綱渡りの一夜
●あこぎ、冷静に判断する
姫君は生きた心地もしません。
「もう吐きそう……。あのご老人がまとわりついてくるのが、身の毛もよだつほどに嫌! あこぎ、私をこのまま閉じ込めて、外から鍵をかけてちょうだい。ご老人が中へ入れないように。お願い!」
「そんなふうにしては、あの爺さんが逆ギレします。今日のところは、やはり、機嫌を取っておおきなさいませ」
「…………」
「残念ながら、姫君と私は今、孤立無援状態です。右近少将の君も、嘆いているばかりで、どう動いてくださるのかわかりません。この小部屋に近づくことさえ、難しいのでしょう」
「…………」
姫君はがっくり肩を落とします。
「姫君、もうこうなったら、神頼みです。仏頼みです。いっしょにお祈りいたしましょう」
「そうね。そうするほかないわね……」
心の支えはあこぎと涙だけ。
今夜、あこぎがそばにいてくれる。
●典薬助、焼石を持ってくる
そこへ、典薬助が布にくるんだ焼石を持って、戻ってきます。
ちっ!
あこぎは舌打ちします。
戻ってこなくていいのに。
「姫君~、典薬助めがご用意いたしましたですよ。ひょひょ。これをお胸にお当てなされ」
姫君は、超絶複雑な気持ちで、焼石を受け取るのでした。
●典薬助の添い寝
「いかがかな? いかがかな? お体は温もってきましたかな? 典薬助めが、もっと温めて進ぜましょう」
などと浮かれ言いつつ、還暦の爺さん、自分の装束の紐を解いて横になり、姫君を抱き寄せます。
あこぎは、はらはらします。
爺さんの腕に抱かれた姫君は、身をよじって、
「て、典薬助殿――い、いえ、私の大切なお方さま、ちょっとお待ちになってくださいませ。だめ、だめです。おやめになって。私のこの胸の痛み、起きて押さえていたほうが、鎮まるような気がします。私のことを気遣ってくださるなら、今宵は何もなさらずに、おやすみくださいませ」
爺さんをはねのけるように、起きあがるのでした。
姫君には珍しく、額には脂汗までにじんでいます。必死です。
あこぎもディフェンス側として、アシストします。
「典薬助殿。今夜だけ、我慢なさってくださいませ。今夜だけですから。何度も申しますが、今日は姫君の忌日です。ドゥ、ナッシング。ジャスト、ステイ、ゼア。ステイ! プリーズ!」
「ふむ。ほんじゃまあ、姫君、この典薬助めに寄りかかっていてくだされ。ほれ、ほれ。遠慮はご無用ですじゃ」
典薬助はやはり横になったまま、姫君の手を取って自分のほうへ引き寄せます。体を姫君に密着させてきます。
姫君は、いやいや、典薬助に寄りかかります。
ジジイめ!
あの筋張った腕に噛みついてやろうかしら。
あこぎは典薬助を憎らしく思いますが、こっちの役に立ってもくれた、と思いなおします。
今夜、典薬助がここへ忍んできたから遣戸が開けっ放しになっていて、自分もこうして、姫君のおそばに参上できたのだ。
ほどなく。
典薬助は寝入ってしまいます。やはり、老人ですね。いびきさえかいて、熟睡です。
あこぎは考えをめぐらします。
どうあっても、姫君をお連れして、ここを出ていこう。
私も出ていくのよ、ここを。
中納言邸から脱出するのよ!
「ひょ……ひょ」
寝ぼけ声をもらして、典薬助が目を覚まします。
姫君は、ぞっとして、芝居じみた悲鳴をあげてみます。
「あーれー! 痛い! 痛い! ああ辛い。動けない。動けませんわ」
「かわいそうに。この典薬助めがおそばにいる夜にかぎって、こんなに痛がりなさるとは。こちらも辛い。まっこと、辛い」
そんなことを言ったものの、半ば夢うつつなのか、すぐにまた寝入ってくれたのでした。
●一夜が明けて
綱渡りの一夜が明けます。
姫君とあこぎは、二人して、Vサインを交換しあいます。
あこぎは典薬助を突っついて起こします。
「夜が明けましたよ~、朝ですよ~、お爺ちゃん」
「ひょ? あ……朝か」
もそもそ起き上がる典薬助です。
「早く出ていってくださいませね、このお部屋。で、しばらくのあいだ、昨夜のことはマル秘でお願いします。姫君がそう望んでおいでなので。姫君とのことを末永くとお思いでしたら、姫君のおっしゃるとおりに、なさってくださいませ」
「うむ……そうじゃな。そのようにしよう」
典薬助は寝足りないようすです。目ヤニでふさがっている両のまぶたをごしごししながら、腰もしゃっきりとは伸ばせないままに、よたよたと部屋を出ていくのでした。
(眠たかりければ、目くそ閉ぢあひたる払ひあけて、腰はうちかがまりて出でて往ぬ)
いかにも、寝起きの老人の姿ですね。マンボステップの気力はないようです。




