53.家族というもの
夜が更けても、アルヴェイン侯爵家の本館は明るかった。社交界から戻ったリシェルは、少し疲れた顔で玄関ホールに立つ。だが、その疲れは以前とは違い、どこか満たされた疲れだった。
「お姉様!」
先に到着していたセレナが駆け寄ってくる。その勢いのまま、ほぼ抱きつくように腕を掴んだ。
「すごかったですね、今日のクラウス様!」
「おい、本人目の前にいるぞ」
クラウスが鋭い目で言うがどこ吹く風のセレナ。
「完全に公開溺愛でしたね!!会場ざわついてましたよね!?」
「ざわついてたわね……」
「別にどうでもいい」
リシェルは苦笑する。耳までまだ熱い。
その後ろから、侯爵夫人が静かに歩いてきて、何も言わずリシェルを抱きしめた。
「……おかえりなさい」
その一言だけ。
リシェルは目を瞬く。
「ただいま、お母様……」
声が少し震える。
続いて、侯爵がぎこちなく前に出る。普段の威厳ある姿はどこへやら、視線が泳いでいる。
「………その」
「お父様?」
「……………疲れていないか」
それだけ言うのに、やけに時間がかかった。リシェルは一瞬きょとんとし、そして、ふっと笑った。
「少しだけ」
「そうか」
侯爵はそれ以上何も言わない。だが、その目は明らかに安堵していた。
◇
その夜の北棟。
かつて孤独の象徴だった場所に、家族が自然に集まっていた。テーブルには温かい紅茶に焼き菓子。誰かが置いた花。
セレナはソファに座りながら、興奮気味に今日の話を繰り返す。
「それでクラウス様が!もう一歩も離れなくて!」
「セレナ、それさっきも聞いたわ」
「何回でも言えます!」
「……落ち着きなさい」
侯爵がため息をつく。だが、その声は柔らかい。リシェルはその様子を見ながら、そっと紅茶を口にした。温かい…。昔の北棟では考えられなかった温度だった。
「……変わりましたね」
ぽつりと呟く。
セレナがすぐ反応する。
「お姉様が?」
「ううん、この家が」
少し間。
侯爵夫人が静かに頷いた。
「あなたが変えてくれたのよ」
「私が……?」
リシェルは首を振る。
「そんなこと……」
「ある」
侯爵が短く言った。
珍しい断言だった。
「お前が生きていてくれたから、この家はようやく家族になれた。
ーーー生きていてくれて、本当に良かっ…」
侯爵の震える声に、リシェルは言葉を失う。
ずっと。
自分は厄介な存在だと思っていた。守られるべきで、距離を置かれるべきで。
でも、今は違う。
セレナが笑い、母が寄り添い。
父が不器用に心配し。
そしてーー、クラウスがいる。
リシェルは小さく息を吐いた。
「……私、ここにいていいんですね」
その言葉に、部屋が静まる。侯爵夫人がすぐに答えた。
「当たり前でしょう」
セレナも強く頷く。
「お姉様いない家なんて嫌です!」
侯爵は少しだけ目を伏せてから言った。
「……今さら何を言っている」
それが答えだった。リシェルの胸が熱くなる。
その頃、窓の外では、庭に立つクラウスが、静かに北棟を見上げていた。中から漏れる明かり。笑い声。穏やかな空気。
彼は小さく息を吐く。
「……守る場所、か」
剣の柄に手を置く。守りたいものが、そこにある。クラウスは短く呟いた。
「悪くないな」
そして北棟へ向かう。
その足取りは、戦場へ向かう時よりも静かで、ずっと確かなものだった。
◇
夜明け前の北棟の庭は、まだ冷たい空気に包まれていた。薄く霧がかかり、薬草園の葉には水滴が光っている。リシェルはその中をゆっくり歩いていた。裸足ではないのに、土の感触がやけに近く感じる。
昔、この庭だけが唯一の世界だった。誰にも拒絶されない場所。
ただ静かに、自分を受け入れてくれる場所。
「……ここは何も変ってないのに」
小さく呟く。
でも違う。今はもう、ここは閉じ込められる場所ではない。戻ってくる場所になっている。
「リシェル」
背後から声。振り返ると、クラウスが立っていた。外套を羽織り、朝の冷気の中でもまったく揺るがない姿。
「起きるの早いですね」
「君もだろ」
笑いながらの即答にリシェルはも少し笑う。二人で並んで薬草園を見る。しばらく沈黙。
でも、その沈黙はもう怖くない。
「……クラウス様」
「何だ」
「北棟、好きですか?」
唐突な質問だった。
クラウスは一瞬考え、それから答える。
「…前は、あまりいい印象はなかったな」
「今は?」
「悪くない」
リシェルはくすっと笑う。クラウスは少しだけ視線を横に向ける。
「君がいるからだ」
その一言に、リシェルの胸が温かくなる。
ずるいな、と思う。いつもこの人の言葉は真っ直ぐすぎる。
少し間を置いて、リシェルは小さく息を吸った。
「私」
クラウスが視線を向ける。
「昔はずっと、ここから出たかったんです。閉じ込められてると思ってたし、…ずっと、怖かったんです」
「…だろうな」
「でも今は……」
言葉が止まる。
少し迷って、それから続けた。
「出てもいいし、戻ってもいい場所だと思えるんです。まだ、怖い事もありますがーー
…クラウス様が、いてくれるから。一人じゃないから、大丈夫。そう思えるんです」
クラウスは何も言わず、ただ静かに聞いていたが、ふっと微笑む。
「…そうか」
風が吹く。薬草の葉が揺れる。遠くで鳥が鳴いた。リシェルはふと空を見上げる。昔は、ただ閉じているだけだった世界が、今は違う。開いている。
怖さもある。でも、その向こうに確かに“未来”がある。
その時、クラウスがぽつりと言った。
「婚約の話、そろそろ詰めるか」
「……え?」
リシェルが固まる。
クラウスはまったく動じない。
「王宮も落ち着いたし、このままじゃ有耶無耶になりそうだしな」
「え、あの、え?」
完全に思考が追いついていない。
クラウスは少しだけ眉を下げ首を傾げる。
「嫌か?」
「そ、そういう問題じゃなくて……!」
顔が一気に赤くなる。そんな顔をするなんてずるい。クラウスは真面目な顔をして言う。
「じゃあ問題ないな」
「問題はあります!!」
珍しく大声。
クラウスは口元を緩めた。
「……逃がすつもりはない」
「それ、宣言なんですか……?」
「当然だ」
リシェルは顔を真っ赤にしながら、でも、どこか嬉しかった。その強引さが、今はただ嬉しい。
◇
その日の午後、北棟には再び人が集まっていた。侯爵家、クラウス、セレナ、グレイ。そして婚約の正式な手続きに向けた準備。慌ただしいはずなのに、どこか穏やかだった。リシェルはそれを見ながら、静かに思う。
私はもう、選べるんだ…。閉じることも、開くことも。逃げることも、進むことも。そのどちらでもいい世界にいる。
そしてその隣には、クラウスがいつもいる。リシェルはそっと微笑んだ。ただの、一人の人間として。
その未来へ、歩き出していた。
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