人影
岩熊が四足に戻った。
巨大な前脚が地面を踏む。
頭を低くして、アシュラを見る。
「来る」
僕が言うと同時に、アシュラが前へ出た。
僕はその少し後ろ。
迅はさらに後方へ下がり、太い木の脇から対物ライフルを構えている。
岩熊が地面を蹴った。
巨体が一気に加速する。
速い。
あの大きさからは想像できない速度だった。
アシュラが正面から少し横へ動く。
岩熊の頭が、その動きを追った。
その瞬間。
後方から、対物ライフルの重い銃声が響いた。
岩熊の頭部が撃ち抜かれ、血と肉片が後方へ飛び散った。
巨体が勢いを失う。
前脚がもつれ、そのまま地面へ滑るように倒れた。
土が舞う。
僕はしばらく動かなかった。
「……終わり?」
「頭が見えたからな」
迅が対物ライフルを下ろしながら歩いてくる。
岩熊は動かない。
アシュラを先に近づける。
反応はなかった。
「死んでる」
「だろうな」
迅は当然みたいに言った。
二年前なら。
こんな大きな変異獣を前にしたら、どう戦うかをもっと考えていたと思う。
今は。
一発だった。
◇
岩熊のそばまで近づく。
間近で見ると、さらに大きい。
肩から背中にかけての皮膚は分厚く硬質化していて、本当に岩みたいだった。
迅が撃ち抜いた頭部は大きく損傷している。
僕はそこから視線をずらした。
「……迅」
「ん?」
「これ」
岩熊の脇腹を指す。
毛の奥に、小さく抉れた傷があった。
一つじゃない。
肩。
脇腹。
後脚の付け根。
いくつも残っている。
迅がしゃがみ込んだ。
「弾痕か?」
「たぶん」
傷口を見る。
まだ完全には塞がっていない。
周囲には乾いた血がこびりついている。
「最近だな」
「うん」
「俺ら以外にも誰か撃ってたってことか」
「ここに来る前だと思う」
岩熊が黒瀬の近くまで来た理由。
その手掛かりかもしれない。
「探索士かな」
「分からない」
これだけの岩熊を撃って。
殺さずに終わっている。
追い払ったのか。
逃げられたのか。
それも分からない。
僕は端末を取り出した。
ここなら、まだ黒瀬探索士協会へ繋がる。
回収窓口を開く。
位置情報。
回収対象――岩熊、一体。
状態――討伐済み。
必要な情報を送る。
すぐに受理の表示が返ってきた。
「これでいい?」
迅が聞く。
「うん。あとは協会が回収してくれる」
「便利になったな」
「高いけど」
「どうせ売った分から引かれるんだろ」
「うん」
回収された岩熊は協会で査定される。
そこから回収費用が差し引かれ、残った分が振り込まれる。
僕たちがここで待つ必要はない。
端末をしまう。
「調べる?」
「そのための依頼だしな」
僕たちは、岩熊が来た方向へ向かった。
◇
巨大な獣だけあって、痕跡を追うのは難しくなかった。
深く沈んだ足跡。
折れた枝。
身体を擦った跡。
どれも南へ続いている。
しばらく進んだところで、迅が一本の木を見上げた。
「これか?」
幹に、何本もの深い傷が走っている。
かなり高い位置まで届いていた。
「爪痕だと思う」
「縄張り?」
「たぶん」
周囲を調べる。
少し離れた木にも、似たような傷。
太い幹には毛も付着していた。
近くには、地面が押し潰された場所もある。
「じゃあ、この辺にいたのか?」
「そうかも」
岩熊がここを縄張りにしていた。
それなら、黒瀬近くで突然見つかったことにも説明がつく。
でも。
何かがおかしい。
僕は最初に見つけた爪痕へ戻った。
傷の表面に触れる。
「どうした?」
「新しい」
「傷が?」
「うん」
他の木も確認する。
どれも同じだった。
長い間ここを縄張りにしていたなら、もっと古い痕跡があってもいい。
でも見つかるのは、新しい傷ばかり。
毛も。
糞も。
休んだ跡もある。
ただ。
長期間ここで暮らしていたようには見えなかった。
