灰猪
灰猪が地面を蹴った。
土が跳ねる。
「来る!」
迅が叫ぶ。
灰猪は頭を低くしたまま、一気に距離を詰めてきた。
律は横へ飛ぶ。
迅も反対側へ避けながら、K12を構えた。
乾いた銃声。
一発。
灰猪の肩口から血が飛んだ。
だが。
「止まらねえ!」
灰猪は勢いをほとんど落とさず、そのまま道路脇の低木へ突っ込んだ。
枝が折れる。
葉が舞う。
「当たったよ」
「見りゃ分かる!」
迅が次の弾を構える。
「効いてんのか、あれ!」
「血は出てる」
「そういう意味じゃねえ!」
灰猪が低木の向こうから姿を現した。
肩から血を流している。
それでも目は二人を捉えたままだった。
律は反射的に身体を見る。
脚。
頭部。
胴体。
犬型なら関節。
センサー。
制御核。
壊すべき場所が分かる。
だが。
灰猪には、どれもない。
「律!」
「何?」
「どこ撃てば止まる!」
「……分からない」
「さっきも聞いた!」
灰猪が再び地面を掻いた。
律は基礎学校で習ったことを思い出す。
野外危険生物。
大型獣。
変異獣。
「正面に立たない」
「それは見りゃ分かる!」
「突進した後は曲がりにくい」
「他は!」
「負傷してる個体に近づかない」
「今まさに向こうから近づいてきてんだよ!」
灰猪が走り出した。
今度は迅へ向かっている。
「迅、右!」
迅が横へ飛ぶ。
銃声。
一発。
二発。
二発目が灰猪の脇腹へ入った。
灰猪が一瞬よろめく。
だが倒れない。
「硬いな、こいつ!」
「普通の猪より皮膚が厚い」
「今説明されても困る!」
灰猪が方向を変える。
律の相棒が前へ出た。
「受けるな!」
律が叫ぶ。
相棒が止まる。
「横へ避けて!」
灰猪が突っ込む。
相棒が横へ踏み出した。
そのすぐ横を、大きな身体が駆け抜ける。
避けきった。
灰猪はそのまま、道路脇に残っていたコンクリートの残骸へ肩からぶつかった。
鈍い音。
「今!」
迅が構える。
律も腰のスリングショットへ鋼球を入れた。
狙う。
犬型のように関節は狙わない。
顔。
目。
鼻先。
何でもいい。
注意を逸らせれば。
放つ。
鋼球が灰猪の鼻先へ当たった。
「ブォッ!」
灰猪が頭を振る。
「効いた?」
「怒っただけじゃねえか?」
「たぶん」
「たぶんって言うな!」
灰猪が律を見る。
「あ」
「お前、狙われてるぞ!」
律が走る。
灰猪が追う。
速い。
予想していたよりずっと速い。
律は道路脇の太い木へ向かった。
「律、真っ直ぐ走るな!」
「分かってる!」
木の直前。
律が横へ飛ぶ。
灰猪は曲がりきれない。
木の幹すれすれを抜ける。
その瞬間。
銃声が続けて三発。
迅のK12。
一発が外れる。
一発が後脚。
最後の一発が胴体へ入った。
灰猪の脚が崩れた。
身体が傾く。
「相棒!」
律の声に反応し、機巧が踏み込んだ。
古い機巧刀を振る。
刃が灰猪の後脚へ入った。
灰猪が激しく暴れる。
「離れて!」
相棒が一歩退く。
灰猪は立ち上がろうとした。
だが後脚がうまく動かない。
前脚だけで身体を押し上げる。
迅が銃を構えた。
「撃つぞ」
律が頷く。
「うん」
銃声。
一発。
灰猪の身体が大きく跳ねた。
それでも、まだ動く。
「まだかよ……」
「生き物だから」
「機巧だって止まらねえだろ!」
「でも壊れたら止まる」
「こいつも壊れてる!」
灰猪が頭を持ち上げる。
律を見る。
鼻から荒い息。
血が地面へ落ちる。
迅がもう一度、狙いを定めた。
今度の銃声のあと。
灰猪は動かなかった。
しばらく。
二人とも近づかなかった。
「……終わった?」
迅が聞く。
「たぶん」
「たぶん多いな、今日」
律の相棒が先に近づく。
灰猪の周囲を確認する。
《生体反応:低下》
少しして。
《生体反応:なし》
