33.嫌じゃない、むしろ
「婚約……?」
リシェルは呆然と呟いた。全く理解が追いつかない。王太子との婚約?何故そんな話になるのか…。
侯爵の表情は苦かった。
「確かに王家が昔から使う手だ。利用価値の高い貴族令嬢を囲い込むためのな」
侯爵夫人が青ざめる。
「そんな……」
「しかも今回は、『保護』という名目も使える」
グレイが低く続けた。
「王太子妃候補として迎え、その上で王宮管理下へ置くつもりでしょう」
リシェルの血の気が引いた。それはつまり、一生、自由を奪われるということだ。
「嫌です……」
小さな声。
「絶対、嫌……」
震える声だった。王太子がどんな人かすら知らないが、これだけは分かる。そこに自分の意思は存在しない。ただ利用されるだけなのだろうということ。
クラウスの魔力が一瞬だけ揺れた。
怒りだ。
「勝手に決めるな」
低く冷たい声。グレイが肩を竦めて言う。
「ですよね…」
侯爵が難しい顔をする。
「だが王命が絡めば厄介だ」
「だから夜会で既成事実を作る気なんでしょう」
グレイの言葉に、室内が重くなる。
「……断れないんですか」
リシェルが不安そうに尋ねた。侯爵はすぐ答えられなかった。王家相手の婚約辞退。下手をすれば反逆扱いだ。
「普通なら難しい」
グレイが代わりに答える。
「ですが」
彼はちらりとクラウスを見る。
「先に正式な婚約者がいれば別です」
数秒間の沈黙の後ーー
セレナの目が輝いた。
「なるほど!!」
「え?」
「クラウス様と婚約すればいいんです!」
リシェルの思考が停止した。
「…………え?」
「名案ですね。副団長は公爵家筋ですし、身分的にも問題ない」
「待ってください!!」
リシェルが真っ赤になって立ち上がる。
「そ、そんな簡単に……!」
「確かに、そんな簡単な話じゃない」
「そう…ですよねぇ……」
クラウスの言葉にリシェルの心臓が止まりそうになる。やっぱり…化け物なんかと婚約なんて…
マイナス思考に囚われ泣きそうになったその時、クラウスが真っ直ぐ彼女を見て言った。
「でも嫌じゃない」
「っ……!」
息が止まりそうになる。
セレナがきゃーっと騒ぎ始めた。
「もうこれ実質プロポーズでは!?」
「落ち着きなさいセレナ」
侯爵夫人はそう言いながら楽しそうだった。
侯爵だけが頭を抱えている。
「展開が早すぎる……」
リシェルは完全に混乱していた。王家から逃れるためには確かにそれが1番かもしれない。婚約…クラウスと?そんなの、嬉しくないわけがない。でもーー
「わ、私なんかが……」
思わず漏れた言葉にクラウスの眉がぴくりと動く。
「またそれか」
「え……」
「私『なんか』って言うな」
低い声だった。
怒っているわけではないが、真剣だ。
「君はもっと、自分を大事にしろ」
リシェルは目を見開く。
「でも、私は危険で……」
「危険なら俺が制御する」
即答だった。
「誰より近くで。一生でも付き合う」
静まり返る室内。リシェルの顔が一気に赤くなる。
「ク、クラウス様……!」
「そうすれば大丈夫だろ?」
本人だけ平然としている。
セレナが小声で呟いた。
「この人、天然で口説いてる……」
クラウスは少しだけ表情を和らげた。
「リシェル」
「……はい」
「無理にとは言わない」
静かな声。
「でも、君が嫌じゃないなら、俺は正式に君を守る立場になりたい」
リシェルの胸がいっぱいになる。クラウスはいつも優しい。ちゃんと自分の意思を待ってくれる、絶対に押し付けない。その誠実さが、どうしようもなく好きだった。
「……嫌じゃ、ないです」
小さな声。でも確かな本音。クラウスの目が細められる。
「むしろ……」
リシェルは顔を真っ赤にしたまま俯いた。
「嬉しい、です」
沈黙。
次の瞬間。
セレナが爆発した。
「きゃーーーー!!!」
「近所迷惑だぞセレナ」
「だってぇぇぇ!!」
侯爵夫人まで涙ぐんでいる。
「まあ……!」
侯爵は深く顔を覆った。
「娘の成長が眩しい……」
◇
そんな穏やかな空気の中。
クラウスだけは静かに考えていた。
夜会。
王家。
そしてルヴァイン。
恐らく簡単には終わらない。
むしろここからが本番だ。
「……絶対守る」
誰にも聞こえないほど小さく呟く。その視線の先には、恥ずかしそうに俯くリシェルがいた。




