第6話:神の雫DX事件と屋根裏のテロリスト
午前五時三十分。神乳短大の正門の上空は、まだ墨を流したような色をしていた。
薄い霧が『カフェ・ミルクホール出張販売』の屋台にまとわりつく。看板の文字は雨に打たれて、もう掠れかけていた。
ジャリは黄色い歯を見せて欠伸をした。埃だらけの手で、屋台の上に鎮座するガラス水槽の南京錠を開ける。
「おい神トカゲ、起きろ。仕事だ」
彼は中を覗き込んだ。
空っぽだった。
あるのは使い古された砂と、乾いた糞と、緑色の千切れた尻尾だけだった。先端は煎餅みたいにカラカラに乾いている。
ジャリは三秒固まった。それから地面に痰を吐いた。
「ちくしょう。逃げやがったか。やれやれ。名前つけたばっかりだったのによ」
彼はその尻尾を摘まみ上げた。側溝へ放り投げる。
「まあいい。明日また鳥市場で買ってくりゃいい。こいつは運がねえ」
屋台の骨組みの上から、ミコはその様子を見下ろしていた。
あいつ、俺を探しもしねえ。慌てもしねえ。迷子のチラシだって作らねえ。
ジャリにとって俺は、屋台を怪しげに見せるための百均の電飾と同程度の価値しかねえんだ。
結構だ。ますます確信した。
こういう種類の人間には、骨の髄まで思い知らせてやる必要がある。
ジャリは気にも留めない。コンロに火をつけた。人間の頭ほどある氷柱を削り始める。
隣の大鍋には、紫色のドロドロしたシロップが入っていた。甘ったるい匂いがする。だが、鼻を近づけると微かに死臭が混じる。
北千住市場の訳あり果物。アグス・スギオノ・アリフの三悪トリオから仕入れたやつだ。
ジャリは指で掬って舐めた。
「べえ。やべえ。甘さが神レベルだ。神乳短大のガキども、イチコロだな」
彼は下品に含み笑いをした。「商売は止まらねえからな」
上の方で、ミコは吐き気を堪えていた。比喩じゃなく、本物の吐き気だ。
午前六時。ジャリは神の雫DXのトッピング用にバジルシードを煮始めた。
鍋はもうと湯気を立てている。種はカエルの目玉みたいに膨らんでいく。パンダンと砂糖の匂いがした。
ミコは屋台の鉄骨を伝って移動する。腹は鳴っている。だが、復讐心の方がもっとうるさく鳴っていた。
待つ。ジャリが鍋から離れるのを。あいつは絶対にTikTokのライブ確認でスマホを見に行く。
そして降りる。ヤモリ忍法で。音を立てちゃならねえ。
湯気を立てるバジルシード鍋の真上で尻の位置を決める。
投下する。神からの贈り物だ。黒くて硬いヤモリの糞一粒。
千切れた尻尾でちょいと掻き混ぜる。自然なトッピングに見えるように馴染ませる。
ミコはほくそ笑んだ。五十人の女子大生が食中毒になったら、全員が腐ったバジルシードのせいだと思うだろう。
どこの警察が、バジルシードの中のヤモリの糞を調べようと思うんだ。
これぞ完全犯罪ってやつだ。
午前六時五十五分。ジャリは本当に離れた。スマホの通知が鳴ったのだ。
「ちくしょう。コメントもう二千件か。着替えてくる。映えなきゃな」
彼は屋台の裏へ駆けていった。
チャンスだ。
ミコは掴んでいた手を離した。落下。ぱふっ。静かだ。
彼は見事に鍋の縁へ着地した。熱い湯気が顔に吹きかかる。
ミコは気張った。顔は真っ赤だ。目は血走っている。
ロジャリ博士のために。ユイのために。セクハラされた全女子生徒のために。
ぷりっ。
黒い粒が一つ落ちた。どぼん。白いバジルシードの海に消えていった。
ミコはすぐさま千切れた尻尾で突いた。バリスタみたいにぐるぐると掻き混ぜる。シャッシャッ。
三秒後、ジャリが戻ってきた。もう『俺は専門家』と刷られたTシャツに着替えている。
「うひょー。いい匂いだ。今日のトッピングは神ってるな」
彼は何も知らない。特製バジルシードを五十杯の神の雫DXへ注ぎ込んだ。
ミコはもう天井裏へ逃げていた。息は切れている。だが、笑っていた。
召し上がれ、ジャリさん。オードブルは俺が仕込んでおきましたよ。
正午十二時。神乳短大のチャイムが鳴った。キンコンカンコン。
正門が開く。二百人以上の女子大生が洪水みたいに溢れ出す。
