52.幻の令嬢と動き出した時間
馬車が二台、会場の前で止まった。
扉が開くと、まず侯爵が降りる。続いて侯爵夫人、そしてセレナ。侯爵家の宝石の登場に騒めく周囲。
もう一台の馬車からクラウスが降りると、彼は迷うことなく扉へ手を伸ばした。その姿に注目が集まる。
その手を取って、最後にリシェルが降りる。姿を現した瞬間ーー空気が変わった。
一瞬の静寂。そして、ざわめき。
「…見た事ないわね。どなた?」
「……本当にいたのね。アルヴェイン家の長女よ」
「綺麗……」
「でも、あの人が……?」
リシェルのドレスは淡い青。クラウスの瞳と同じ色だった。以前クラウスから贈られたドレスでいいと言い張ったリシェルに、彼は何も言わず新しいドレスを用意していた。
そのことを知ったセレナと侯爵夫人に散々揶揄われたのは、言うまでもない。
北棟で過ごしていた頃とは違う、外へ出るための装い。けれど、一番変わったのはーーその表情だった。
以前のような怯えはない。少し緊張はしているが、それでもリシェルは、まっすぐ前を見ていた。その隣にクラウスが並ぶ。
それだけで、またざわめきが広がった。
「ヴァルク卿と……」
「まさか護衛?」
「いや……距離が近すぎない?」
色々な会話がリシェルの耳にも届くが、クラウスは周囲の視線など全く気にしていなかった。ただ、リシェルを見ている。
「大丈夫か」
「……はい」
短い言葉とまっすぐな視線。たったそれだけで、リシェルの胸に少しだけ余裕が戻る。
会場へ向かって歩き出すと、貴族たちが一斉に道を開けた。まるで、触れてはいけないものを見るように。
リシェルの足が、ほんの一瞬だけ止まる。怖い。足が震えそうになった。
けれどーー
手が、そっと握られる。クラウスの手。強くはない。ただ、離れない程度の確かさがある。リシェルは小さく息を吸い直した。
そして、自分の足で歩き出した。
◇
「アルヴェイン侯爵家令嬢、リシェル・アルヴェイン様の入場です」
司会の声が響く。
再び、無数の視線が集まった。
「あれが噂の……」
「本当に無害なのか?」
「魔術院が狙っていた存在だと聞いていたが」
「誤報だったという話もあるわ」
「ヴァルク卿がエスコートしている姿を初めて見ましたわ」
様々な声が飛び交う。リシェルは一度だけクラウスを見る。
「……随分と騒がれているな」
「…目立ってます」
「今更だろ」
にやりと笑うクラウスに、リシェルが小さく笑った。
その瞬間。
「今、笑った?」
「……普通の女の子だ」
「怖く……ないのか?」
ざわめきの質が、ほんの少し変わった。そのことに気づいたクラウスが静かに言う。
「見ろ」
「……?」
「お前を見ている」
リシェルは意味が分からず、首を傾げる。
「今までとは違う視線だ」
クラウスは、リシェルから視線を外さない。
「お前を魔喰いとしてしか見ない人間ばかりじゃない」
胸の奥が熱くなる。リシェルは小さく頷いた。
◇
「王太子殿下、アレクシス・フォン・アルディア様の入場です!」
司会の声と同時に、会場がざわついた。本来なら、国王夫妻が姿を見せた後に王太子が入場するはずだった。
しかしーー国王の姿がない。当然、王妃の姿も。
アレクシスが壇上へ上がると、会場が静まり返った。
「皆の者。まず、伝えておくべきことがある」
アレクシスは一度、会場を見渡した。
「本日をもって、私は父王より王位を継承する」
どよめきが起こる。だが、アレクシスはそれを制するように続けた。
「突然のことで混乱させて済まない。だが、これには理由がある」
そして語られたのは、十八年前の王都魔力災害についてだった。
あれは事故ではなかった。国を守るために始められた魔喰いの研究。その研究が暴走し、いつしか非人道的な研究にまで発展してしまった事、その結果多くの人々を巻き込んだこと。研究を主導していた魔術師たちは、すでに捕縛されていること。
そして、その責任を取り、国王は退位したこと。
会場の空気が重くなる。やがてアレクシスは、リシェルへ視線を向けた。
「そしてーーここにいるリシェル・アルヴェインもまた、魔喰いであることを理由に研究の対象とされかけていた」
息を呑む音が聞こえた。無数の視線が、再びリシェルへ向けられる。胸が締め付けられる。
俯きそうになった、その時。隣にいるクラウスの手が、そっとリシェルのエスコートされている手に重なる。リシェルはクラウスを見る。その瞳には、何の恐れもない。ただ、いつものように自分を見つめて優しく微笑んでいる。
