Report 36 FRI-END(前編)(3)
俺は、胃の中に氷水をバケツ一杯ぶち込まれたかのような錯覚に陥った。
「……」
一方、間は眉一つ動かさない普段とは打って変わって目を見開いていた。
俺たちはそのまま、凍りついたかのようにその場に棒立ちになって、互いを見据えた。逃げていく傷ついた妖獣の足音だけが、その場に響く。
「……み、見てんじゃねーよ!」
ようやくのことで声が出た俺は、その場から去ろうとする。間が立っているのとは反対側の、上り坂を走り抜ける。
(見られた。見られてしまった)
俺の頭の中は、そのことでいっぱいだった。
(――あれだけ必死に隠してきたのに。ちくしょう、ちくしょう!)
震えが止まらなかった。ほの暗い林の中を、ただ闇雲に疾走した。やがて息が切れ、両手を膝につく。気がつくと、そこは光もおぼろげにしか届かない、深い森の中だ。
しまった、と俺は思った。
無我夢中で走るうちに、山の中腹まで来てしまったんだ。裏山には何度か来たことがあるが、こんなに深くまで入り込んだのは初めてのことだった。
俺は、とにかく下ろうと考えた。
そんなに大きな山じゃない。道だって、険しいところはほとんどない。慎重に下れば大丈夫なはずだ。
そう信じて、来た道を戻ろうと足を一歩踏み出した。
「……まえ、か……」
全身が、一瞬で粟立つ。
声が木々の闇の中から聞こえる。
「……いじめたのは、おまえか……」
どすん。
大きな音がした。異臭が辺りに立ち込める。
――振り返ってはいけない。
頭では理解していた。けれども、後ろに何がいるのか確かめたいという誘惑にかられた俺は……視線を、背後に移した。
「スネコスリを、いじめたのはおまえか?」
藪の中から金色の目玉が覗き、鋭い鉤爪が突き出る。
「うわああああっ!」
俺は再び走り出した。生存本能が命じるままに山を駆け下りた。ナップザックのネームチェーンが枝に引っかかって外れたことも全く気にせず、全力で逃げ出した。
★
その日の夕方。
家に帰る頃には、日が暮れかけていた。
美佳からは「こんな時間まで、どこにいっていたの」と詰問されたが、「裏山で迷った」とだけ言い捨てた。
夜になるとやたらパトカーの音が聞こえたが、俺にとってはどうでもいいことだった。
翌日の朝。
俺は、重い足取りで学校に向かった。夜と同じように、裏山の方にパトカーが何台も向かっていき、あちらこちらで住民がひそひそ話をしていた。
物々しい雰囲気で、何となく嫌な気がした。
学校に着いた俺は、階段を一歩一歩踏みしめて教室に入る。
すると、樹たちの喚声が聞こえた。教室の後ろに、男子が集まっている。席に座っている女子たちは横目でその光景を見ながら、ひそひそと陰口を叩いている。
俺は人だかりを掻き分け、何が起こっているのかを確かめた。
そこにはタカに馬乗りされて、うつ伏せにされている間の姿があった。タカに右腕を背中へ押さえつけられて、間は苦しそうにうめいていた。
「カン、カーン! チャレンジャー、テンカウントダウーン!」
タカと間のかたわらに立つ洋平が、威勢よく声を張り上げた。
(なんだ。いつものプロレスごっこか)
この様子ならどうやら、間は俺のことについて何も喋っていないようだ。そのことが分かって、胸をなでおろした。
(よく考えたら、コイツの言うことなんて誰も聞くわけないじゃないか。心配してソンした)
「おい、ワタナベが来るぞ」
でかい図体をぬうっと廊下に突き出していた章太が、樹たちに向かって言う。俺を含めて、男児たちが急いで自分たちの席に戻る。間は咳き込みながら、ゆっくりと立ち上がった。
青い顔をした渡邊が、教室に入ってきた。そして朝の会が始まるなり、渡辺はこう告げた。
「……昨夜、紅淵町で女子高生が通り魔に殺される事件が起こりました」
