⒈ 目魂(1) 彼の環境と死のきっかけ
西暦二〇四二年 四月六日 月曜日の朝――
これより数年前のこと、史上類を見ない大震災が突如として日本列島を襲った。
発災当時の惨劇はまさに凄まじく、列島に向かって連続して押し寄せて来た津波や土砂災害によって大勢の国民の命を飲み込み……
終いには《日本列島が一部欠壊する程の大災害》へと発展したその歴史的地震事故は、この時代を生きる人々にとって記憶に新しい騒動である。
断裂した大陸はいつしか、島民の間で『布都部島』と名が付けられるようになり――、
その島唯一の高校:【布都部高等学校】では今まさに、入学式が始まろうとしていた………。
「眩しい春の日差しの中――、新しい制服の袖に腕を通し、今日という日を迎えられた新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。
ご来賓として、保護者の皆様のご臨席を賜り…………」
学校長の挨拶がマイクを通じて体育館内に響き渡る中――、そこにはあの白髪の金欠男の姿もあった。
男の名は、目崎悠人。
ロクにケアの整っていないぼさっとした髪型がこれまた、彼の冴えなさを際立たせていた。
どうにも疲れていたのか――、それとも挨拶を聞いているのが退屈だったのか――、いつの間にかうたた寝していると、意識がどんどんと遠のいていき…………
次に目が覚めて気付いた時には壇上に校長先生の姿はおらず、すっかりと始業式が終わってしまっていた。
辺りを見渡すと、ゾロゾロと周囲の生徒達が体育館から退場する運びになっている状況が見て取れた。
慌てて同じ新入生達と共に体育館を後にし、指定された各々クラスの教室へと移動。
教室内で担任・副担任の紹介や明日の日程についての話を聞き終えると、時刻は正午を回っていた。
これにて今日の日程を終えた悠人であるが、入学初日では《アルバイト許可証》の用紙を手に入れられず、落ち込みムードでとぼとぼと帰り道を一人歩いていた。
かつて県境を繋いでいた線路という線路は半壊状態にあり、島内における一般的な移動手段は《徒歩》か《自転車》、または《バイクか自動車》に限られる。
親が残した資金をどうにかこうにかやりくりして、学校生活をしている身としては少しでもお金を使わないよう、学校の有料送迎バス利用はしないことにしている悠人。
その昔――、小・中学校に乗り回していた我が家の自転車は、ある時壊れて使い物にならず処分をしたきり、家には一台も置いていない。
買い替えると言ってもわざわざ限られた生活費を削って当分の間――、今の生活水準を崩してまで揃える必要があるのか………
自転車一台と軽く見ることの出来ない大きな買い物をする気にもなれないまま、一向に買う素振りが無く―――
気付けば家から遠い高校にも関わらず、こうして彼は徒歩移動をしているのがまさしく“断念した”ということだろう。
実を言うと、本音は細かな話になってしまうが『自転車保険』による出費が重なることを懸念し、少しでもお金を使わない方針を取った結果の末での徒歩だったのだが………この際、理由は何だって良い話である。
何とも私生活だけで手一杯な様子であるが、そもそも親権者もいない未成年の彼が家の相続人にすんなり成れたのには、契約先の不動産会社社長が目崎家の家庭事情を知っての上で、有り得ないような話だが未成年後見人として担ってくれたことに他ならなかった。
〈布都部島〉――この島には一つ大きな『問題』が隠されている――
それは……、《この島、そのものの【存在】》―――
本来は津波に飲み込まれ、列島に住む日本人を含め国中からは社会的に存在しない大陸と擦り込まれているらしく、何か大きな力によって『布都部島』という島そのものが隠蔽されているせいで、それが事態を複雑にしてしまっている。
明らかに大きな社会組織によって圧力が掛けられているとしか思えず、突如として島の一等地に建設されたNEMTD株式会社が何か関係している……という噂だけが囁かれる中――、
詳細も正体も掴めない謎の隠蔽工作の弊害でこれまた突然、島との出入りを制限するかのように介在してきた出入港管理の手の者によって島民は全員のこと――、ごく限られた関係者以外、布都部島から出ることを許されない状況下にある。