「ここが巣じゃなかった?」
迅が聞く。
「最近ここに来たんだと思う」
「黒瀬の近くに来る前に、一回ここで止まった?」
「たぶん」
岩熊はここを新しい縄張りにしようとしていた。
でも。
その前は、さらに南にいた。
僕は足元を見る。
薄くなった足跡が、その先へ続いている。
南へ。
「まだ追う?」
「もう少しだけ」
◇
さらに進む。
道なんてない。
木々の間を抜け。
斜面を越える。
岩熊の痕跡は、少しずつ薄くなっていった。
端末を見る。
通信状態が不安定になっている。
「そろそろ圏外だな」
迅も自分の端末を見る。
「だな」
さらに進むと、通信表示が圏外へ切り替わった。
Bランク用の端末でも、どこでも通信できるわけじゃない。
山や地形。
中継設備との位置関係。
条件が悪ければ繋がらなくなる。
「どうする?」
「少しだけ進みたい」
「了解」
原因調査も依頼に含まれている。
何も分からないまま帰るには、まだ早い。
アシュラを先頭に進ませる。
その時だった。
アシュラが足を止めた。
「アシュラ?」
頭部が前方へ向く。
短距離レーダーに反応が出ている。
一つ。
いや。
複数。
「何かいる」
迅がすぐに対物ライフルへ手をかける。
「岩熊?」
「分からない」
森の中ではレーダーの精度も落ちる。
木々。
起伏。
いろんなものが邪魔をする。
ただ。
一つではない。
「近づく?」
「いや」
迅が首を振った。
「先に見る」
僕たちはその場から少し離れた。
迅が射線を取れる場所を探す。
木々の隙間から前方を確認し、対物ライフルのスコープを覗いた。
「見える?」
「ちょっと待て」
迅が黙る。
数秒。
「……人がいる」
「人?」
「ああ。何人かいる」
こんな場所に。
僕も木々の隙間を見る。
遠い。
肉眼ではよく分からない。
でも。
確かに動いている影がある。
二本脚。
一つ。
二つ。
三つ。
その少し前を。
低い四足の何かが歩いている。
「犬型?」
「多分」
探索士のパーティー。
最初はそう思った。
何人かの探索士が、犬型の機巧を連れて歩いている。
でも。
黒瀬協会から、他の探索士がこの辺りに入っているなんて聞いていない。
「迅」
「待って」
スコープを覗いたまま、迅が倍率を上げる。
「……なんだ、あの装備」
「装備?」
「見たことない」
迅が少し角度を変える。
「黒瀬のじゃない。浪華でも見た覚えがないな」
僕も気になった。
「どんなの?」
「胸と肩、それに腕と脚。かなりしっかりした防具を着けてる」
それだけなら。
どこか別の町から来た探索士という可能性もある。
でも。
迅はしばらく黙った。
「……律」
「何?」
声が少し変わった。
「あれ、人じゃないぞ」
「え?」
「映像送る」
端末に、迅が見ている映像が届く。
拡大する。
人影の一つ。
二本の脚。
二本の腕。
身体の形も。
歩き方も。
遠目なら、人間にしか見えない。
胸や肩。
前腕。
太腿。
身体の各所を防具が覆っている。
どれも見たことのない形。
手には、アサルトライフルに近い銃。
頭部には、人間が使うものによく似たヘルメット。
顔の前は、黒っぽい透明シールドで覆われていた。
迅がさらに倍率を上げる。
シールドの奥。
そこに人間の顔はなかった。
金属の骨格。
目のあるはずの位置には、二つの光学カメラ。
「……機巧?」
もう一機が歩いている。
その後ろにも。
全部同じだった。
防具を身につけ。
銃を持った。
人の形をした機巧。
その少し前を、犬型機巧が進んでいる。
僕は画面から目を離せなかった。
これまで見てきた野良機巧とは違う。
犬でも。
猪でもない。
人間と同じ形をした機巧が、武器を持って歩いている。
しかも。
一機じゃない。
まるで。
探索士のパーティーみたいに。




