第4話 偽博士と毒氷
暗い。冷たい。体が砕けたみたいに痛かった。
闇の向こうに光が見える。白い髭、ぶかぶかの白衣、丸い眼鏡。
世界で一番知ってる声が、静かに呼んだ。
「……弟子よ、起きろ……まだ、旅は終わらんぞ」
ミコの目から涙が溢れた。喉はからからなのに、声を振り絞って叫ぶ。
「師匠……ロジャリ師匠!僕……僕は失敗しました!僕は馬鹿なトカゲです!」
その手が伸びる。温かい。確かに触れられる距離だった。
指先が触れる、その瞬間だった。
バン!
夢の世界は粉々に砕け散った。代わりに現れたのは、生臭い錆の匂いと、耳障りな怒鳴り声だ。
「おい起きろ、神のトカゲ!もう昼だぞ、この馬鹿!」
ミコは跳ね起きた。光じゃない。そこにあったのは安っぽいネオンライトの点滅だった。白衣じゃない。ピンクの派手なエプロンがあった。染みだらけの布に、こう書いてある。
『神乳短大限定!神フルーツ氷 500円』
『ミスコン公式スポンサー』
そしてエプロンの向こうの顔は、師匠ではなかった。
ずるそうな細い目に、薄い口髭、市場の悪党みたいな笑み。
「俺はジャリさんよぉ!北千住一のバズらせ屋、氷屋の天才だ!」
ジャリさんは氷を砕く金物でミコの水槽を叩いた。
「なんだよ、泣いてんのか?気合入れろや。今日からお前は俺の商売道具だ。縁起物だぞ」
師匠じゃない。シンタでもない。インドネシアでもない。
ここは神乳短大。地獄の入り口だった。そしてミコは、悪魔のガラス牢の中で目を覚ました。
ミコは何も言えなかった。ただ心の中で叫ぶだけだった。ごめんなさい、師匠……僕、悪人に捕まりました……
ミコの日々は、同じ悪夢の繰り返しになった。
毎日午前二時、ジャリさんは水槽に水道水をぶちまけてミコを起こす。
「商売繁盛の儀式だ!今日の氷が全部売れるように、神のトカゲ様を拝むぞ!」
それからジャリさんはミコの水槽を担いで、北千住市場へ向かう。
ミコの世界では、この市場は別の名前で呼ばれていた。北千住の闇市。第二話で三人組が胸の話で盛り上がっていた、あの場所だ。生臭さも、あの時と同じだった。
ジャリさんの目的は一つだけだった。見せびらかすこと。
魚屋の前、八百屋の前、肉屋の前に立つたび、彼は大声で叫んだ。
「おい、見ろよ!新しいマスコットだ!神のトカゲ様だ!」
イカを売る親父が怪しんで聞いてくる。
「ジャリさん、それ何だ。珍しいトカゲだな」
ジャリさんは大笑いしながらミコの水槽を揺らした。水がこぼれる。
「これか。神の使いだよぉ。インドネシアから空を飛んで来たんだ」
「触るとバズるぜ。昨日も動画撮ったら百万再生だ。お前らも触るか。千円な」
ミコは水槽の中でじっとしていた。水は汚い。体はだるい。
でも目だけは違った。怒りで燃えていた。
心の中でミコは呟く。気持ち悪い……狂ってる……僕は詐欺の道具にされた……
ロジャリ博士は人間を守れと言った。でも僕が出会った人間は、こんなゴミばかりなのか。
何もできなかった。尻尾は昨日ジャリさんに捕まった時に噛みつかれて、まだ痛む。
午前三時。市場が一番暗くなる時間だ。
ジャリさんはミコを担いで、一番奥へ向かった。ゴミ捨て場の匂いがする場所だ。掃除の人にも見られてはいけない取引の場所だった。
そこに、三つの人影があった。ミコは見た瞬間、目を見開いた。
太ったの。痩せたの。色が黒いの。
アグス・スギオノ・アリフ。
第二話で胸の話をしていた、あのセクハラ三人組だ。今はここにいる。闇八百屋になっていた。
太ったアグスが、サンダルで木箱を踏みつける。そして箱をジャリさんの方へ蹴り飛ばした。
箱の蓋が開く。中身は……
桃だった。色はもう紫に近い。どす黒い汁が滴っている。緑の蠅が何匹もたかっていた。匂いは……死の匂いがした。
ミコは息を止めた。神様……
ジャリさんはしゃがみ込んだ。全く躊躇しない。指で桃を一つ突き刺すと、その指を舐めた。
「うひょー……最高だ。神の味だ」
顔を上げて、アグスに商人の笑みを向ける。
「今週の訳ありは上物じゃねえか。いくらだ」
アグスは黄色い歯を見せて笑った。
「へへ……一箱十円でいいよ。ただし、食中毒は自己責任な」
ジャリさんはポケットを探る。黒ずんだ十円玉を一つ取り出した。そして投げる。
チン。
「上等だ。安すぎんだろ」
闇取引は成立した。
ミコは全てを見ていた。水槽の中で涙がこぼれて、汚い水に混ざった。
あの三人組だ。第二話のセクハラ三人組だ。
昔は口だけで女の子を汚していた。
今は……毒を売っている。人を殺すために。
ミコの拳は固く握られる。水槽のガラスに細いヒビが入った。
こいつらは人間じゃない。悪魔だ。
午前六時。北千住の空がオレンジ色に染まり始めた。
神乳短大の正門前。
女子学生たちが集まり始める。短いスカート、染めた髪、偽物のブランドバッグ。
おしゃべりして、笑って、無防備だった。危険なんて知らない。
そして門の前には、ジャリさんがいた。
屋台はピカピカに磨かれている。新しい看板が掲げられていた。
『本日限定!神の雫DX ー 飲めば内定!飲めば告白成功!』
屋台の上では、ジャリさんが大きな鍋をかき混ぜていた。中身はアグスから買った腐った桃を煮詰めた、どす黒い紫のシロップだ。
湯気が立ち上る。甘い匂いがする……でもその奥に、死体の匂いが混じっていた。
ジャリさんはお玉ですくって、味見をする。
「あー、完璧だ。絶望とZ世代の欲望の味がする」
ミコが乗せられた水槽の方を振り向く。その笑顔は、悪魔の笑顔だった。
「さぁ……神の雫DXで、あのガキどもを釣ってやる」
「金だよ、金!今日で俺は億万長者だ!」
ミコの目が見開かれる。血の気が引いた。
ドクン。
最初の女子学生が屋台に近づいて来るのが見えた。無邪気な顔だった。笑顔で五百円玉を出す。
「一つください!」
ジャリさんは笑う。「はいよ、お嬢ちゃん!」
悔しい。怒り。憎しみ。
ミコの体が震えた。水槽の水が激しく波打つ。
心の中で、ロジャリ博士の声が響いた。
トカゲよ!お前は人間を守るのだ!
でもミコは今、心の中で叫び返す。
こいつ、マジで売る気だ……こいつらを……殺す気だ……
師匠……僕……僕はどうすればいい……!
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P.S.
この物語は6話で大きく動きます。
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