当然ながら島民はそれを良しとしていなかったが、署名運動なんの抵抗で大きな社会問題を弾き返すだけの力及ばず、半ばお手上げ状態のまま引き摺り続け………、すっかりと島での生活が民衆の間で完全に定着化していた。
そうこう複雑極まりない事情が付きまとうこの島での環境が――、単なる親の仕事の都合で数年前に布都部島へと移住した、元よりこの土地の人間では無い悠人は肉親を失ってからというもの、頼れる大人の一人も二人もおらず、心細かったことに他ならなかった。
住宅ローンは両親が生きている内に完済している為、引き続きこの家に住めることは何よりも好都合だったのだ。
何せ、これは彼一人の問題では無い。
彼には残された【一人の肉親】がいるのだから………。
両親が他界した当初は状況も状況なだけに、養子の道を考えていたこともあったが、そうはならなかったのにも偏にその一人の存在が大きい。
一人ならともかく、二人ともなれば………
これまた養子を二人いっぺんに引き取ってくれるそんな気前の良い地元民が誰一人として、そう都合の良いように現れないのが世の現実。
『震災の傷も癒えず自分達の生活だけでも一杯一杯だってのに、そこに余所の子の世話なんぞしてやれる余裕があるとでも思ってんのかッ!』――なんて言われてしまうと、まさしくその通りの話である。
むしろ一人だけなら引き取ってやっても良い、と言ってくれる存在が何人かいただけでも、十分に有難いことなのだ。
『駄目ッ!離れるなんて嫌ッ………』
だがそんな中――、願望を口にしたのは他でもない、たった一人残された―――実の家族の存在である。
勿論――、彼自身も家族と離れる現実は良しとしていなかった。
全ては残された一人の家族の涙を守る為――、幸せの為――、男は家の存続を懸けて、例の契約先の不動産会社、それと島の自治体の優しさに縋る他、無かった。
所詮は未成年の分際で追い払われるだろうと覚悟をしていたが、意を汲んでくれたのか、将又この島の存在が世間的には知られていない以上、特別処置として甘くしてもらえたのか――
まさかこんな――、身勝手な我が儘が罷り通るとは思わなかっただけに―――驚きの反面………、
素直に嬉しさが込み上げ、一緒に島の役所にも話を通して下さったりと、手厚くサポートや手回しをして頂けたことが悠人の複雑な家庭環境へと繋がっている。
生活の基盤は大いに助けられ、まず第一にローン返済済みの一戸建てを持てたことで、住宅に掛かる費用を浮かせることが出来たという事実。
固定資産税に気を付けておけば、その他光熱費・水道代にあたっては上手く立ち回りさえすれば節約が可能。
それだけ唯一の肉親である【妹】に対して、生活における負担を強いることも少なくて済む為、正直非常に助かっている。
とは言え、住宅保険や災害保険――、更には住宅には関係なくとも個々人に対しての生命保険――、いわゆる保険関連の細かい部分で発生しているお金は敢えてここでは触れないことにする。
世の中――、色々なことにお金が掛かることを……、妹も一緒に知ることで大いに勉強になるだろうが、それは長男である自分の心の内に秘めて置くだけで良い。
何から何まで我慢するように遠慮がちになってしまっては、心苦しいからである。
身だしなみの一つや二つ、気にもしたくなる年頃の女の子相手に出来うる限り金銭面で気を遣わせずに、色々我慢させるようなことはしたくないと言う、そんな兄としての優しさ故の行動から現在進行形でこの男――
『目崎悠人』はギリギリを突き詰めながら、残った財産を色々とやりくりをして現在まで家庭を支え続けてきたのである。
そうして路頭に迷いそうな生活を一年以上も続けてきたことが積もりに積もって、身体的にも精神的にも負担が大きかったのか、必死に切り盛りをして毎日のように家計簿とにらめっこな神経の磨り減る生活の中、気付けば日に日に髪の色素が低下していき、若白髪へとなっていた。
さながら、今の彼の頭髪に生える白髪の一本一本はこれまでの努力の証が目に見える形となって現れた、苦労の象徴とでも言ったところだろうか。
