道頼の怒りのスイッチが入る
●落窪とは誰のこと?
縫い物などするなと道頼に言われた姫君ですが、すでに裁断されて目の前に置かれた布地を無視することもできません。
私が仕上げなければ、困る人が大勢いるでしょうし……。
姫君は針仕事を続けようとします。
すると道頼は、姫君をお姫さま抱っこして、几帳の陰に連れていってしまいます。ハグしたりキスしたり、放してくれません。
間合いの悪いことに、継母が戻ってきてしまいます。どういうわけか、ドスドスドスという足音を響かせずに。姫君のようすをこっそり覗きにきたのです。
落窪はちゃんと仕事をしているだろうか?
していなかったら、ただじゃおかない!
姫君が何をしようがしまいが、ただじゃおかない鬼ババなのですが。
家政婦は見た、のポーズで継母が室内を覗いてみると――
裁断された布地が床に広げられているだけで、落窪姫の姿は見えません。継母にとっては目障りな几帳が目に入るばかりです。
落窪のやつ、几帳の向こうで寝ているんだね!
どういうわけで、こんなに急に、ふてぶてしい真似ができるようになったんだろう!
継母はくるりと踵を返し、母屋のほうへ向かってドラ声を張り上げます。
「殿(夫の中納言のこと)! 殿! 落窪の君を叱ってやってくださいまし! 私が死にものぐるいで急いでいるのに、落窪の君ったら、ただ寝っ転がっていますのよ。見慣れない几帳を持ち込んでますわ。几帳の陰にこもりっきりでいますのよ!」
中納言は寝ぼけたような声で応じます。
「何か言ったかい? よく聞こえない。こっちへ来てくれ」
中納言、ちと耳が遠いのです。
「めんどくさい人っ!」
ぶつくさ言いながら、継母は行ってしまいます。
几帳の陰で、道頼は姫君に尋ねます。
「落窪の君とか呼んでいたね、北の方は。誰のこと?」
懼れていた瞬間が来てしまったわ!
姫君はひどく恥ずかしく、うつむいて答えます。
「……存じません」
「落窪なんて呼び名、人につけたりしないよね、ふつう。そんなふうに呼ばれて黙っているなんて、本人もよほど卑屈なのかな」
この時点で道頼も、蔵人の少将がそうであったように、変な名前で呼ばれているのはここに仕える女房の誰かなのだろう、と考えているのです。
落窪の君――現代語に敢えて訳すなら、凹んでいる君、凹んださん、でしょうか。
当時の男性の耳には、ちょっと卑猥な連想がはたらいてしまう響きがあったかもしれない、という指摘もあります。
●ダメ親父が顔を出す
「殿、ご自分で落窪の君のようすをご覧なさいまし。あれを叱りつけてやってくださいまし。早く!」
北の方にせっつかれて、中納言が落窪の間へやってきます。
がららら。
遣戸が引き開けられます。
「どういうことなんだ?」
父親の声に、姫君は急いで几帳の外へ出ます。
その直前、道頼は着物の袖をつかんで引き留めようとしたかもしれません。姫君は『今は困らせないでくださいませ』と道頼に目で哀願したのでしょう(おそらく)。
「落窪の君よ、母上がおっしゃることを聞かず、わがまま放題だそうだな。実の母親は亡いのだぞ。今の母上に気に入られないで、どうするというのだ。よそからの頼まれ仕事を優先して、母上から頼まれたものは手つかず、とか聞いたが。何を考えているんだ。蔵人の少将殿のご装束、今夜中に縫い上げなければ、もうこの家の子とも思うまいぞ!」
姫君は返事もできず、ぽろぽろと涙をこぼすばかりです。
中納言はひどい言葉を浴びせ、母屋へ戻っていきます。
●少将道頼の怒りのスイッチが入る
道頼は怒りを覚えます。中納言と北の方に。そして、自分自身にも。
落窪の君とは、姫君のことだったのか。
知らなかったとはいえ、ついさっき自分は姫君にひどいことを言ってしまった。落窪なんて呼ばれる本人が卑屈なのだろう、なんて。
継母はともかくも、実の父親までこんな残酷なことをするとは……!
中納言が実の娘を大切にしないというなら、この私が姫君を幸せにする。なんとしてでも。
中納言と北の方を見返してやる!
道頼は心に固く誓うのでした。
いよいよ、物語が動きだします。




