34.欲しかった言葉
結局、全員で話し合い夜会はリシェルの体調不良を理由に断ることにした。
もともと病弱という名目で人前から遠ざけてきたのだ。急な招待を断ったところで多少のお咎めはあるだろうが、それだけで侯爵家を公然と責めることはできない。
当面は時間を稼ぐしかなかった。
クラウスは顎に手を当てたまま、一言も発しなかった。何かを考えているようだった。
◇
夜の雨が、北棟の窓を静かに叩いていた。リシェルは震える指で荷物をまとめていた。といっても、大したものはない。数冊の薬草本と、古びた日記帳。幼い頃から使っている木箱に、それらをそっと収める。この部屋には、最初から『自分のもの』などほとんど存在しなかった。
「……これで、いい」
小さく呟く。胸の奥がズキズキ痛い。けれど、それでよかった。
ーー自分がいなくなれば、皆は助かる。
ついに、王宮魔術院が本気で動き出した。侯爵家への圧力は日に日に強くなっている。夜会を断ったところで、あらゆる手段を使ってリシェルを確保しようとするだろうという予測は誰もが口に出さずとも分かっていた。
使用人達も怯えていた。父も母も、疲れた顔を隠せていない。セレナですら、最近は無理に笑っている。全部、自分のせいだ。
しかも、クラウスは王家との婚約を避けるためにリシェルと婚約するという。
ーーやっぱり、こんな理由で、婚約などしてはいけない。ましてや、私は…。
「……私なんかが、幸せになろうとしたから」
クラウスと出会ってしまったから。家族と笑い合うことを覚えてしまったから。あたたかい未来を望んでしまったからーー罰が当たったのだ。
リシェルは唇を噛み、そっと扉を開けた。誰にも告げずに出ていこう、そう決めていた。この家から消えれば、王宮も侯爵家への圧力をやめるだろうし、自分一人が消えれば済む話だ。
これ以上何も望んではいけない。もともと一人だったのだ。ただ最初に戻るだけ。
ーークラウスと、出会う前に…。
扉を閉めたとたん。
「……どこへ行くつもりだ」
低い声にリシェルの肩が跳ねた。顔をあげると、クラウスが立っていた。濡れた黒髪から雫が落ちる。どうやら雨の中を急いで来たらしい。だが彼は息を切らしながらも、真っ直ぐリシェルを見ていた。
その瞳に宿る感情を見て、リシェルは怯む。怒っている。こんなクラウスを見るのは初めてだった。
「ク、ラウス、様……」
「質問に答えろ」
冷たい声だった。リシェルは視線を落とす。
「…少し、出ようと」
「嘘をつくな」
即座に切り捨てられる。クラウスは部屋へ入り、木箱を見た。荷物、旅支度。全てを理解したのだろう、彼の眉間に深い皺が刻まれる。
「逃げるつもりか」
「違っ……」
「何が違う」
鋭い声に、リシェルは身体を震わせた。
「私は………私がいなくなれば、皆が……」
「またそれか」
クラウスが吐き捨てるように言った。
「どうして君は、何もかも自分一人で背負おうとするんだ!」
「だって……!」
思わず声を荒げてしまう。
「だって、私がいるから!!」
感情が爆発した。
「私なんかがいるから、みんな苦しむ!!王宮にも狙われて、家族も危険で……!!クラウス様だって…!私は、化け物だから……!」
「黙れ」
凄まじい声にリシェルは息を呑む。クラウスが近づく。一歩、また一歩。逃げられない。彼は怒っていた。けれどそれ以上にーー悲しそうだった。
「……誰が君を化け物だと言った」
「……っ」
「誰が君に、守られる価値がないと教えた」
リシェルの瞳が揺れる。
「私は………危険で……」
「危険なら何だ」
クラウスは遮った。
「それが何だ」
「…な、」
「…大切なひとが傷ついていたら守りたいし、苦しんでいるなら、支えたいと思うだろう」
「……」
「………愛しているなら、そばにいたいと思うだろう!!」
最後は叫びだった。リシェルの目が見開かれる。クラウスは拳を握り締めていた。今にも壊れそうなほど。
「君はいつも、守る側でいようとする」
低く掠れた声。
「家族を危険に巻き込みたくない、迷惑をかけたくない、嫌われたくない。だから、一人で消えようとする……ふざけるな!俺は!!君を離したくない!誰が王宮になんて渡すものか。君の家族だって同じだ。みんなで君を守ろうとしてる!」
その言葉に、リシェルの肩が震えた。その肩に両手をおいてクラウスが真剣に言う。
「リシェル、君だって、守られる側でいてもいいんだ」
はっきりと。
一文字ずつ噛み締めるように、クラウスは告げた。
「君は、守られていい。頼っていい、甘えていい。泣いてもわめいてもわがまま言ってもいいんだ」
クラウスの瞳が真っ直ぐ彼女を射抜く。
「リシェル、一人で生きようとしないでくれ。俺がいる。危険だって言うなら俺が抑える。いつもそばにいる。だから……」
クラウスの、声が震えた。瞳が潤む。
その瞬間、リシェルの中で、何かがはじけた。
ーーーずっと。
本当にずっと。
欲しかった言葉だった。
けれど、求めてはいけないと思っていた。自分には資格がないと。愛される価値などないと。だから、涙が止まらなかった。
「……っ、う……」
崩れるように膝をつく。
嗚咽が漏れる。
「わ、たし……っ、ほんとは、こわ、い……!お、王宮になんて、行きたくない…!でも、私のせいで、みんなが怖い思いを…!だから、私が、いなくなればって…でも、ほんとは…、また、ひ、一人になるのが、怖い…!!」
クラウスは目を閉じ、強く、リシェルを抱き締めた。
「…馬鹿」
耳元で掠れた声が落ちる。
「もっと早く泣け」
リシェルは声を上げて泣いた。子供みたいに。十八年分の、何か吐き出すように。クラウスは何も言わず、その背を抱き続けた。窓の外では、まだ雨が降っていた。
けれど北棟の部屋だけは、不思議と温かかった。




