Report 36 FRI-END(前編)(4)
五時間目は体育だった。五月とは思えない強烈な日差しが、校庭に降り注いでくる。
種目はバトンリレー。
俺は、ランナーが来るのをバトンゾーンで待機している。立っているだけで汗が滝のように流れた。暑さのせいか、心臓の鼓動がやけに早い。
(いいご身分だな。アイツは)
周縁の木陰で見学している間を、うらやましそうな目で見る。間が退院してから四回目の体育の授業であるが、彼は全て見学している。
ランナーが来た。タカだ。俺は助走をつける。迫るバトンを左手で取った。そして、全力で走る。
(ん?)
視界が揺らぐ。
目線が急降下する。
熱い砂が、地面が、迫ってくる。
「植杉くん!」
渡邊の上擦った声がした。彼の顔が近い。
俺は自分の身に何が起こったのか一瞬分からなかったが、渡邊の細い腕に支えられて、今さっき自分は熱中症で倒れかけたのだと了解した。
★
眠りから覚めると、頭が少し痛かった。
壁にかけられた時計は、午後の四時を過ぎていた。ひたいに貼られた冷却シートと右の腋にはさんだ濡れタオルは、もうすでにぬるくなっている。頭の水枕は、まだかろうじて冷たい。
俺は、清潔な白いシーツが敷かれたベッドから身を起こした。そしてゆっくりと下に降り、これまた清潔そうな真っ白のカーテンを引いた。
すると、カタンという音がした。丸椅子に座っていた人間が立ったのだ。
「目が覚めた?」
俺の目の前に現れたのは、白衣を着た茶髪のショートボブの女性だった。この学校の養護教諭である中田鏡子だ。
「はい。熱測って」
中田は俺にデジタル式の体温計を手渡す。女性にしてはかなり低めの声である。
体温計を腋にはさむ。数十秒後、ピピッという電子音が鳴った。
「36度5分。平熱ね」
俺は倒れた後、渡邊に支えられながら、北棟の保健室へとつれていかれて応急処置を施された。処置が早かったおかげか、今は少しだるさが残っているくらいで、動悸やフラつきといった症状は完全に治まっている。
「今日は一日気をつけて。ちょっとでも具合が悪くなったら、すぐに病院にいくのよ」
「わかりました」
「はい、これ。渡邊先生が持ってきてくれたわよ」
俺のランドセルと着替えが入った手提げ袋が、中田の手に握られている。受け取って、体操着から黄色のTシャツとジーンズに着替えた。
「ありがとうございました」
俺はそう言って、保健室から出て行く。
東棟と北棟をつなぐ渡り廊下から昇降口に入り、下駄箱に向かう。
ふと、視界の端でパッ、と何かが淡く光った。
踊り場脇の階段だ。
「……?」
俺は不審に思いながら、階段を一段一段上っていく。
薄い桃色の光の球が、目の前に現れた。今度は消えない。
俺は、それを凝視した。
――人の世界のものではない。そう直感した。
光球は、すっと尾を伸ばして、どこかに伸びていく。行き先は、五年一組の教室だった。全身がぞぞっ、と粟立つのを俺は感じた。
(――なんで。こんなところで、こんなときにあらわれるんだよ)
光の球は、いつの間にか消えていた。
俺は、今すぐ逃げだそうと思った。
だが駆け出そうとして上げた右足を、すぐに引き戻した。
上履きの音だ。
教室の中に誰かいて、出て行こうとしている。
静寂の中響く、幽かな足音。俺は身震いしながら、階段脇の壁に隠れる。
そして、中から何が出てくるのかを覗いた。
廊下にポッと、また光の球が現れる。
それにつられて教室の中から出てきたのは――間だった。
俺は、目を丸くした。
(! こっちに向かってくる)
物音を立てないように、早足で階段を下りる。そして、下駄箱に隠れて間を待った。
俺はふと、何で自分がこんなことをしているのだろうと思った。
別に、間がどうしてようと自分とは関係ない。関わらない。そう思っていたはずなのに。
なのに今は、アイツから目が離せなかった。
間が靴を履いて、昇降口を出た。
(――今だ)
俺は「五年」という札が貼られた下駄箱に駆け寄り、素早い動作でスニーカーに履き替えた。分厚い引き戸が開け放しの入口から、外に出る。
屋外は相変わらず暑い。だけど、俺の首筋にはいまや冷や汗さえ流れていた。
すぐ目の前で、野球クラブが練習している。しかし、彼らの声はすごく遠くに聞こえた。まるで自分が、別の世界からガラス越しに校庭の風景を見ているようだった。
校舎に沿って敷かれた、L字型のアスファルト。
