眉が動いた。
「知っている。正しいことをする気持ちはあるが、背中を押す手が必要な性分だ。その私信を持っていくと良い」
私は、羊皮紙を受け取った。
鉄の剣とは比べものにならないほど軽い。
だが、この局面においては、計り知れない重さがある。
「……ありがとうございます」
私は、深く頭を下げた。
エンリコは、何も言わず、ただ深く頷いた。
フォーラが窓際から離れ、私の隣に立つ。
「東都まで、馬車で三日かかるわ。早めに出ましょう」
私は頷き、羊皮紙を懐に仕舞った。




