相棒の名前
翌朝。
律が工房の前で、小型貨物車の荷台を水で流していた。
昨日、灰猪を処理場へ運んだ時に漏れた血が、荷台の溝にまだ少し残っている。
防水シートを使った意味はあった。
ただ、完全ではなかった。
「そこ、まだ赤いぞ」
声がして、律は顔を上げた。
迅が工房の前に立っている。
「分かってる」
「昨日帰ってから洗ったんじゃなかったのか?」
「洗った」
「残ってるじゃん」
「溝に入った」
「油より面倒じゃねえか」
「父さんも同じこと言ってた」
律はブラシを押し込む。
迅は笑いながら荷台を覗き込んだ。
「で、灰猪どうなった?」
「まだ通知来てない」
昨日。
黒瀬へ戻った二人は、そのまま灰猪を市内の獣材処理場へ持ち込んだ。
変異獣は、捕ったその場で自由に食肉として売れるわけではない。
汚染。
毒性。
寄生虫。
異常組織。
処理場で検査を受け、問題がないと判断されたものだけが食肉や素材として流通する。
灰猪は珍しい種類ではない。
それでも検査は必要だった。
「肉、食えるといいな」
迅が言った。
「食べたいの?」
「いや、売値の話」
「ああ」
「お前、昨日のやつ食いたいとか思わねえの?」
「別に」
「自分で倒したやつだぞ」
「だから?」
「……お前にはそういう感覚ないんだな」
その時。
二人の端末がほぼ同時に振動した。
律が手を止める。
《黒瀬探索士協会》
《北東旧物流路・地図更新調査》
《提出された調査記録を承認しました》
《依頼達成》
《基本報酬:18,000円》
「通った」
迅も端末を見る。
「一万八千」
律の口座へ入金。
そのまま送金画面を開く。
「九千――」
「待て待て」
迅が止める。
「何?」
「もう俺も分かってるから」
「何が?」
「お前が半分送ること」
「じゃあ送る」
「止めた意味ねえな」
《送金:9,000円》
《送金先:橘迅》
迅の端末が振動した。
「はいはい、受け取りました」
その直後。
律の端末に、もう一件通知が入る。
《黒瀬獣材処理場》
「灰猪」
律が開いた。
《持込個体:灰猪》
《検査結果:食用適合》
《異常汚染:基準値以下》
《主要部位:流通可》
《皮革:利用可》
《牙:加工利用可》
《買取査定額:36,000円》
迅が律の肩越しに画面を見る。
「三万六千?」
「うん」
「結構するじゃん」
内訳も表示されている。
食肉。
皮革。
牙。
脂や骨の一部。
そこから検査と解体の処理費が差し引かれている。
最終買取額。
三万六千円。
「猪一頭でこれか」
「灰猪だから皮も売れる」
「昨日の地図調査と合わせたら?」
「五万四千円」
「二人で?」
「うん」
「一人二万七千」
「そう」
律は三万六千円の半分を迅へ送る。
《送金:18,000円》
迅が自分の端末を見る。
「昨日だけで二万七千か」
「前回より二千円少ない」
「十分だろ」
迅は少し考えた。
「灰猪でも結構稼げるなら、野良機巧探すよりこっちの方がいいんじゃね?」
「機巧の方がいい」
「金の話してんだよ」
「機巧の方が部品の当たり外れが大きい」
「そうじゃなくて」
「でも制御核が無事なら――」
「もういい」
迅が諦めた。
◇
荷台を洗い終えた頃には、車に残っていた血もほとんど落ちていた。
律がホースを片付ける。
迅は工房の入口で待っていた相棒を見る。
いつものように、何も言わず立っている。
傷だらけの古い外装。
左右で違う腕。
何度も交換された脚部。
昨日の灰猪との戦闘で増えた小さな傷もある。
迅がしばらく見ていた。
「そういやさ」
「何?」
「こいつ」
迅が相棒を指差す。
「名前なんていうの?」
「相棒」
「いや」
迅が首を振る。
「だから、名前」
「ない」
「……ない?」
「うん」
「ないの!?」
迅の声に、相棒の頭部が少しだけそちらを向いた。
「そんな驚く?」
「驚くだろ!」
「なんで?」
「お前、こいつ毎日整備してるだろ」
「うん」
「一緒に探索行ってるだろ」
「うん」
「灰猪からも守ってもらっただろ」
「うん」
「なのに名前ないの?」
「必要?」
「必要だろ!」
律は相棒を見る。
少し考える。
