第56話:聖女たちの行軍
◇
走っていた。
走って走って走り続けていた。
石の回廊が延々と続く。足がもつれる。膝が笑う。呼吸が追いつかない。涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになっている。それでもケイセルカットは止まらなかった。止まったら死ぬからだ。
背後から咆哮が追いかけてくる。元仲間だったものたちの絶叫が石の壁を震わせ、人間には出せない周波数の叫び声が足元から骨を伝って脳天にまで突き抜けてくる。
上へ。上へ。とにかく上へ。
第六層の階段を駆け上がった。第五層に戻る。血渇円堂を突っ切る。ここでつい昨日まで野営をしていたのだ。炊事場の跡がまだ残っている。ブルーソニアが短剣を研いでいた場所。ギンガナムが間の抜けた声で笑っていた場所。
それらすべてに目を逸らして、ケイセルカットは走り抜けた。
第五層から第四層への抜け道は斥候であるケイセルカットの頭に叩き込まれている。迷宮の地図は金よりも命よりも大事だとブルーソニアに教わった。その教えが今、ケイセルカットの命を繋いでいる。
背後の咆哮が遠くなった。追ってきていない──のか。あるいは追う必要がないのか。
──考えるな。走れ。
第四層。第三層。
疲労が限界に達し、ついに膝が折れた。
仰向けに転がると天井が遠かった。この階層は天井が高く、暗い空のように見える。
しばらくそのまま動けなかった。ブルーソニアの顔が浮かぶ。左目だけがまだ人間の目だった。「逃げな」と言った。「妹に──よろしく」と。
拳で地面を殴った。皮が裂けて血が滲む。
「畜生……畜生……!」
何度も殴った。それしかできなかった。
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ケイセルカットが立ち上がったのは、どれほど経ってからか分からない。
足は動く。骨は折れていない。体力は底をついているが歩くことはできる。歩ける限り前に進める。
地上に帰らなければならない。ギルドに報告しなければならない。あの歌のことを。仲間が化け物になったことを。名前も顔も知らない何かが迷宮の壁から歌を流し続けていて、それを聴いた人間は内側から化け物に変わるのだということを。
一歩ずつ荒野を歩き始めた矢先だった。
荒野の向こうから光が見えた。白い光──松明のそれとは違う、冷たく澄んだ光が列をなしている。
ケイセルカットは目を凝らした。
白い鎧だ。純白の鎧が列をなして進軍してくる。先頭を歩く巨大な影は豚鬼の体躯で、その傍らを黒髪の小柄な人影が歩いている。百人を超える大軍が迷宮の中を下ってきていた。
ケイセルカットは本能的に壁に身を隠しかけて──やめた。あの白い鎧には見覚えがある。カナンの聖騎士団だ。
「──おい! そこの!」
掠れた声だった。喉が干上がって何の迫力もない。
先頭の豚鬼が足を止めて振り返った。小さな目がケイセルカットを捉える。
「……探索者か。お前、一人でこんなところに? パーティは?」
低いが温かみのある声だった。
パーティは──その一語が、喉に刺さった棘のように痛んだ。
「──壊滅しました」
声が震えた。止められなかった。
「全員……おれ以外の全員が──化け物になりました」
◆
豚鬼がギルドマスターだという事に気づいたのは、息をついてすぐの事だ。
サー・イェリコ・グロッケン。アヴァロン探索者ギルドの長である。ブルーソニアが「あの豚鬼のおっさん、見た目はアレだけど実力は本物だよ」と笑いながら言っていたのを思い出す。
グロッケンの傍らに歩み出た女がいた。濡れ鴉の黒髪に透き通るような白い肌、法皇の白衣を纏った小柄な女。カナン全土の信仰の頂点に立つ人間──法皇レダだ。噂に聞く美貌はその通りだったが、その目はどこまでも冷徹だった。戦を見据える者の目である。
「話を聞かせなさい。全て」
レダが言った。命令ではないが拒否できる声でもなかった。
ケイセルカットは話した。
歌のことを。壁から天井から床から聴こえてくる歌のこと。理由はわからない。名前もわからない。ただ仲間が歌を聴き続けた結果おかしくなり始めたこと。目が虚ろになり、聴いたことのない旋律を口ずさみ始め、やがて言葉が通じなくなったこと。そして──石の回廊で突然、仲間の体が変わり始めたこと。
全てを話し終えた時、ケイセルカットは俯いていた。涙を見せたくなかったが顎から雫が落ちるのは止められなかった。
グロッケンが深く息を吐いた。
「ブフゥ……そうか」
黙って「大猪牙」の柄を握りしめている。レダは目を閉じて聞いていた。表情は変わらないが、その白い手が微かに震えているのをケイセルカットは見逃さなかった。
「──そうですか」
レダが目を開いた。
「この迷宮は、人を喰らうだけでなく──人を魔に変える。許しがたいですわ」
声は穏やかだった。だが「許しがたい」の一語に込められた重さは空気を震わせるほどだった。
グロッケンが鼻から深く息を吐く。
「ブフゥ……わかった。ケイセルカット、よく生き延びた。お前の仲間の話は忘れん──だが、これから先でお前はもっと辛いものを見ることになる」
「どういう意味ですか」
