第2話 漁夫の利
「……で、結局ウンコとおっぱい、どっちが偉いんだ?」
哲学的な問いは、腹の虫によって中断された。
グゥゥゥ……。
ミコは天井で苦笑した。そうだ。忘れていた。朝から何も食っていない。哲学は、満腹になってから、やるものだ。
ミコは匂いを嗅いだ。市場の隅から、世界で最も神聖な香りが漂ってくる。生ゴミの匂い。生命の匂い。タダ飯の匂い。
ロジャリ博士道場仕込みのヤモリ忍法で、ミコはパイプを伝って降下した。段ボールの裏、可燃ごみの集積所へ、華麗に着地。
本日のメニューはビュッフェだった。
親指サイズのゴキブリがストレッチ中。昨日の鮭おにぎりの残骸。そして最高級品。割り箸サイズのムカデが寝転がっている。
「北千住の五つ星レストランだな」ミコは呟いた。「神よ、感謝します。いただきます」
ハプ!
一匹目のゴキブリが、口の中へ。カリッ。香ばしい。地鶏よりワイルドな味だ。
「んまぁ~…ゴキブリ、意外とイケるじゃん」ミコは咀嚼しながら、虚空に向かって説教を始めた。「人間ってやつは偽善者だ。海の底の死骸を食うエビは食って、自分の残飯を食うゴキブリは嫌う。ダブルスタンダードだ。食のファシストめ」
第二の標的はムカデだった。
ミコは構えた。秘技『カエル、ハエを狙う』。
ハプ!スカッ。
「チッ!速ぇな!」ミコは毒づいた。「どうせロジャリに、半殺しのコオロギばっか食わされてたせいだ。狩りの勘が鈍ってやがる。これは教育システムの敗北だ!」
二度目の挑戦。息を止め、心を無にする。
ハプ!ヒット。だが、ムカデも反撃してきた。
「痛ってぇぇぇ!!」ミコはその場で暴れた。尻尾を刺された。百人の婆さんに つねられたような痛みだ。
「死ね!離せこのクソヤモリ!」ムカデはまだ抵抗している。
「お断りします」ミコは哲学者の顔で咀嚼しながら言った。「君の代わりを探すのは、そう簡単じゃない。君みたいなタンパク質に出会うのは、そう簡単じゃないんだ、愛しい人よ!」
三秒後、ムカデは力尽きた。胃の中へ。
「ふぅ、まあまあだな。バッテリー60%回復」ミコは平らな腹を叩いた。「あとはデザートだ」
腐った飯に手を伸ばしかけた、その時だ。
カァァァァァ!
空が暗くなった。突風が吹いた。ゴミ箱の縁に、軍鶏ほどの大きさの真っ黒なカラスが舞い降りる。目は邪悪。嘴は鋭い。市場の本当の支配者だ。
「おい。ここは俺のシマだ」カラスが言った。聞こえるのは「カァ!」だけだが、殺気がヤバい。
「げ、マジかよ地上げ屋」ミコは後ずさった。「兄貴、ちょっとだけ食わしてくださいよ。今日マジで金欠で…」
カラスは聞く耳を持たない。奴にとってミコは、500円のスナック菓子。歩くカロリーだ。
ガブッ!
その嘴が、ミコの胴体を挟んだ。
「ちょ、離せ!俺はインテリだ!ミミズじゃねえ!」ミコの叫びは虚しく響く。
カラスは飛び立った。高く、高く。その下は、アグス・フェルナンデスとドヨク・サントスと老人スギオノ・ロドリゲスがいる市場だ。
「ざまぁみろ!ヤモリなんかになるからだ!」カラスは多分そう言った。
そしてカラスは、市場の群衆の真上、高度10メートルからミコを放り投げた。
「うわあああ!また飛んでる!カラス航空、遅延しすぎだろ!」
その時、春一番が吹き荒れた。猛烈な風だ。
ミコの体は、壊れた凧のように空中で回転した。
「神様!仏様!悪魔様!誰でもいい!助けてくれたら、もうグループチャットで屁の議論しません!」
祈りは通じた。だが、その叶え方は最悪だった。
むにゅっ。
世界が暗くなった。柔らかい。弾力がある。温かい。洗濯石けんと汗が混じった匂い。
ミコはゆっくりと目を開けた。
目の前に、見覚えのある光景。今朝、三人の男の鼻血を噴出させた、二つの聖なる山。
「は?既視感?」
その通りだ。まただ。そして彼は、神々しく柔らかな二つの山に着地していた。
下では、アグス・フェルナンデス、ドヨク・サントス、老人スギオノ・ロドリゲスが、鼻血を拭いながら談笑していた三人が、同時に思考停止した。まるで神乳復活の通知でも来たかのように。
三人は上を見た。ミコを見た。神々しい景色を見た。彼らの邪な脳は、即座に100%ロードした。
アグス・フェルナンデスが小声で呟く。「おい…チャンス…」
ドヨク・サントスの目が緑色に光る。「今度は正当な理由がある!ヤモリの襲撃から女性を救うんだ!」
老人スギオノ・ロドリゲスが、入れ歯をカチッとはめて直立した。「若いの、道を空けなさい…これはプロの仕事じゃ…」
建前は遅れてきた英雄。
本音は性犯罪者。
三人は声を揃えて叫んだ。「お嬢さん!大丈夫!我々が助けに来た!」
神乳の女性は、ショックで固まっていたが、絶叫した。「きゃあああ!あなた、助けてぇぇ!」
「俺が先だ!」アグス・フェルナンデスが叫ぶ。
「ふざけんな!俺の方が近い!」ドヨク・サントスが肘打ちを食らわせる。
二人は即座に取っ組み合いを始めた。髪を掴み合い、腐ったリンゴを投げ合う。
その混乱の中、老人スギオノ・ロドリゲスはニヤリと笑った。漁夫の利だ。
「へへへ…若いもんは馬鹿じゃのう」
魚の生臭い匂いを漂わせながら、その70歳の老人は悠々と前に進み出た。皺だらけで節くれだった手が、神乳に向かってゆっくりと伸びていく。
「大丈夫じゃよ、嬢ちゃん…爺さんが、助けてやるからのう…」
距離10センチ。5センチ。3センチ。
老人スギオノ・ロドリゲスの指が、現世の極楽に触れるまであと一寸という時、突然…
「この、ド腐れ外道がああああああ!!!」
背後から、雷のような怒号が轟いた。
ドゴォッ!