リシェルはゆっくりと顔を上げた。
「だが、彼女は誰かを傷つけるために力を持っているわけではない」
アレクシスの声が響く。
「ーー十八年前の災害を引き起こしたのは、魔喰いではない。魔喰いの力を己のために利用しようと酷い事をした人間だ」
静かな声だった。
「いつの時代もそうだが、力そのものが危険なのではない。それを利用しようとする人間の方が余程危険だ」
誰も口を挟まなかった。
「魔喰いというだけで恐れないでほしい。実際に彼女は人を傷付ける事を何より嫌がる、一人の優しい女性だ。王家は、彼女を守ると決めている。二度とあのような悲劇は繰り返させない。王家を代表して、リシェル嬢はじめ皆に謝罪を。本当に、申し訳なかった」
深く頭を下げるアレクシス。
しばしの沈黙。
やがてーー
ぱち。
一人の貴族が、手を叩いた。
それをきっかけに、少しずつ拍手が広がっていく。
リシェルは涙を堪え、ただ、クラウスの手をそっと握り返した。
◇
その夜、社交界の空気が、少しだけ変わった。以前のような恐れだけではない好奇心、戸惑い、そして、遠慮がちな視線。そんな中でもリシェルのもとへ、少しずつ人が集まり始めていた。
「リシェル様、王太子殿下とも親しくお話ししているわ」
「セレナ様のお姉様なのね……」
「魔喰いって、もっと恐ろしいものだと思っていました」
そんな声が聞こえる。
リシェルはまだ緊張していた。けれど、もう逃げたいとは思わなかった。
その時。
「お久しぶりですわ」
声をかけてきたのは、ミレイナだった。
「……!」
リシェルの顔が固まる。一度、逃げてしまった相手だ。
「初めまして……ではないですわね。一度、お会いいたしましたもの」
どう答えればいいのか分からず、リシェルが困っていると、
「ミレイナ、何の用だ」
クラウスが横から口を挟んだ。
「あら、冷たいですわね」
ミレイナが笑う。
「氷の副団長様が恋に落ちたと、もっぱらの噂ですもの。どうやら噂は本当のようですわね。あの無愛想で無骨なクラウス様が好きになった女性がどんな方か気になるのは当然ですわ」
「……好きに言ってくれて構わない」
「まあ。聞きました?お父様」
「ああ。あまりからかってやるな」
目を丸くしたミレイナが話しかけた相手は、いつの間にか側に来ていたジークフリートだ。クスクスと笑っている。
「お父様……?」
「ああ。ミレイナは私の娘だ。クラウス君とは幼馴染だ。お前たち、顔見知りだったのか?」
「あ、あああの、その節は…」
「ふふ。だから安心してくださいね」
思い出して顔が青くなったり赤くなったりするリシェル。その反応に、セレナが楽しそうに笑った。
「お姉様、よかったですね」
「な、何がです?!」
「私とも仲良くしてくださいね、リシェル様」
ミレイナが微笑む。
「よかったら、今度遊びにいらしてくださいな。クラウスの幼い頃のお話でもしましょう」
「ぜひ……!」
リシェルが食いついた。
「やめてくれ」
即答するクラウス。思わず、皆が笑った。リシェルも笑う。その笑顔を、クラウスは愛おしそうに静かに見つめていた。
◇
その後も色んな貴族からの挨拶を受けているリシェル達とは少し離れた場所では。
「……あれは護衛なのか?」
侯爵が額に手をあて呟いた。
少し離れた場所では、クラウスがリシェルのグラスを確認している。誰かが近づけば、自然と二人の間に入る。リシェルが何かを話せば、周囲の喧騒など存在しないかのように耳を傾け微笑む。
グレイは答えず、ただただ苦笑いをしていた。侯爵夫人が小さく息を吐く。
「……あの子、本当に分かりやすいわね」
その隣では、セレナが満面の笑みを浮かべている。
「お姉様、守られてますね!」
「……守られている、というより……」
侯爵は深く長いため息をつく。
その夜、社交界に、新しい噂が生まれた。アルヴェイン侯爵令嬢は、噂されていたような恐ろしい令嬢ではない。
むしろ――
「普通に可愛らしい方だったわ」
「ええ。それに……」
そこで、令嬢の一人が声を潜める。
「ヴァルク卿って、リシェル様を見ている時だけ、全然違う顔をするのね」
「……それ、私も思いましたわ」
そしてもう一つ。新たな噂が、瞬く間に広がっていった。
ーー氷の副団長には、溺愛している令嬢がいるらしい、と。