「相棒って呼べば分かる」
「それは名前じゃなくて関係性だ!」
「でも反応する」
「反応してんのはお前の声と指示だろ!」
律はもう一度考えた。
「じゃあ相棒でいいんじゃない?」
迅が黙る。
「……それ、もう名前になってんじゃねえか」
「そう?」
「俺、今までずっと『相棒』って名前なのかと思ってたぞ」
「じゃあ問題ないね」
「ある気がするけど、説明できねえ」
迅が相棒の肩を軽く叩いた。
「お前も大変だな」
相棒は何も答えなかった。
「ほら、困ってる」
「困る機能ないよ」
「そういうところだぞ」
◇
昼前。
迅が帰ったあと、律は作業台へ向かった。
そこには、前回の探索で持ち帰った犬型機巧の制御核が置かれている。
久世工房が買い取ったものだ。
「父さん」
「なんだ」
「これ見ていい?」
奥で作業していた誠司が顔を上げる。
「仕事としてならな」
「うん」
「壊すなよ」
「壊さない」
「その返事は信用してない」
「壊したことない」
「壊しかけたことはある」
律は聞こえなかったことにした。
制御核を解析用端末へ接続する。
電源を入れる。
《外部接続確認》
《制御系統:停止》
《記録領域:一部破損》
犬型は停機器で停止させた。
そのため制御核そのものへの損傷は小さい。
ただ、戦闘中や停止時の衝撃で、一部の記録領域は壊れていた。
律は残っているログを開いていく。
移動記録。
姿勢制御。
電池残量。
センサー異常。
見慣れた項目が並ぶ。
「普通だな……」
呟く。
さらに奥。
通信関連の記録。
律の指が止まった。
《通信履歴》
「……通信?」
犬型同士で短距離通信を行うこと自体は珍しくない。
前回も、一体目が離れたあとに他の犬型が現れた。
あれが仲間を呼んだ可能性は考えていた。
だが。
ログに残っていたのは、それだけではなかった。
《定期通信》
《位置情報更新》
《状態情報送信》
《通信完了》
一定間隔。
ほぼ同じ周期で記録されている。
律は少し前の時間まで遡った。
一日前。
二日前。
三日前。
同じだ。
「父さん」
「今度は何だ」
「これ」
誠司が近づいてくる。
律は画面を指した。
「定期的に通信してる」
「仲間と?」
「分からない」
送信先を開こうとする。
《識別情報:破損》
「相手は残ってない」
「野良同士で位置を共有してるんじゃないか?」
「それならもっと近距離通信が多いはず」
律は通信間隔を見る。
かなり規則的だった。
「何かに報告してるみたい」
誠司が画面を見る。
「何を?」
「場所と状態」
律は最後の通信までスクロールした。
日時。
場所。
電池残量。
状態。
その次。
戦闘が始まる少し前。
《位置情報更新》
《状態:稼働》
《通信完了》
そして。
その後はない。
犬型を止めた時間とほぼ一致する。
律の脳裏に、昨日見た光景が浮かぶ。
何もなくなっていた地面。
旧工業区画へ向かっていた足跡。
引きずられた痕。
「……最後の場所」
「ん?」
「残ってる」
律は位置情報を開いた。
前回、犬型を停止させた場所。
間違いない。
「こいつが止まる直前まで、場所を送ってた」
誠司が少し考える。
「なら、その通信を受けた何かが回収に来た?」
「かもしれない」
律は画面から目を離さない。
犬型の残骸は消えていた。
黒瀬へ運ばれた形跡はない。
跡は旧工業区画へ向かっていた。
迅の言葉を思い出す。
――じゃあ……野良機巧が持っていった?
「でも」
律が呟く。
「何だ」
「俺たち、あそこにしばらくいた」
「そうだな」
「回収するなら、その時に来てもよかった」
「お前らがいたから来なかったんじゃないか?」
律が誠司を見る。
「……なんで?」
「知らん」
誠司はそう言って、自分の作業へ戻った。
「分からんものを想像だけで決めつけるな」
「うん」
「分かったことだけ覚えとけ」
律は画面を見る。
分かったこと。
犬型は定期的に位置情報を送っていた。
停止する直前にも。
つまり。
少なくとも何かは。
あの犬型が最後にいた場所を知ることができた。
《位置情報更新:完了》
律はその一行を、しばらく見つめていた。