だが何故、色々と苦労してまで高校に通おうと思ったのか――、それは今どき中卒ではロクなところに勤めることが出来ない程、『就職難』なところにある。
それは、例の震災による会社の激減―――会社自体がその災害によって崩落し、立て直しが出来ず、破産してしまったなどと色々と理由はあるが、少しでも今の生活を改善しようと学歴を付け、良いところの会社に入りたいと思うのは、何も不思議なことでは無い。
………………………
何とも複雑極まりない家庭事情を抱えた男の帰宅途中、ごくありふれた交差点の前に来てからのこと――。
彼はその場所で信号待ちをしていた一人の少女と出会った。
一般的な日本人に見られる、黒髪で濃褐色の瞳をしたその少女は、彼と同じように布都部高校の制服に身を包んでいた。
実はこの制服には、ある変わった性能が備わっている。
地球温暖化などの様々な影響によって外温が急激に著しくなった現代では、この島に構えている大企業――
NEMTD株式会社
Natural《自然》
Environment《環境》
Measures《対策》
Technology《技術》
Development《開発》
の略称からその名が付けられた会社で開発された、今や人類にとって必要不可欠な日用品――
NEMTDーPC
《上部省略ー》
Protective《防護》
Clothing《服》
と呼ばれる【軽量型特殊防護服】に身を包むことで、今の時代を生きる彼ら人類は外での活動を可能としている。
当然のように、彼らが履いている靴だってそうだ。
NEMTDーPCには化学合成を駆使して作り上げた特殊な合成繊維と緩衝溶液が用いられており、この繊維物と溶液最大の特徴は、外温に合わせてその環境に適した温度へと変化してくれるというもの。
これは今を生きる野生動物の強い恒温性を利用したものらしく、それ以上のことは俗に言う企業秘密とされ、一般の人にはその繊維物と溶液の全貌は知られていない。
“人間”とは変化する環境に対して、素直に適応することが出来ない動物である。
野生動物に例えるならば、環境に馴染む過程として〈進化〉という手段を取る。
だが、人間はいわゆる体質変化などの方向性では無く、『思考力』・『頭脳』を発達化させてきた動物であるが故―――、
いつの時代も環境に適応する為の衣食住の暮らしを築き上げ、それは時代の移り変わりと共にどんどん暮らしやすい発展をしてきた。
自分達では無く、周りの環境を変化させていくことで豊かに――、便利に――、生活圏を構築していき、そうして現代まで生き長らえてきた人類。
それは今尚変わることの無い思想であり、人類は環境の変化に適応するのでは無く、《環境の変化に適応する為のモノを作る道》を目指し――
寒暖差の激しい環境を生き抜く現代の野生動物たちの生態を深く研究し続けた結果――、見事にそれを形としたものが生まれた。
全ては人類が生き抜く為に、今の防護服が存在する世の中となった現代――。
まさしく今の世を象徴とする、人類の文明の利器から生まれた奇跡のような繊維物である訳だが、一つ作るのもそう簡単なことでは無いらしく―――、
特殊な加工技術であることからそれだけに多大なコストが掛かってしまう為、製法特許をとって完全なる企業秘密にしているとのこと。
これによるNEMTD株式会社の《独占的な生産性》により、その生産性の悪さを差し引いても、大きく売り上げを出せているのだとか。
依然としてまだまだ改良の余地があるが、その独自の製法が世に広まらないよう――、
震災の爪痕から生まれたこの地を良き隠れ蓑として早々に目を付けた社長が本社を移し替え、そのまま島の隠蔽工作に一役買っているのでは無いだろうかと、社内の間で密かに黒い噂がされている。
そのような学生の彼が知らない社会の裏の話はさておき………、
やはり外出時に普段着る服ともなれば、NEMTDーPCの服としてのデザインが気になるところだろう。
だがしかし、現実は悲しいもので………
正直――、服の流行には敏感な女の子達にとって、オシャレとはかけ離れた残念な仕上がりをしている。