昨日の夜遅く。県道の裏山付近で、紅淵高の女子生徒が殺害された。目撃者の証言によると、赤いコートと中折れ帽を着用していたという。
これらのことは既に朝のニュースでも報道されていたようだ。だが俺はその頃、朝のニュースをチェックする習慣なんてなかったし、岸川も俺が起きる頃には家を出ていくから、そんなことが起こっているなんて気づかなかった。スマホどころかガラケーも持っていなかったしな。
(それで、パトカーが多かったのか。しかし、この特徴って……)
俺だけじゃなく、その場にいた全員が思ったことだろう。
――赤マントのしわざだ。
渡邊は深刻な顔で、「けして一人では帰らないように」と俺たちに注意した。
★
樹に遊びの誘いを受けた俺は、授業が終わると家にランドセルを置いて、すぐに家を飛び出した。そして、国道沿いにあるゲームセンターまで走った。
ゲーセンで一通り遊んだ後は、コンビニでアイスを買って、それぞれが帰路に着くことになった。
樹たちと別れた俺は、岸川家に向かって住宅街の中を歩いていた。
午後から快晴になったため、六時前とはいえ日差しはかなり強かった。電柱の影が、地面に濃く描かれている。
(まずい。昨日の今日だから、また遅く帰ったらしかられる)
そう思った俺は、急ぎ足になった。着ている縦じまのTシャツには、徐々に汗がにじんでくる。
曲がり角を曲ったところで、俺は足を止めた。
かすかな生臭い鉄の臭いが、鼻孔を突く。
そしてそれを見て、息を呑んだ。
カラスが、真っ二つに切られて死んでいる。
「……」
俺は言葉を失い、その場に硬直した。
首の断面から、血の池が広がっている。
だが、さらに目を剥く出来事が起こった。
ブウンッ――カラスが目の前で消えたのだ。
「!」
俺はそれを見て悟った。
このカラスは、普通のカラスじゃない。怪異の類いだ。
戦慄していると、俺は目の端で何かが動いたのを捉えた。
4、5メートル先に人がいた。
逆光でわかり難いが、後ろを向いている。赤いコートのような上着を着て、中折れ帽を被っていた。人物の右手には、何が尖ったものが握られているように見えた。
人影は、夕日の彼方へ消えていく。
「――」
そして俺は、一目散に駆け出した。
(――何だあれ。何だあれ。何だ、あれ! あれが、アイツが、赤マント――なのか?)
心臓がはち切れそうだった。
胃酸の匂いが食道から上がってくるのを堪え、家まで必死に走った。
★
「ごちそうさま」
俺は、箸置きの上に箸を置いた。
台所のテーブルには、岸川忠邦、美佳、俺の三人が席に着いている。俺以外の二人は、まだ食事を続けていた。
岸川は、陰険そうな目つきでじろりと俺を見た後、すぐに左手で抱える夕刊へと視線を戻した。元々俺はそんなに食べるほうじゃないが、今日はお茶碗半分しか食することができなかった。
あんな体験をしては、とてもではないけれど食欲など湧きようもない。
岸川も美佳も、俺を心配するような素振りを全く見せない。会話も全く弾まない。それが、この家の食卓だった。
俺は自分の食器を流しまで持っていき、台所を出た。
「ねえ、あなた」
突然、美佳が岸川に話しかける声が聞こえた。美佳が自分から話題を提供することは、珍しいことだ。
「今日翔君からもらった学校のプリントに書いてあったんだけど……。通り魔が、また現れたんだって」
「ああ、赤マントだろ」
赤マント。岸川のその返答を聞いて、俺は立ち止まった。
それから壁に身を潜めて、岸川夫婦の会話を盗み聞きし続けた。
「そう。たしかそんなのって、昔にも出たって聞いたけど……」
「ああ、あった。オフクロの子どもの頃な、通り魔殺人があったんだ。そで、赤い上着を着た通り魔が出るって、全国で噂になったんだよ」
岸川がそう云った。俺は、驚いてその話を聞いた。
(――なんだって? そんな昔から、赤マントはいたのか?)