「死んでる」
迅が大きく息を吐いた。
「犬型より面倒じゃねえか」
「俺は犬型の方が分かりやすい」
「それお前だけだと思うぞ」
律は灰猪へ近づいた。
改めて見る。
大きい。
体重は百キロ前後。
灰色の体毛の下では、肩周辺の皮膚がかなり厚くなっている。
迅の最初の一発も、浅い場所で止まっていた。
「皮、厚い」
「触るなよ」
「見てるだけ」
「犬型の時と同じ顔してんぞ」
「してない」
「してる」
律は灰猪の肩を少し押した。
「機巧の方が面白い」
「安心したような、してねえような」
迅が端末を取り出す。
「で、どうする?」
「何が?」
「これ」
灰猪を指す。
「売れるだろ?」
律も端末を開く。
学校で習った知識を思い返す。
「灰猪なら買い取り対象」
「肉?」
「肉と皮。牙も」
「じゃあ持って帰ろうぜ」
「重いよ」
迅は律の相棒を見る。
それから律を見る。
「車」
「あ」
「今日それ使うために来たんじゃねえのか?」
「地図調査のため」
「半分は回収のためだろ」
「……うん」
迅が灰猪を見下ろす。
「でも先に血抜きだな」
律は頷いた。
「学校で習った」
「俺も」
「模型で」
「俺もだよ」
二人は顔を見合わせた。
「できる?」
「やるしかねえだろ」
◇
周囲に他の生物がいないことを確認する。
灰猪を道路脇の少し傾斜した場所まで、相棒に運ばせた。
迅が携帯用の刃物を取り出す。
「首のところだよな」
「うん」
「間違ってねえよな?」
「教本では」
「その言い方やめろ」
律は端末で簡易的な処理手順を確認した。
基礎学校で保存していた野外対処資料が残っている。
「そこ」
「ここ?」
「もう少し下」
「お前がやれよ」
「迅の方が刃物持ってる」
「貸すぞ」
「迅の方が慣れてそう」
「俺も模型しかやってねえって!」
結局、二人で確認しながら処理した。
刃を入れる。
暗い血が流れ出す。
土へ染み込んでいく。
律は少し離れて見ていた。
「機巧なら油だな」
「今それ言う?」
「似てる」
「全然違う」
しばらく待つ。
血の流れが弱くなる。
迅が手を拭いた。
「これでいいだろ」
「たぶん」
「また言った」
律は灰猪の位置を端末へ記録した。
《回収予定物》
《灰猪 一体》
《処理済み》
「ここに置いとくの?」
迅が聞く。
「調査終わってないから」
「一回車まで運ぶ?」
律は現在地を見る。
車まで戻り、またここまで来る。
それだけでかなり時間を使う。
「帰りでいい」
「だよな」
律は灰猪を見る。
「……なくならないかな」
迅が止まる。
「何が?」
「これ」
「灰猪が?」
「犬型、なくなってたから」
迅が旧道の奥を見る。
「灰猪まで誰かが回収してたら怖えよ」
「うん」
「今の怖がるところだぞ」
「分かってる」
「なら普通に言え」
律は端末をしまった。
「行こう」
◇
調査を再開する。
灰猪との戦闘で時間は使ったが、依頼を途中で切り上げるほどではない。
旧物流路はさらに先へ続いていた。
路面は悪い。
草木も深い。
だが、人が歩けるだけの幅は残っている。
端末へ情報を追加する。
《徒歩通行:可》
《大型車両:不可》
《変異獣確認:灰猪一体》
《討伐済》
迅が画面を覗く。
「変異獣ってこういうのも地図情報になるんだな」
「生息確認だから」
「一頭だけでも?」
「近くに他にもいるかもしれない」
「それ先に言えよ」
迅が周囲を見る。
「大丈夫?」
「分からない」
「今日のお前、分からないしか言ってねえぞ」
「機巧じゃないから」
「便利な言い訳だな」
さらに一時間ほど進んだ。
途中。
倒木。
斜面崩落。
小さな水路。
通行可能な脇道。
すべて記録していく。
やがて、旧物流路そのものが大きく崩れている場所へ出た。
道路全体が谷側へ落ちている。
