好色爺さんの不運な夜
●開かない遣戸
そろそろ亥の一刻(夜の九時)ごろでしょうか。
「皆が寝静まったら、あの部屋へ」
継母は典薬助に、またも意味ありげな笑みを投げ、姫君がいる小部屋の鍵を渡します。
夜更けて。
「ひょひょ♪」
鍵を手に、典薬助がやってきました。
鎖を外して遣戸を引き開けようとして――
「おや?」
開きません。
部屋のなかにいる姫君は、どうなることかと、胸つぶれる思いでいます。
「おかしいな……」
遣戸がうんともすんとも動かないので、典薬助は板戸のあちこちを探ります。
あそこがつかえているのか?
いや、こちらか?
下のほうだろうか?
典薬助は、立ったりしゃがんだりしながら、あっちを押したり、こっちを押したりしています。
あこぎは、少し離れたところから気づかれないように、そのようすを見ています。
典薬助は遣戸の上のほうも下のほうも手探りしていますが、あこぎが楔として敷居の溝に押しこんだ物を、見つけることができません。
「おかしい。内側から鎖がさしてあるのか……。姫君、この典薬助めをこうして困らせなさるのですね。大殿も北の方もあなたとの仲を認めてくださっているこの私から、逃れることなどおできになりませんのに」
あこぎは笑いをこらえます。そんなふうに声をかけたって、応じる人はいませんよー、だ。
●悲劇は突然に
典薬助は、さらに遣戸を叩いたり、引きあけようとしたりします。
しつこく繰りかえします。
今夜はスタミナドリンクと強壮剤のほかに、イモリの黒焼きまで食べてきたのです。準備万端整えてきたのです。簡単に諦めるわけにはいきません。
典薬助、粘ります。
姫君が根負けして遣戸を開けてくれるのでは? と期待しているのです。
刻々と時が過ぎていきます。
板敷きの床は冷え冷えとしています。
なにしろ、十一月といっても、今の暦では師走のころです。
悲劇の足音が近づいてきます。
この日、典薬助はすでに腹具合がよくなかったのです。イモリの黒焼きのせいかもしれません。
しかも、着ぶくれしているのはみっともない、若々しくない、と考えたのか、薄着でいるのです。
姫君、冷たいのぉ……。
床板、冷えるのぉ……。
悲しき六十歳に、ついに悲劇が襲いかかります。
お腹がごぼごぼ鳴りはじめたのです。
「よわったな……体がすっかり冷えてしもうたわい」
なんて言っているうちにも、お腹の鳴りぐあいが尋常でなくなっていきます。
ごぼごぼ、ぐるるる、びち、びちびちびち
まさか……?
典薬助は尻を手で触ってみます。
漏れちまう、なんてことには――
いえ、時すでに遅し、です。
(「あなさがな。冷えこそ過ぎにけれ」と言ふに、しひてこほめきて、ひちひちと聞こゆるは、いかになるにかあらむと疑はし。掻い探りて、出でやするとて――)
「あわわ!」
典薬助は、片手で尻を押さえながらその場を去っていきますが、大慌てに慌てているというのに、遣戸にしっかり鍵をかけていくのでした。もちろん、鍵は持っていってしまいます。
姫君は自分のもの、誰にも盗ませるものか、と考えたようです。
あこぎは遣戸に近づいて姫君に声をかけます。
「もうだいじょうぶでございますよ。典薬助は行ってしまいました」
「よかった!」
「下痢腹だったみたいです」
「ええ??」
「漏らして袴も汚しちゃったので、いくらなんでも今夜はもう来ないと思います。おやすみくださいませ。私の部屋に帯刀が来ておりますので、少将の君へのお返事をお伝えもうしあげますね」
帯刀はすでに来ているようです。この部分より前に、その記述は無いのですが。
●姫君救出のチャンスは?
あこぎを待ちかねていた帯刀が、早口に問いかけます。
「あんまり長いこと戻ってこないから、どうしちゃったのかと思ったよ。姫君はまだ閉じ込められたままでおいでなの? 少将殿が『夜中に姫君をこっそり連れ出してさしあげられないだろうか、そこのところを、あこぎからよく聞いてこい』とおっしゃってね」
「姫君は今も臭い部屋に閉じ込められておいでだし、正直言って、状況は最悪よ。出入り口の鍵は北の方が握ってるんだもの。今夜、遂に起きちゃったのよ、おそろしいことが。その鍵を、北の方が老いぼれ爺さんに渡しちゃったの」
「爺さん? 誰だい?」
「典薬助。北の方の伯父よ。このお邸に住んでるの。北の方は典薬助と姫君を結婚させようとしてるのよ」
「何だって!?」
「最悪の事態だけはぎりぎり免れたわ。姫君と私とで、出入り口を内から外から工夫して固めたの。典薬助の奴、なんとかして遣戸を開けようとして、けっこう粘ってたけど。何が起きたと思う? 爺さんたら、体が冷えちゃったんでしょ、下痢腹になっちゃって袴汚しちゃって」
「およよ……ビチ〇ソを漏らしたってこと?」
あこぎは顔をしかめて頷きます。
「あのいやらしい爺さん、慌てふためいて退散したわ。姫君は、典薬助との結婚話を聞いたときから、お胸を痛めて苦しんでおいでなの」
またも、あこぎは涙声になってしまいます。
帯刀は、状況の深刻さに愕然としつつも、好色な老人が下痢便で袴を汚した場面を想像すると、笑いをこらえることができません。
帯刀は真顔に戻って、
「少将殿は『早く姫君を救出して、北の方へリベンジを果たすぞ』とおっしゃっているんだ」
リベンジ。
あこぎにとっても胸熱のワードです。
「明日、大殿や北の方やほかの姫君がたは、賀茂の臨時祭を見物に、お出かけになるはずなの」
どう? と問いかけのまなざしで帯刀を見上げるあこぎです。
帯刀の顔が輝きます。
「絶好のチャンスだ! こりゃ、夜明けが待ち遠しい」
●真夜中の洗濯爺さん
真夜中です。
北側の庭の隅っこにある洗い場です。
典薬助、鼻水をすすっています。
みっともない粗相は誰にも知られてはならじ、というわけで、自分で汚れた袴を洗っているのです。
あまりの水の冷たさに、指は千切れんばかりです。
「情けないのぉ……寒いのぉ……早く火桶のそばへ戻りたいものじゃのぉ」
姫君への懸想の気持ちは、一昨日の方向へ飛び去っていきにけり、です。
ごしごし洗っても黄ばみも臭いも取れません。
「くたびれたわい」
典薬助、その場に、ばったり突っ伏します。
「もう動けん……」




