5.知らなかった言葉
その日の夕方。
リシェルは一人、北棟の書庫に籠もっていた。高い本棚に囲まれた薄暗い部屋だ。幼い頃から、ここは彼女の世界だった。
本は裏切らない。どれだけ読んでも嫌な顔をされないし、触れても怯えられない。だからリシェルは本が好きだった。
今日も魔術理論書を読もうと開いていたが、視線はほとんど文字を追っていない。
頭に浮かぶのは、昼間の会話ばかりだ。
『君に会いたい』
思い出した瞬間、顔が熱くなる。
「……何を考えているのでしょう、私は」
ぽすりと机へ額を押しつける。
クラウスはきっと、誰にでも優しい人なのだ…騎士として、貴族として。
だから孤立している自分にも気を遣ってくれているだけ。そう理解しているのに、胸の奥が、妙に落ち着かなかった。
こんな感覚は初めてだった。
◇
コンコン。
不意に扉が叩かれる。
リシェルは慌てて姿勢を正した。
「はい」
「失礼いたします」
入ってきたのは侍女のマリーだった。
だがいつもと様子が違う。どこか困ったような、落ち着かない顔をしている。
「どうしました?」
「…お客様です」
「お客様?」
北棟に?
リシェルが目を瞬かせていると、扉の向こうから聞き慣れた声がした。
「入ってもいいか?」
「クラウス様!?」
驚いて立ち上がる。
するとクラウスが大きな箱を抱えて現れた。
リシェルは完全に固まる。
「ど、どうしてここに……」
「渡したい物があってな」
そう言って彼は箱を机へ置いた。
リシェルは恐る恐る蓋を開ける。
「……!」
中には、淡い藤色のドレスが入っていた。柔らかな生地に繊細な刺繍。まるで月光のように美しい装飾。一目で高級品だと分かる。
リシェルは息を呑んだ。
「こ、これは……」
「王都で見つけた」
「え?」
「君の瞳と同じ色だったから」
「…?」
リシェルが首を小さく傾げる。
「君に似合うと思って」
「わ、私に!?」
声が裏返る。
クラウスは当然のように頷いた。
「問題あるか?」
「ありすぎます!」
リシェルは慌てて箱を閉じようとする。
「こんな高価な物、いただけません!」
「何故?」
「何故って……!」
理由など山ほどある。そもそも自分は社交界にも出ないのだから、ドレスを着る機会などない。何より、自分には似合わない。
「私は北棟から出ませんし……」
「なら俺の前で着ればいい」
「……え?」
あまりにも自然に言われ、リシェルの思考が止まる。
クラウスは少し眉を寄せた。
「嫌か?」
「い、嫌とかではなく……!」
問題はそこではない。
クラウスの言葉は、いつも近すぎる。
リシェルは混乱しながら俯いた。
「……私には、似合わないです」
「なぜ?」
「私は、呪われた令嬢ですから…」
その瞬間ーー
空気が変わった。
クラウスの表情が、すっと消える。
「それ」
低い声。
「誰に言われた?」
リシェルが顔を上げる。
「え……?」
「君はずっと、自分を否定している」
静かな怒りが滲んでいた。
リシェルは戸惑う。
「そんなこと……」
「ある」
クラウスは真っ直ぐ彼女を見つめた。
「…君は、誰より優しい」
リシェルの呼吸が止まる。
「優しくて、賢くて、努力家だ。見返りも求めずに人を助ける」
「や、やめてください……」
「何故やめる必要がある」
「そんなこと、言われたことありません……!」
叫ぶように言った瞬間、部屋が静まり返った。リシェル自身も、何を言ったのか理解して慌てて口を押さえる。だがもう遅い。
クラウスは痛ましそうに目を細めていた。
「……そうか」
その言い方が、声色が、妙に優しかった。
リシェルの胸が締めつけられる。どうしてそんな顔をするのだろう。まるで自分のことのように苦しそうに。
「リシェル」
クラウスが静かに彼女の名を呼ぶ。
「君をそんな風に思わせた奴がいるなら、腹が立つ」
リシェルは目を見開いた。
その言葉に込められた感情が、あまりにも真っ直ぐで胸の奥が熱くなる。こんな風に怒ってくれる人が、この世にいるなんて思わなかった。
◇
その夜。
クラウスは帰り際、ふと北棟の廊下で足を止めた。
魔力の気配。
微弱だが、異様に濃い。ぞくりと肌が粟立つ。
「……何だ、この魔力」
騎士として数々の魔物と対峙してきたが、こんな感覚は初めてだった。
禍々しいわけではなく、むしろ澄み切っている。なのに、本能が警鐘を鳴らす。危険だ、と。
クラウスはゆっくり振り返る。
視線の先…閉ざされた書庫の扉の向こうから、その魔力は漏れていた。
ーーリシェルだ。
彼女自身は気づいていないのかもしれない。
だが。
「……君は一体、何なんだ」




