35.愛してる
リシェルが泣き疲れて眠ったのは、空が白み始めた頃だった。クラウスは椅子に腰掛けたまま、静かに寝息を立てる彼女を見つめていた。
泣き腫らした目。
涙の跡。
けれど、その表情はどこか穏やかだった。
ーー十八年間。
彼女はずっと怯えて生きてきた。愛されたいと願うことすら罪だと思い込みながら。
怯えた目。震える手。
全てを諦めたような表情。
クラウスは拳を握る。胸の奥が痛かった。怒りだった、彼女をここまで追い詰めたもの全てへの。
彼女は何も悪いことをしてない。それなのに、何故…。どこに怒りをぶつけたらいいかすら分からず、ただ、苦しかった。
だが同時に、それ以上の感情が胸を満たしていた。
……愛しい。
ただ、その一言に尽きた。薬草を触る時の優しい指先。誰かを傷つけないよう怯える不器用さ。褒められるたび信じられない顔をするところ。少しずつ笑えるようになったところ。真っ赤な顔。
全部。
全部、愛しかった。
「……俺はもう駄目だな」
苦笑が漏れる。とっくに手遅れだった。
彼女なしではいられない。
守りたい。
笑っていてほしい。
幸せにしたい。
◇
「……クラウス、様?」
掠れた声。
リシェルがゆっくり目を開けていた。寝起きのせいで、ぼんやりしている。クラウスは思わず表情を緩めた。
「起きたか」
「……私……」
昨夜の記憶を思い出したのだろう。
リシェルの頬がみるみる赤くなる。
「ご、ごめんなさい……!あんな、取り乱して……!」
「謝るな」
クラウスは静かに立ち上がると、彼女の前へ歩み寄った。
そして片膝をつく。
リシェルの瞳が大きく揺れた。
「ク、クラウス様……?」
「聞け」
真剣な声だった。その響きにリシェルの呼吸が止まる。クラウスは彼女を真っ直ぐ見つめた。逃がさないように、誤魔化さないように。
「俺は、君を守りたい」
リシェルの睫毛が震える。
「誰に狙われても、何を恐れていても、全部まとめて背負う」
「……」
「君が泣くなら支える。苦しむなら隣にいる。もう二度と、一人で諦めさせたりしない。」
クラウスは一瞬目を閉じた。
次に開いた瞳には、決意だけが宿っていた。
「……愛してる」
世界が止まった。
リシェルの思考が真っ白になる。
「え……」
理解が追いつかない。だがクラウスは逸らさなかった。
「愛してる、リシェル」
今度ははっきりと。
一言ずつ丁寧に告げられる。
「最初は放っておけなかっただけだった。けど気づけば、君のことばかり考えていた」
クラウスは苦く笑う。
「笑えば嬉しくて、泣けば苦しくて、誰かに取られる想像だけで腹が立つ」
「……っ」
「こんなの、恋以外に何だって言う」
リシェルの目から涙が零れた。けれど昨夜とは違う。温かい涙だった。
「私、は……」
声が震える。
「私なんか……」
「またそれを言うなら口を塞ぐぞ」
真顔で言われた。リシェルが呆然とする。クラウスは深く息を吐いた。
「自分を卑下するな。君が思っている以上に、君は大切にされてる」
「……」
「少なくとも、俺にとっては」
優しい声にリシェルの胸が締め付けられる。苦しいほど幸せだった。こんな感情、知らなかった。ずっとずっと、欲しかった。誰かに必要だと言ってほしかった。生きていていいと、認めてほしかった。
そして今。
目の前の人が、それを全部くれる。リシェルは泣きながら笑った。
「……ずるいです」
「何がだ」
「そんなこと、言われたら……」
逃げられない。
もう、自分の気持ちを誤魔化せない。リシェルは震える手で、そっとクラウスの服を掴んだ。
「……私も」
喉が詰まる。
それでも、伝えたかった。
「私も、クラウス様が好きです……」
クラウスの瞳が見開かれる。
「ずっと…怖かったけど……会えるのが嬉しくて……隣にいてくれるだけで、幸せで……」
涙が零れる。
「好きに、なってしまいました……」
沈黙。
次の瞬間。
クラウスは勢いよくリシェルを抱き締めた。
「っ、わ……!?」
「……駄目だ、本当に嬉しい」
声が掠れていた。普段冷静な彼らしくない。リシェルは目を丸くし、それからふわりと笑った。
その笑顔を見た瞬間、クラウスは完全に理性が吹き飛びそうになる。
「……可愛い」
「えっ」
「自覚しろ」
「む、無理です……!」
真っ赤になるリシェルに、クラウスは堪えきれず笑った。
北棟に、初めて明るい笑い声が響く。
長い孤独の果てに、二人はようやく、同じ未来を見つけた。