ミニスカート、染めた髪、使い古した合皮バッグ、承認欲求でギラついた顔。
正門の前では、ジャリがスタンバイしていた。TikTokライブはオンだ。
アカウント名は『現役ハーブ研究家・ジャリ先生』
キャプションは『美肌の秘訣はこの氷にあり』
ジャリは安物の拡声器で叫んだ。音は割れている。
「おーい神乳短大のお嬢ちゃん。冷たいのどうだ。美肌になるぞ。今だけ百円だ」
行列はすぐさま長蛇になった。五十人以上だ。
列の中に、就活中の最終学期のユイがいた。目の下にクマ。顔はストレスで死んでいる。
パパ活のリカがいた。学費を払う金持ちを探している。
生徒会長の仏頂面が、企画書のファイルを抱えていた。
第五話のボインのメグミはいない。胸を触られそうになって、三日前にジャリから出禁を食らったからだ。
ユイが一番手だった。
「美味しい。これで内定きっと」
彼女は特製バジルシード入りの氷を最後の一滴まで吸い尽くした。
十五分後、ユイの顔が壁みたいに真っ白になった。冷や汗が額から滴り落ちる。
「せ、先生。お腹、痛い」
彼女は腹を抱えた。膝がアスファルトに崩れ落ちる。
直後、女子トイレ一階が陥落した。
「キャー。誰か。個室空けて」
「間に合わない。漏れる」
悲鳴、嘔吐音、トイレの水を流す音。全部混ざってコンサートみたいになった。
二十分後、保健室は満杯だ。二十人以上の生徒が床に転がっている。養護教諭は二人だけ。パニックだ。
廊下は酸っぱくて甘くて臭い匂いが一つになった。終末の匂いだ。
ユイの担任は泣きながら救急車に電話した。「もしもし。学生が。倒れました」
学内のデジタル掲示板が自動更新された。
『神乳短大、集団食中毒パニック!原因は屋台の氷か!?』
ジャリはまだ屋台の前にいた。まだライブ配信中だ。まだ事態を飲み込めていない。
「ほらな。バズっただろ。俺の氷は神だ。いいね押して。フォローしろ」
視聴者は一万人を突破した。コメントが荒れる。
『炎上してるぞ』
『警察まだ?』
『トカゲの呪い』
ジャリは読みながら笑っている。「はっ。嫉妬かよ。アンチ乙」
天井裏で、ミコはハエを齧りながら観戦していた。世界で一番うまいざまぁだ。
午後一時。警察のサイレンが鳴り響いた。ウーウーウーウー。
パトカー三台と救急車一台が神乳短大の正門を封鎖した。黄色いテープが張られる。
防護服の鑑識班が降りてきた。ジャリの屋台を即押収する。
彼らは残りの氷、ユイが吐いたもの、ゴミ箱のバジルシード、鍋の紫シロップをサンプルとして回収した。
ジャリは手錠をかけられた。顔はまだ呆けている。
「おいおい。人違いだろ。俺はちゃんと税金払ってる個人事業主だぞ」
午後二時。校長室での取り調べ。
警察「ジャリさん。氷の材料、全部正直に言いなさい」
ジャリは汗だくだく。だが、まだ誤魔化す。
「神の果物だよ。北千住市場の高級ルートで仕入れた。一級品だ。書類もある」
彼はドンキの印鑑が押された納品書を見せた。
警察は黙った。十五分後、ドアが開く。鑑識の職員が紙を持って入ってきた。
鑑識職員「結果出ました」
彼は無表情で読み上げる。
「氷から検出された細菌は、サルモネラ・エンテリティディス」
「爬虫類の糞便が由来の菌です」
「トカゲ、ヤモリ、その類の」
静寂。エアコンの音と壁時計の秒針の音だけが響く。
ジャリの脳がロードを始める。一パーセント。二十五パーセント。九十九パーセント。チーン。
ジャリ「は。爬虫類だと」
彼の目は突然大きく見開かれた。天井を指さす。
「まさか。あの野郎。あのトカゲ」
警察「心当たりがあるんですか」
またドアが開いた。重要参考人が入ってくる。メグミだ。仏頂面だ。
警察「君はなぜ無事なんだ。クラス全員被害者だぞ」
メグミ「ジャリさんに胸触られそうになって。三日前から出禁にされたので」
ジャリはパニックだ。「うるせえ。お前の服が悪い」
警察はタブレットに入力する。「なるほど。食中毒と迷惑防止条例違反。両方ですね」
ジャリ「詰み」
彼の顔は削った後の氷みたいに真っ青だった。
ジャリは錯乱した。ストレスだ。彼は天井を見上げた。指をさして喚き散らす。
