7.怖くない
「……どうして」
ぽろぽろと涙を零しながら、リシェルは震える声を漏らした。
「ど…、して、平気なんですか……」
クラウスはまだ彼女の手を握っていた。
暴走しかけていた魔力は完全に落ち着いている。
室内に浮かんでいた家具も、いつの間にか静かに元の位置へ戻っていた。
クラウスはゆっくり息を吐く。
「俺にも分からない」
正直な答えだった。
普通なら、あの魔力に当てられていてもおかしくない。だが彼には何の異常もなかった。
むしろーー。
彼女に触れていると、不思議なほど心が落ち着く。
「…怖く、ないんですか」
リシェルが小さく尋ねる。
その瞳には怯えが滲んでいた。拒絶されることを恐れている。
クラウスは胸が痛くなった。
…今までどれだけ傷ついてきたのだろう。もう彼女にそんな思いをさせたくない。手を強く握り、震えそうになる声を抑えて答えた。
「怖くない」
「でも……!」
「君は必死に抑えようとしていただろう」
リシェルが目を瞠る。
「人を傷つけたくなくて、ずっと耐えてきた」
「…………」
「そんな人間を、どうして怖がれる」
リシェルの唇が震えた。何かを言おうとして、言葉にならない。
クラウスはそっと彼女の頭を撫でた。びくりと肩が揺れる。けれど逃げなかった。
むしろ、恐る恐るその手の温もりを受け入れている。
「リシェル」
低く優しい声。
「君は一人で頑張りすぎだ」
その優しい声に、手の温かさに、リシェルの中で、張り詰めていたものがぷつりと切れた。ぽろぽろと零れていた涙が止まらなくなる。
「っ……」
声を殺すように俯く。泣いてはいけないと思った。こんな風に優しくされたくらいで、縋ってはいけない。でも…もう限界だった。
「……怖かった」
ぽつりと零れた本音。
「また誰かを傷つけるのが、怖いんです……」
幼い日の記憶が蘇る。
泣き叫ぶ使用人、倒れた母。 意識を失っているセレナ。
自分のせいで。
全部、自分のせいで。
「だから、皆が私を避けるのは当然で……」
「違う」
クラウスが遮る。
リシェルが顔を上げた。
彼の群青の瞳は真っ直ぐだった。
「君は勘違いをしている。少なくとも、君の家族は違う」
「……え?」
クラウスは確信していた。侯爵夫妻の態度や北棟の厳重な結界、常駐する医師。
あれは憎しみではない。むしろ、守ろうとしている人間の行動だ。
「君の両親は、君を嫌っているようには見えない」
リシェルは困惑したように首を振る。
「そんなこと……」
「母親が、娘の話をする時に泣きそうな顔をするか?」
リシェルが固まる。
「父親が、北棟にあれだけ強力な結界を張るか?」
「それは、私が危険だから……」
「違う」
クラウスは静かに言った。
「君を奪われたくないんだろう」
リシェルの呼吸が止まる。
…奪われる?
意味が分からなかった。
だがクラウスはそれ以上言わなかった。まだ、確証がない。中途半端なことを言って期待させたくなかった。ただ、彼女がずっと誤解していること、このままでいいわけがないことは分かっていた。
◇
その時。
コンコン、と控えめなノック音が響いた。
「……リシェル?」
女性の声。
リシェルの表情が強張る。
「お母様……?」
クラウスは目を細めた。
侯爵夫人が北棟へ来るのはよほど珍しいのだろう、リシェルの様子で分かった。
「入ってもよろしいかしら」
扉越しの声はどこかうわずっている。
リシェルは慌てて涙を拭った。
「は、はい……」
扉がゆっくり開く。
現れた侯爵夫人は、室内の様子を見た瞬間、顔色を変えた。
「……っ!」
割れた窓、乱れた空気。 泣いているリシェル。
そして、その傍に立つクラウス。
夫人の表情に動揺が走る。
「リシェル、暴走したの……!?」
青ざめた声だった。
リシェルは反射的に一歩下がる。
「ご、ごめんなさい……!」
謝罪。
それが最初に出る。
侯爵夫人の顔が苦痛に歪んだ。
「違うの、責めたいわけじゃ……!」
だがリシェルは俯いたまま。
クラウスはその光景を見て、胸が痛んだ。互いに大切に思っているのに、こんなにも噛み合っていない。
「奥様」
クラウスが静かに口を開く。
「リシェルは誰も傷つけていません」
侯爵夫人が目を見開く。
「……え?」
「俺が止めました」
夫人は信じられないものを見るように、クラウスを見た。
「止めた……?」
「はい」
「そんな、馬鹿な………」
リシェルの暴走を、他人が抑えたーー?
今まで誰にも出来なかったのに。夫にも。王宮魔術師にも。何をしても駄目だったのに…。侯爵夫人の瞳が震える。
やがて彼女は、泣きそうな顔でリシェルを見つめた。
「……怪我はない?」
その声は、とても優しく、リシェルは目を瞬かせる。本当に心配している声音だった。




