6.はじめての涙
翌朝。
クラウスは王都の騎士団本部に戻っていた。だが執務机に向かっていても、書類の内容が全く頭に入ってこない。
「副団長」
「……何だ」
「先ほどから同じ書類を三回読み返しています」
副官のエドガーが呆れた顔をする。
クラウスは眉間を押さえた。
「疲れているだけだ」
「女性関係ですか?」
「…違う」
「図星ですね」
「違うと言っている」
即答したものの、説得力はなかった。
エドガーは面白そうに笑う。
「珍しいですね。女性に興味がないことで有名な副団長が」
「……うるさい」
「それで?どんな方なんです?」
クラウスはしばらく黙っていた。
頭に浮かぶのは、藤色のドレスを抱き締めていたリシェルの姿。
褒められ慣れていない顔。怯えるような瞳。少し笑った時の柔らかな表情。思い出すだけで胸が妙にざわつく。
「……放っておけない人だ」
ぽつりと漏らす。
エドガーは目を丸くした。
「へえ」
「何だその顔は」
「いえ、副団長がそういう言い方をするの、初めて聞いたので」
クラウスは自分でもそう思う。今まで恋愛に興味などなかった。政略結婚の話はいくらでも来たが、全て断ってきた。誰を見ても心が動かなかったからだ。
だがリシェルだけは違う。
会うたびに気になった。放っておけない、あの遠慮がちな笑顔をもっと見たいと思う。
「……面倒だな」
「…重症ですね」
「黙れ」
◇
その日の午後。
クラウスは王宮図書館を訪れていた。
目的は一つ。リシェルの特殊能力について調べるためだ。昨日、北棟で感じた異常な魔力。そしてリシェルの『私が危険だから』という言葉。全てがここにあるような気がした。
禁書区画に近い古い資料棚を漁っていると、一冊の文献が目に留まる。
『特殊魔力保持者に関する記録』
クラウスは眉をひそめながらページをめくった。
そこに記されていた単語に、視線が止まる。
『魔喰い』
「……!」
思わず息を呑む。
古い記録によれば、魔喰いとは極めて稀な特殊体質で、周囲の魔力を無意識に吸収し、膨大な力へ変換する存在。その危険性から、過去には王家が管理対象としていた。
さらに読み進める。
『感情変動により暴走する危険性あり』
『孤独、恐怖、自己否定によって魔力増幅』
『暴走時、周囲生命体への影響大』
クラウスの表情が険しくなる。
ーー孤独。 ーー自己否定。
まるでリシェルそのものではないか。
「まさか……」
侯爵家は彼女を閉じ込めていたのではなく、守っていたのか…?
だが、あんなやり方で?クラウスは奥歯を噛み締める。
もし本当にそうだとしても、リシェルは傷ついていた。十八年間ずっと、一人で。
そこでふと、思い出す。昨日感じた異常な魔力は…
ーーもしかして…!
クラウスは急いで侯爵家へと戻った。
◇
その頃、北棟では。
リシェルが藤色のドレスを前に固まっていた。
「……綺麗」
思わず漏れた声。
こんな美しい服を、自分のために贈られたことなど一度もない。
そっと触れる。
柔らかい。壊れてしまいそうなくらい繊細だ。
「私なんかが着たら……」
その時だった。
ぶわり、と空気が揺れる。
「っ……!」
リシェルの表情が変わった。
胸の奥が熱い。
ーーこれは感情が不安定になる時の感覚だ。
慌てて息を整える。
「だ、大丈夫……」
だが指先から淡い銀光が漏れ始め、机の上の羽ペンが、ひとりでに浮いた。
本棚が震え、窓ガラスに亀裂が走る。
ちょうどその頃、侯爵家へ戻ったクラウスは、北棟の前で足を止めた。ぞくり、と背筋が粟立つ。あの異様な魔力だ。
「……リシェル!」
次の瞬間には駆け出していた。
◇
「……っ!」
リシェルは唇を噛んだ。
怖い、駄目、落ち着かなければ。昔みたいに暴走したら…怖い、どうしよう、お願い落ち着いて…!
だが、その願いもむなしく抑えられないほど暴走しはじめていたーー
その瞬間。
ガチャッ!!
勢いよく扉が開いた。
「リシェル!!」
飛び込んできたのはクラウスだった。彼は息を切らしながら彼女を見る。
室内に渦巻く異常な魔力、浮かぶ家具。青ざめたリシェル。
昼間見た『魔喰い』が脳裏をよぎる。
「落ち着け」
彼は迷わず彼女へ近づく。
「来ないでください!!」
リシェルが叫ぶ。
「危ないです!」
「君は俺を傷つけない」
「そんな保証ありません!」
涙声だった。
…怖い。
また誰かを傷つけるのが。また拒絶されるのが。
クラウスは真正面から彼女を見つめた。
「リシェル」
低く、穏やかな声。
「俺を見ろ」
リシェルの瞳が揺れる。
「…大丈夫だ」
クラウスはそっと彼女の手を掴んだ。
その瞬間。
暴れていた魔力が、ぴたりと静まった。部屋から沈黙が落ちる。
リシェルは呆然と目を見開いた。
「……え?」
幼い頃から何度も暴走し、皆を傷つけてきた。
父も、魔術師も、結界さえも止められなかったのだ。
ーーなのに。
クラウスが触れただけで、魔力が落ち着いた。
クラウス自身も驚いていた。だが彼はゆっくり微笑む。
「ほら、大丈夫だった」
その笑顔を見た瞬間。
リシェルの瞳から涙が溢れる。
ーーどうして。どうしてこの人は、こんなにも怖がらないのだろう。
初めてだった。
暴走する自分を見て逃げなかった人は。