プロパンガスボンベ並みの拳が、老人スギオノ・ロドリゲスの顎にクリーンヒットした。老人は2メートル吹っ飛び、自分の魚屋の台に激突した。
女性の夫が到着していた。買い物袋と、使い古しの小型冷蔵庫を抱えている。顔は茹でダコのように真っ赤だ。
「俺が氷買いに行ってる間に、うちの嫁に手を出すとは!このドスケベ爺が!」
老人スギオノ・ロドリゲスは、白目を剥いて失神した。ついでに失禁し、漏らした。生臭さが、三倍に増した。失神する直前、老人スギオノ・ロドリゲスはドヨク・サントスとアグス・フェルナンデスを指差して叫んだ。「あいつらもグルだ!」
老人スギオノ・ロドリゲスは、仲間も同じ目に遭わせたかったのだ。
人生とは、排泄である。どんな問題も、最後はウンコに帰結する。
夫は、まだ取っ組み合っているアグス・フェルナンデスとドヨク・サントスを睨みつけた。
「おい、てめえら!便乗してんじゃねえぞ!」
「ち、違います旦那!マジです!」アグス・フェルナンデスは泡を吹いて弁明した。「あいつ!あいつが最初に!」気絶している老人スギオノ・ロドリゲスを指差す。
「そうだ!そいつが扇動した!そいつが変態だ!」ドヨク・サントスも石を投げて加勢した。
気絶していた老人スギオノ・ロドリゲスが、突然うわ言を言った。「へへへ…天国じゃ…」
その瞬間、夫に蹴りを入れられた。
「じゃあ、てめえらは何で喧嘩してんだよ!」
「あの!あのトカゲのせいです、旦那!」アグス・フェルナンデスとドヨク・サントスは、声を揃えて上を指差した。「あいつが発端!あいつが最初にくっついた!俺たちはただ、助けようとしただけなんです!」
ずっと神乳の飾りと化していたミコは、冷や汗を流した。
「やべえ、俺が生贄にされてる!トカゲのスケープゴートだ!」
「あのトカゲを捕まえろ!」ドヨク・サントスが叫んだ。「口封じだ!」
「焼け!焼き殺せ!」アグス・フェルナンデスは果物の秤を武器に構えた。
ミコは、これがマズいと悟った。女性の服から、そっと手を離す。
ドサッ!地面に落下。
「追えええ!」
ミコは走った。四足全開で、全力疾走した。後ろでは、アグス・フェルナンデスが秤を、ドヨク・サントスが笛を、夫が小型冷蔵庫を抱えて追ってくる。
「ロジャリ師匠!異世界転生があるなら今すぐ迎えに来てください!」
ミコは市場を駆けずり回った。野菜の屋台を通り過ぎ、キャベツにつまずいた。鶏肉の屋台を通り過ぎ、母鶏に追いかけられた。スタミナはゼロ。HPは残り1だ。
視界が歪む。目の前がチカチカする。袋小路で、彼は諦めた。
荒い息を吐きながら、彼は空を見上げた。
突然、そのチカチカの向こうに、見覚えのある人影が浮かび上がった。
白い顎鬚。禿げた頭。白衣。賢そうだが、どこか癪に障る笑顔。
その声が、頭の中に直接響いた。久しく聞いていなかった声だ。
『……やれやれ、また弟子が増えたか。』
ミコは泣きそうになった。
その声は…間違いない。
「ゴ、ゴホッ…師匠…ロジャリ博士…!」
世界が、暗転した。
ミコは、意識を手放した。
第2話、本日も執筆完了しました。
今日もカップ麺とタバコ一本に支えられて、なんとか書き上げました。
インドネシアでの日給250円の生活は、1日2食がやっとです。
私は普段、朝ごはんを抜いて、お昼は「パケット・ヘマット」という節約定食を食べます。
ワルン(食堂)で売っている、一番安いメニューです。
中身は本当に質素で、少量の野菜と、タンパク質は卵が一個、そしてご飯。
残りのお金で、1日分の1リットルのミネラルウォーターと、タバコを1本買います。
ここでは、1箱買えない人のために、タバコはバラ売りされているんです。
それでも、この作品を最後まで完結させたい。
そのために、「ブックマーク」「★評価」「コメント」が、作者にとって一番のエナジードリンクです。
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では、第3話でお会いしましょう。
ブックマーク、よろしくお願いします!
Trowy-San