オシャレさより機能性を重視していると言われればそれまでなのだが、【老若男女、誰が着ても着こなしやすいシンプルさ】として、設計されたそのデザインはなんと――
全ラインナップの全てがどうにかならなかったのかと思うくらい………、ただただ『チューブが埋め込まれたダサい服』という印象だけが強く残る質素な始末である。
誰が着ても着こなしやすいシンプルさ――なんて、謳い文句は単なる言い文句なだけで………
その実、少しでも経費削減になるよう、最適化された作りにしているのではと疑問に思ってしまう。
まぁ、一年前ぐらいから徐々にデザイン性の幅も増えてきたと思えるようにはなってきたが…………。
いずれもNEMTDーPCには共通してある特徴を持っており、それは服のそこら中に描かれた〈ライン〉―――、厳密に言うと服に織り込まれた二本組のチューブがそこかしこに張り巡らされているという点にある。
一本は外の環境に合わせて活性化する働きをもつ、例の溶液が内在されたチューブ。
そしてもう一本のチューブについては今の時代――、日々の急な寒暖差や気圧変動からくる、交感神経の過剰な働きから自分では自覚しない内にエネルギーを消費し、《動悸》や《息切れ》・《喘息》などの発作的に起き得る症状を落ち着かせる為の役割を持った機関として設計された、言わば〈酸素ホース〉である。
何でも非常時における酸素確保の為の予備装置を展開する機能がNEMTDーPCにあるらしく、その使用法は―――……なんて、何も今ここで詳しく話すようなことでも無いだろう。
NEMTDーPCの目的が防護の為とは言え、そこは服として販売されている以上――、
あしらわれたラインのデザイン性に種類の違いはあれど、結局のところ、どれもその辺の造りは同じものとなっている。
かく言う布都部高校の制服デザインも、水色のラインをあしらった全身藍色の服といったもので、良く言えばシンプル―――
インターネットなどに見られる未来服のような格好良さが、あるような無いような………
悪く言えばそこには、従来の制服のデザイン性というものが損なわれていた。
そんな服を纏った二人の男女は、同じ学校に通うだけの関係―――。
特に互いが声を掛けることも無く、無言で信号待ちをし続けること数分――、彼の目の前にあるものが映り込んだ。
それはここより二つ先の信号で足を伸ばそうとする、一人の子供の姿。
あろうことか、その子供は転がっていくボールを追い掛けようと赤信号の中、今にも車道から身を乗り出そうとする様子である。
「何てこった。くそッ!見えていることに目を逸らすなんざ、夢見が悪いってもんだろがっ!」
そう言って彼は青信号になった瞬間――、すぐさまに駆け出し、まずは手前の横断歩道を瞬時に突破。
すぐさまその先の一つ目の車道を突破したいところだが、向かい側の信号は赤を示している。
だが彼はそんなことお構い無しに、左右に通り行く車のスピードを見極めて飛び出して行き、絶妙な車と車の間の間隔に入り込み、まずは手前の右側から走ってくる車の間を突破。
そのまま右と左の道を隔てる黄色の実線―――、
はみ出し通行禁止の線を踏んで、今度は左側から走ってくる車が迫って来るが、これを大丈夫と見たのか勢いよく身を乗り出し、前のめりに飛び込んでそのまま前転して間一髪それを回避。
白のガードレールに手を付き、足から滑るようにしてその下を潜り、勢いに乗って二つ目の車道へと差し掛かる。
この時にはすでに子供は車道を飛び出していて、横から向かってくる車が勢いよく急ブレーキを掛けて止まろうとするが、とても間に合いそうには無い。
最早――、迷っている暇は無い。
そのまま走るスピードは殺さず、車道の中へと駆けて行き、向かって来る子供の手を取ることが出来た。
そこまでは良かったのだ。
そう、そこまでは………
ドシャッ!
常識破りの交通ルールで前を走る一台の車を追い越す、不意打ちの突撃車と衝突してしまい、彼の身体は大きく吹っ飛ばされていった。
頭や腕、身体の節々を強く打ち付けられ、大量に出血したこの身体ではもはや命は助からないであろう。
これも同じく、交通ルールを破った自分への罰、何だろうな………なんて思いながら、彼の意識はどんどん暗い闇へと落ちていくのだった。