「お前の仲間が化け物になったのなら、その化け物はまだ迷宮のどこかにいるということだ。儂らがこの先に進めば──再び会うかもしれん」
息が詰まった。あの翼の怪物。四つ腕の獣。蛇の胴。肉塊。あれらともう一度向き合わなければならない。
「……一緒に行かせてください」
声は震えていたが、言葉にしなければ立っていられなかった。
「あいつらの最期を──おれが見届けます」
グロッケンは何も言わず、分厚い掌でケイセルカットの肩を一度だけ叩いた。
◆
連合軍が第五層を抜け、第六層の石の回廊に足を踏み入れたのはそれから半日のことだった。
ケイセルカットにとっては二度目の通過だ。前回はここで仲間が化け物に変わった。歌は聴こえない──少なくともケイセルカットの耳には。だが肌がざわつく。壁の向こうに何か潜んでいるような冷たい気配がいつまでも首筋を撫でている。
先頭のグロッケンが「大猪牙」を肩から下ろし、両手で握った。
「──ブフゥ……来るようですな」
前方の闇が蠢いた。
翼が見えた。ケイセルカットの心臓が跳ねる。
石の回廊の奥から異形の群れが現れた。ブルーソニアの隊だけではなかった。十体を超えている。歌に呑まれた者は他にもいたのだ。名も知らぬ探索者たちが人間だった頃の面影を僅かに残したまま、虚ろな目でこちらを見つめている。
その先頭に──翼を持つ異形がいた。二つ口の怪物。顔の下半分に縦に裂けた口。背中から翼が広がり、身体の輪郭はもう人間のそれではない。だが肩に残った傷跡は覚えている。ブルーソニアが第三層で蠍型の魔物にやられた時の古い傷だ。
「こいつらは──ブルーソニア……ギンガナム……ジギー……」
ケイセルカットの声が震えた。
翼のブルーソニアが咆哮した。風圧が石の回廊を叩き、同時に怪物の群れが突進してくる。
前衛の聖騎士が盾を構えた。盾ごと引き裂かれた。鎧の中の人間が肉と血の塊になって石畳の上に散らばり、ブルーソニアだったものの二つ口が返り血を散らして再び咆哮する。もう一人が聖剣を振り下ろしたが刃が翼に弾かれ、反撃の鉤爪が胸郭ごと抉り取った。
「あれは……人だったのか!?」
連合軍に動揺が走る。四つ腕のギンガナムだったものが隊列に飛び込み、人間の手では再現できない角度から四方同時の斬撃を繰り出した。一人が首を刎ねられ、一人が腹を裂かれる。
数秒で、下級とはいえ六人の聖騎士が死んだ。
◆
「──下がりなさい」
静かな声だった。レダが前に出た。武器は持っていない。素手で──拳を握っただけで前に立った。
翼のブルーソニアが反応した。最も強い気配を持つ獲物を本能が嗅ぎ取ったのだ。翼を広げて石壁を蹴り、生前の倍以上の速度で突進する。石の回廊の空気を裂いて赤い残像が走った。
レダの右拳が閃いた。神聖力による肉体強化──その極致。拳が翼の怪物の顔面を捉えた瞬間、衝撃は音を超えた。
翼のブルーソニアが吹き飛んだ。壁に叩きつけられて壁が陥没し、石片が散弾のように飛び散る。怪物の体が壁にめり込んだまま痙攣して──動かなくなった。
一撃。
ケイセルカットは息を忘れた。聖騎士二人を瞬殺した異形を、拳一つで沈めた。
四つ腕のギンガナムが襲いかかった。上からの斬り下ろし、左右からの薙ぎ、下からの突き上げ──四つの攻撃が同時に着弾する寸前、レダの体が頭一つ分だけ沈んだ。四本の腕全てが空を切る。最小限の動きで全てを見切り、懐に踏み込む。距離はゼロ。
拳が胸の中心を叩いた。四つ腕の巨体が内側から弾けるようにして崩れ落ちる。
グロッケンが踏み出た。「大猪牙」が弧を描き、ジギーだったものの胴を断つ。
「ブフゥ……すまんな。お前たちの仇は必ず取る」
グロッケンが静かに言った。特大剣の先端から血が滴っている。
肉塊の元神官にはアーク・ロードたちの聖光が浴びせられた。白い光が肉の塊を包み込んで焼き尽くし、残りの名も知れぬ怪物たちを聖騎士が組織的に駆逐する。
戦いは三分で終わった。
石の回廊に静寂が戻る。血と肉片と骨が散らばる通路の中央にケイセルカットが立ち尽くしていた。剣を抜いていない。抜けなかったのだ。元仲間に刃を向けることができなかった。戦闘の間ずっと泣いていた。一撃も振るえなかった。
レダが振り返った。血に汚れた拳を静かに下ろし、ケイセルカットを見つめる。
「……この方たちの名前を、覚えておきます」
ケイセルカットは何かを言おうとして口を開き、何も出てこなくて閉じ、もう一度開いた。
「……ありがとうございます。あいつらを──楽にしてくれて」
レダは何も答えず前を向いた。進軍を再開する。
ケイセルカットは袖で涙を拭い、前に踏み出した。死んだ仲間に背を向けて。
それは裏切りではないと、自分に言い聞かせた。
◆
第六層の石の回廊を抜ける頃、猟犬の斥候が駆け寄ってきた。
「報告です。前方、三百歩ほどの場所に異常な焦げ跡を確認しました」
連合軍はその区画に差し掛かった。石の床に巨大な焦げ跡が刻まれている。人間の形をした影が焼きついていた。雷に焼かれた痕だ。石が溶けてガラス質に変化し黒く光っている。周囲数メートルの壁と天井に放電の痕跡がびっしりと走っていた。
レダが足を止めた。ガラス化した石畳に指を触れる。
「……これは」
レダは何かを感得したかのように一つ頷き──
行きましょう、と一言呟き、迷宮の闇へ歩を進めていった。




