8.会いたかった
「……怪我はない?」
侯爵夫人の震える声が、静かな室内に落ちる。
リシェルは目を見開いたまま固まっていた。心配、されている。…自分が?
ーーそんなはずはない。
だって母は、ずっと自分を避けていた。近づきもしなかった。なのに今の声は、まるで本当に娘を案じる母親のようで…
「リシェル?」
返事のない彼女に、侯爵夫人は不安そうに一歩踏み出し、手を伸ばしかけた。
が、リシェルが反射的に後ずさる。
「……っ」
夫人の顔色が明らかに変わった。目が潤む。行き場のなくなった手をおろし、両手を強く握っている。
クラウスはその光景を見て、奥歯を噛み締める。これは、誰か一人が悪いわけじゃない。長すぎたのだ、十八年間という距離が…。
リシェルは俯き、唇を噛んだあと迷いながらも口を開く。
「お母様に、触れると危ないので……」
リシェルが小さく言った。
侯爵夫人は息を呑む。
「そんなこと……」
「昔みたいになったら」
昔。
その言葉だけで、夫人の顔色が変わる。リシェルは俯いたまま続けた。
「セレナが死にかけて、お母様も倒れて……」
「リシェル…!」
夫人の声が震える。
「あなた、まだそんな風に……」
「私が悪いんです」
即答だった。迷いのない言葉。それが呪いのように彼女の中に根付いているのが分かる。侯爵夫人は唇を噛んだ。
…違う。本当は、違うのだ。
あの日、幼い娘はただ怖がっていただけだった。暴走したのは制御方法を誰も知らなかったから。
なのに自分達は、守るためと思って一方的に距離を置いた。
その結果、娘は『自分が愛されていない』と思い込んでしまった。夫人は唇を噛んで耐えていたが、それでも涙は堪えきれなかった。
「……ごめんなさい」
か細い声だった。
リシェルが顔を上げる。
「え……?」
「あなたを、苦しめてしまったわね……」
その言葉に、こぼれ落ちた涙に、リシェルの瞳が揺れる。クラウスは静かに二人を見守っていた。侯爵夫人は本当に娘を愛している。それは見ていれば分かる。
だがリシェルには伝わっていない。伝え方を、間違え続けたのだ。
◇
そこへ再び扉が叩かれた。
「母上?」
若い少女の声。リシェルの身体が強張る。
「セレナ……」
侯爵夫人が慌てたように振り返る。
「待ちなさい!」
だが遅かった。扉が開き、淡い金髪の少女が顔を覗かせる。
セレナ・アルヴェイン。社交界で『王都の花』と呼ばれる侯爵家次女。彼女は室内を見渡し――固まった。リシェルも動けなかった。
まともに顔を合わせるのは、何年ぶりだろう。記憶の中の妹はまだ幼かった。だが今目の前にいる少女は、美しく成長している。
紫水晶によく似た瞳だけが、昔のままだった。
「……お姉様」
ぽつりと零れた声。
リシェルの胸が締めつけられる。セレナは幼い頃から身体が弱かった。自分のせいで、死にかけた。だから会ってはいけない。ずっとそう思ってきた。
「入ってはいけません!」
思わず声を上げる。
セレナがびくっと肩を震わせた。
「危ないから……!」
リシェルは青ざめながら後退るが、セレナは逃げなかった。
むしろ、泣きそうな顔で彼女を見つめている。
「……やっと会えたのに」
小さな呟き。
リシェルが目を見開く。
「え……?」
「ずっと、会いたかったのに……」
その瞬間、リシェルの思考が止まった。会いたかった?………私に?
セレナは俯き、ぎゅっとスカートを握る。
「お姉様、私のこと嫌いなんだと思ってた…」
震える声。
「だから、近づいちゃ駄目なんだって……」
侯爵夫人が眉間にしわを寄せて目を固く閉じた。違う。本当は違う。だが幼かったセレナには説明できなかった。
だから、『姉に近づくな』という命令だけが残った。だから妹は、姉に拒絶されたのだと思い込んでいた。
リシェルの唇が震える。
「そんな、こと……」
「違うの?」
セレナが不安そうに見上げる。リシェルは言葉を失った。嫌いなわけがない。ずっと大好きだった。
でもーー、
近づけば、傷つけるから。
だから距離を置いていた。
「私は……」
声が掠れる。
「セレナを守りたかっただけで……」
言い終わらないうちにセレナの瞳から涙が溢れた。
「じゃあ、お姉様も会いたかったの……?」
泣きながら問われる。
リシェルは、もう耐えられなかった。
「………会いたかった」
ぽろりと涙が零れる。
「ずっと……ずっと、会いたかった……!」
次の瞬間。
セレナが駆け出した。
「セレナ!!」
侯爵夫人が叫ぶ。だが妹は止まらない。勢いよくリシェルへ抱きついた。リシェルの身体が強張る。
「駄目……っ!」
魔力が暴走する、セレナを傷つけてしまう…!
また、あの日みたいに……!!!
ーーーけれど。
何も起こらなかった。
ただ、温かかった。細い腕。震える身体。泣き声。セレナは必死に姉へしがみついていた。
「お姉様ぁ……!」
その声を聞いたリシェルは崩れるように妹を抱き締め返した。長い長い孤独が、少しずつ溶けていくようだった。