間は既に北棟の半ばまで進んでいた。
そして、遠目でわずかに光って見えるピンクの人魂。
間とすれ違う子どもが誰も気づかないところを見ると、やはり怪異の類だろう。
見失わないよう、適度に距離をとりながら俺は間の後をつける。
間は、通学路である坂を下っていく。坂を降りきると、左手の角に文房具屋が見えた。その角を曲る間。そこの道は学校の前の道よりも、少しせまくなる。間はそのまましばらく南の方へ歩いたと思ったら、突然細い路地に入った。
俺は、嫌な予感がした。そっちは、裏山の方角だった。
金曜日の一件以来、裏山には近づきたくなかった。
けれども間は、どんどん裏山の方向へと歩いていった。路地の向こうに見える林は、裏山の麓である林だ。
道はせまい。家の勝手口と勝手口が向かい合うような状態で並んでいる。
アルミのバケツやビールケースに蹴つまずいて間に気づかれないよう、慎重に歩いた。
突然、シャーっという大きな奇声があがる。
俺はびっくりして、後ろに下がった。
硬い箱型の何かが背中にぶつかる。息を止めて、声が出るのだけは何とか防ぐ。
間の前に白い毛玉がうごめいていた。
猫だった。
尻尾が短い、まるまると太った猫が間を威嚇しているのだ。
ガタン!
俺は振り向いた。金ダライが地面に落ちていた。
さっき洗濯機にぶつかって、上に乗っていたタライが落ちたのだ。
「植杉くん?」
聞き覚えのある、はかなげな声。
正面を向きなおす俺。
バレた。振り向く間と目があった。人魂は消えている。
(――くそっ!)
俺は、そのまま無言で走り去る。ランドセルがカタカタと鳴った。
(オレは何をやっているんだ? 何でオレは、今日アイツのドタマをどついたんだ? 放課後にこっそりつけたのはどうして? ――何でオレは、自分の身をわざわざ危なくさせるようなことをやってるんだ?)
自分の不可解な行動を自分自身で呪いながら、ただひたすら走った。
空はオレンジ色に染まり始め、太陽は段々と赤色に近づいていった。
★
翌朝。
教室に入ると、間の机の上に花瓶が置かれていた。道端に咲いていそうな小さな花が乱雑に詰め込められている。
樹達はダンボールで作った粗末な色紙に、心無い言葉を書き綴っていた。
『5年1組 一同 はざまくん 死んでくれて ありがとう! さようなら』
中心に黒マジックで太々とそう書かれている。その周りに、短い文章を一人ひとり付け加えていく。
「お前マジうんこ」「シカト大王」「もっとノリの良いやつに生まれ変われ BYEBYE」「プロレスごっこ 楽しかったよ(笑)」「お前がいなくなって、給食がうまいよwwwww」「生きてるかちなし じゃあね」「キモい 生まれ変わってこないで」「マジ怖い ぶきみ 死ね」「成仏なう」「お化けお化けって、きもちわるい 早く消えて」……
寄せ書きと称しておきながら、主催である樹、タカ、章太、洋平を除いて、ペンをとった者のほとんどが匿名なところが陰湿さに拍車をかけている。みんな、心の底では間を不気味がっている。でも相手に知られないと分かった途端、こうした闇討ちに加わるのだ。
「ヨーヘイ、知らない? お前近いだろ?」
樹が章太に聞いた。洋平がまだ学校に来ていない。
「アイツのグループとすれ違ったけど、いなかったな。寝坊じゃね?」
この学校は全校生徒、樹のように朝練習がある場合や特別な行事のときなどは除いて、原則集団登校だ。集団登校のグループは、近い場所に住む複数の学年の児童によって構成されている。章太は洋平のグループの区画から見て、隣の区画のグループに属している。
章太の証言を聞いて、樹は舌打ちをした。
「死ねよアイツ。『モシュ』の一人なんだぜ」
洋平が住んでいるのは――昨日、俺が間の後をついてたどり着いたあの辺りだ。
俺は樹たちの会話を聞いて、昨日のことを思い出してしまった。間に関しては何にも考えたくないのに。
樹達が盛り上がっているのとは反対に、俺は余り乗り気になれずにいた。それでも樹に迫られて、どうにか「消えてくれてアリガト」とだけ書き添えた。
大体色紙がサインペンで埋め尽くされたところで、樹が間の机の上に色紙を置いた。そして樹たちは、にやにやとした顔つきで、このイベントの主人公が到着するのを待った。
だが、儀式の準備を終えてから最初に教室に入ってきたのは間ではなかった。
(――洋平?)