エアコンの上に、一匹のヤモリが張り付いていた。痩せている。尻尾は千切れている。だが、目は爛々と光っていた。ミコだ。
ジャリはありったけの声で叫んだ。
「てめえええ。やっぱお前の仕業か。降りてこい。法廷で決着つけようじゃねえか」
警察と校長が上を見た。「ヤモリ」
ミコは黙っていた。視線は冷たい。排泄哲学者の視線だ。
ゆっくりと、彼は尻を持ち上げた。
これは、下痢のせいで面接に落ちたユイのためだ。
これは、トラウマを結婚まで引きずることになる五十人の女子生徒のためだ。
これは、正義はどんな手を使ってでも追求すべきだと教えてくれたロジャリ博士のためだ。
二秒の静寂。
そして、ぷりっ。ぽとっ。
生温かくて黄色くて粘つく一滴が、天井から落ちた。
美しい弧を描いて飛んでいく。完璧な放物線だ。
見上げていたジャリの禿げ頭に、べちゃりと着弾した。
ジャリ「うわああああ。頭に。頭に生温かいのがああああ」
彼は感電したみたいに飛び跳ねた。手錠がじゃらじゃら鳴る。
「臭い。臭い。誰か拭いてくれえええ」
警察はドン引きだ。三歩後ずさった。一人は鼻を摘まんでいる。
「証拠保全、します」
ミコは待たない。彼は換気口から逃走した。校舎の屋根裏へ消えていった。
校長室から聞こえたジャリの最後の言葉。
「覚えてろよトカゲええええ。俺はまだ終わってねえええ」
午後五時。夕方。北千住の空は、焦げたオレンジ色だった。
ジャリはパトカーに引きずり込まれていった。カフェ・ミルクホールの屋台は『立入禁止』のテープで封鎖された。
神乳短大は『ジャリ出禁 永久』と発表した。
北千住市場の裏路地。魚の塩辛い匂い、血、生ゴミの匂いが一つに混ざっていた。
ミコは足を引きずって歩いていた。千切れた尻尾が地面を擦る。腹は減っている。体はドブ臭い。
だが、彼の目には安らぎがあった。解放だ。
俺の理論は証明された。排泄こそ真理。
ジャリが堕ちたのは、警察のせいじゃない。メグミのせいでもない。
あいつは糞で堕ちた。俺の糞でだ。
彼は立ち止まった。ゴミ捨て場の隅で、か細い鳴き声がした。
痩せこけた子猫が震えていた。毛は抜け落ちている。目は窪んでいる。肋骨が浮き出ていた。
ついさっき、商人に蹴られてドブに落ちたばかりだ。
子猫は力んだ。腹が鳴った。そして、水っぽい下痢をした。生臭い。
彼は小さく鳴いた。まるで人生を諦めたみたいに。
ミコは黙った。足を引きずって近づく。
彼はゴミの山を見た。まだ新鮮な魚の頭が残っていた。
ミコは鼻先でその魚の頭を押した。子猫の前へ。
「おい。チビ。食え」
子猫は頭を上げた。潤んだ目だ。魚の頭の匂いを嗅いだ。少し舐めた。泣いた。
ミコはその隣に座った。待っていた。
遠くの方で唸り声がする。市場の主、デブの茶トラが他の猫を威嚇していた。だが、ミコは振り向かない。
彼の用事は、今は一つだけだ。
このガキが飯を食うのを待つこと。
第6話、更新しました。
おかしいな、なんだか日給250円の生活を愛し始めている気がする。はははは。
だって、もう5ヶ月、このフリーの仕事以外に収入がないんだから。
今夜は、ずいぶん暑い。
冷たいビールが飲みたいけど、最後に飲んだのは2025年の12月だ。
あの時は友達が借金を返してくれて、そのお金で買ったんだ。
今の給料じゃ、ビール1本買うのも重い。
1本の値段も忘れたけど、こっちは日本の缶ビールより少し大きい瓶で売ってることが多い。
値段は1本8万ルピア(約800円)。
3日間、飯を抜いて働かないと、ビール1本も飲めない。
もし無理して飲んだら、胃と肝臓に笑われそうだ。はははは。
でも、皆さんからの「ブックマーク」「★評価」「コメント」は、ビール1本買いたいって気持ちよりも、ずっと価値がある。
お願いです。画面下のボタンを押してやってください。作者、本当に嬉しいです。
あなたのブックマークが、作者を今日の暑さから救う最初の一歩になります。マジで。
では、第7話でお会いしましょう。
ブックマーク、よろしくお願いします!
Trowy-San