徒歩でも越えるのは難しい。
迅が覗き込む。
「これは無理だな」
「うん」
律は端末へ登録する。
《調査終点》
《以北:通行不能》
《大規模崩落》
《徒歩迂回路:未確認》
写真。
映像。
位置。
周辺地形。
すべて保存する。
「これで終わり?」
「依頼範囲はここまで」
「じゃあ帰れるな」
「うん」
「灰猪が待ってる」
「待ってないと思う」
「そういう意味じゃねえよ」
◇
帰り道。
灰猪は、まだそこにあった。
「ある」
律が言った。
「そりゃあるだろ」
迅が安心したように息を吐く。
「ちょっとだけ俺も心配してたけど」
相棒が灰猪を持ち上げる。
百キロ近い重量。
人間二人ではかなり厳しい。
だが機巧なら運べる。
歩行速度は落ちるものの、問題なく歩き出した。
「やっぱ便利だな」
迅が言う。
「相棒?」
「それもだけど」
「車?」
「それも」
「何?」
「機巧持ってるお前」
「貸さないよ」
「まだ何も言ってねえ」
車へ戻った頃には、日が傾き始めていた。
律は荷台の収納箱を開ける。
中には工具。
固定帯。
折り畳んだ厚手の防水シート。
「シートあるじゃん」
迅が言った。
「父さんが部品運ぶ時に使う」
「最初からこれ敷いとけよ」
「何を?」
「灰猪」
「今敷く」
「そうじゃなくて……まあいい」
二人でシートを広げる。
相棒が灰猪を荷台へ横たえた。
血抜きはしてある。
それでも傷口から少量の血が滲んでいる。
シートで包むようにして、固定帯を掛ける。
相棒は荷台の端。
灰猪は中央。
少し窮屈だ。
「これ、犬型だったらもっと楽だな」
律が言った。
「なんで比較対象が犬型なんだよ」
「形が細いから」
「知らねえよ」
最後に固定状態を確認する。
「よし」
「帰ろうぜ」
律が運転席へ乗る。
迅も助手席へ。
小型貨物車が旧道を離れた。
◇
黒瀬へ着く頃には、空が赤くなっていた。
市内網へ接続。
端末が振動する。
《探索記録を受信しました》
《北東旧物流路・地図更新調査》
《内容確認中》
「今日はすぐ通らないんだな」
迅が言う。
「地図更新は確認する項目多いからじゃない?」
「報酬一万八千だっけ」
「うん」
「九千ずつ」
「通ればね」
「それに灰猪」
「売れれば」
「昨日より稼げるかもな」
迅は満足そうだった。
久世工房へ戻る。
律が車を止める。
作業場の奥から誠司が出てきた。
「帰ったか」
「うん」
「車は?」
「壊してない」
「それは見れば――」
誠司の視線が荷台へ向く。
止まった。
「……何だ、それ」
「灰猪」
「見れば分かる」
「売れるから持ってきた」
迅が荷台から降りる。
「血抜きもしました」
「学校で習った通りに」
律も付け足す。
誠司は荷台へ近づいた。
防水シートを見る。
灰猪を見る。
固定帯を見る。
それから。
シートの端。
そこから少量の血が漏れ、荷台の床へ赤黒い筋を作っていた。
誠司が黙る。
律も見る。
「……漏れてる」
「見れば分かる」
誠司が律を見る。
「油では汚さなかったな」
「うん」
「血で汚せとは言ってない」
「言ってなかった」
「そういう意味じゃない」
迅が顔を背けた。
肩が揺れている。
「笑ってる?」
「笑ってねえ」
「笑ってる」
「お前が真顔だから悪いんだよ」
誠司がため息をついた。
「荷物降ろしたら洗え」
「うん」
「自分で」
「分かってる」
律は荷台の灰猪を見る。
初めて仕留めた変異獣。
地図調査も終わった。
売れば金になる。
それでも。
律の頭に浮かんでいたのは、別のものだった。
旧工業区画へ続いていた、あの跡。
置いてきた犬型を。
誰が持っていったのか。
灰猪は、ちゃんとそこに残っていた。
なら。
やはり、あの犬型だけが消えたのだ。