ランドセルをカタカタと鳴らして教室の中に駆け込んできた。
様子がおかしかった。顔は真っ青で、腕がふるふると震えていた。目だけがカッと開いて、ぎょろぎょろとしている。
「おっせーよ。ほれ色紙! 名前書いといたかんな!」
樹はガラガラ声で怒鳴り、洋平に色紙を押し付けた。
「赤マントが、」
だが洋平は受け取らず、震える唇でゆっくりとこう言った。
「赤マントが、出た。学校の近くに」
俺は息を呑む。
樹は眉をしかめて、洋平を指弾する。
「は? 何それ。理由になってねーよ」
「ウソじゃない! 寝過ごして近道しようとしたんだ。裏山の林につながる路地裏に、ネコが、まっぷたつにされて、て」
心臓が凍りついたような感覚が、胸中を蝕んでいく。
(――オレが、昨日いたところだ)
周りを見ると、さっきの騒がしさがウソのように消えていた。気が動転している洋平の、尋常じゃない雰囲気を悟ったのだ。
「オレ、オレ。どうすりゃいいのか、わかんなくて。とりあえず学校行くしか」
俺は気配に気づいて後ろを振り向く。
そこにはいつの間にか、間が登校してきていた。
赤マント。間。ピンクの人魂。ほえる猫。頭の中がぐるぐる回る。
俺は混乱の余り、頭がどうにかなってしまいそうであった。そして、場当たり的な直感に俺はしがみついた。
(――間は、何かを知っている)
間は机の花瓶を持ち上げた。片付けにいくのだろう。樹達の視線が彼に集中する。けれども洋平の話を聞いて硬直してしまった彼らは、何も言うことができなかった。
「おい。お前がやったんだろ」
俺はすごんでそう言った。
間がぴくりと肩を動かした。ヤツは花瓶を手に持ったまま応える。
「……何の話?」
「ネコだよ、昨日の。殺されたんだ」
間が目を大きく開く。
だがその驚愕に満ちた顔つきは、突如強い否定の意思を表したものへと変わった。
「違う」
こんなに凛とした表情をする間を見たのは、初めてだった。
一瞬、気圧されそうになる。
けれども、言葉を荒げて暴力に訴えることでこの圧迫を払いのけようとした。
「パチこいてんじゃねえよ!」
俺は間の両手を力いっぱいはたく。花瓶が床に落ち、大きな音を立てて割れた。
女子たちが悲鳴を上げる。大小のガラス片がフローリングの床に飛び散った。
俺は構わず、間のワイシャツの襟首をつかんだ。
「お前だって、オレが見たこと知ってんだろ! 昨日、ネコがお前に向かってシャーっていっただろ!」
俺は間の身体をゆする。ガラス片が上履きで踏み砕かれる。
「おい、やめろ」
「何、本気ギレしてんだよ」
樹達が、俺の腕を抱える。それでもなお、俺は間に当たり続けた。
「――ッ! お前が来てから、変なことばっかり起きてんだよ! 赤マントも、お前となんか関係あるんだろッ!!」
「知らない。やっていない」
間の姿勢は変わらない。まるで達観したような顔つきが、気に食わない。しれっとした態度で自分の主張が否定され、俺は涙を浮かべて憤激した。
ドンッ。
俺は怒りに身を任せて、間を顔面から地面に叩きつけた。
「う……」
間が立ち上がる。ふらふらとした足取りである。
――俺は仰天した。
そして起こる、阿鼻叫喚。
ぽたり、ぽたりと、床に真っ赤な雫が垂れる。
間の額には、紅い花が咲いていた。
「うわああああッ!!!!!」
俺は絶叫した。
血まみれの間の左の眉の上から、何かがすべり落ちる。それは、「く」の字型をした一センチくらいのガラス片だった。花瓶の破片が飛んでいたのだ。
間は立っていられなくなったのか、掃除用具入れのロッカーに寄りかかった。余りの光景に、子ども達は遠巻きに彼を見ながら、誰も手を貸すことができないでいる。
(――ウソだ、ウソだ。これは夢だ。現実じゃない)