「ねえ。今回の事件と、何か関係あるのかしら」
「何の関係があるってんだよ。いつの時代にも、そういうクズみたいなやつはいるってだけの話だ。くだらねえ」
岸川が、ぼやくように言った。
けれども岸川の説明だけでは腑に落ちない出来事に、俺は今日遭遇してしまった。
赤マントは動物や人間だけでなく、怪異にも危害を加えられる。これはつまり、赤マントが怪異という存在が見え、また干渉を加えられることを示す。赤マントが、その辺に転がっているようなごろつきや変質者の類、つまりただの人間ではないことは明らかだ。
(――オレのような人間か。あるいは、赤マント自体も幽霊や妖怪なのか)
赤マントからは、怪異の類の気配は感じられなかった。けれども、俺だって全ての怪異を知っている訳じゃない。強力な怪異なら気配を隠すことくらいできるのではないか。……考えれば考えるほど、疑問は出てくるばかりである。
「赤マント?」
ダイニングの方から、しわがれた声が聞こえた。
「お義母さん!」
美佳がそう呼んだ。
岸川セツが、起きてきたのだ。
「赤マントはねえ、夕暮に出るんだよ」
「はい、はい。分かりましたから」
美佳が応対する。適当にあしらおうという魂胆が、見え見えの態度である。
だがセツは、赤マントの話を一方的に続けた。
「夕焼けとともにあらわれてねえ、子どもを攫っていくのよ。そうやって、乙子ちゃんは攫われちゃったのよお」
岸川セツは、今年で八十七歳になる。この頃は認知症が進んで、岸川のことも弟と時折勘違いし、美佳に至っては家政婦としか認識していないようだ。話もほとんどが、彼女が子どもの頃の紅淵町に関すること、つまり昔の思い出についてである。また足腰も悪くなっていって、家の中の移動さえ少し覚束ないほどだ。
俺は、自室へ戻った。
そして、赤マントのことは忘れようと思った。怪しいものとは、絶対に関わってはいけない。そう、心に固く誓った。
★
週末、俺はずっと自室に引きこもっていた。二日続けて怪異に遭遇したので、外出する気になれなかったからである。
月曜の朝。俺は暗い面持ちで、集団登校の列に加わった。頭上の空は、鬱陶しいほど良く晴れている。
この日の樹たちによる間へのいじめは、あらかじめ盗んでおき切り刻んでおいた間の体操着を、ポスターカラーで作った血の池が浮かぶヤツの机の上に置くことだ。
間が教室に入ってくる。
「赤マントが来たよ!」
「赤マントがお前のこと殺すって!」
樹たちは口々に言った。
だが間は特に表情を変えることもなく、そのままスッとロッカーからバケツと雑巾を取り出して、濡れそぼつ体操着をゴミ箱に入れた。
(……)
俺は、無性に腹が立った。動揺している自分とは対照的に、淡々とやり過ごすコイツの態度を見ていると、馬鹿にされているような気分になる。
その怒りはすぐ行動になって現れた。
バンッ!!
俺は間の背後から、平手でヤツの頭をぶっ叩いた。
体勢を崩した間は、ポスターカラーまみれの机の上につっ伏した。薄黄緑のポロシャツに、赤色がべっとりと染みこんでいく。
間は、やはり無言のまま、教室を出ていった。
俺は、ふと周りを見渡してみた。
――樹、タカ、章太、洋平。みんな白い目で、自分を見ている。
身体から、ざあっ、と血の気が引いていく。
「おい」
樹が、眉間にしわを寄せて云った。顔が近い。
「お前、しゃしゃんじゃねえよ。あんなハデに汚したら、いくらなんでもバレんだろ」
予想通りのセリフだった。
樹の云うとおりである。俺は泣きそうになり、考えられる限りの申し訳なさそうな顔をする。
「ごめん、調子こいた」
この怒りと不安は、どこへ向かえばいいのだろうかと憂鬱を募らせる。
間が戻ってきた。水道まで洗いに行っていたらしい。けれども、当然ながらポロシャツの赤い染みは取れなかった。間はまるで何もなかったかのような素振りで、机をきれいに雑巾でふき取った。
朝の会で、渡邊は間の方をちらりと見た。だが、特に何もいわなかった。
間のクラスの担任になった先生は、そのほとんどが間に対するいじめに気づいていながら、見てみぬ振りをしてきたらしい。いじめを止めることで、児童達の不安や苛立ちが間だけでなく自分にまで向くことを、教師は恐れているのだ。そして、渡邊もそうした教師の一人なのだろうと、俺は思った。




