血巡る輪廻~テンプレ王太子とお人よし令嬢、二人とも死にました!~
タイトルはすみません、なにも思いつかなかったです
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ディアナ・シュタインベルクは公爵家の娘として生まれ、王家との結びつきを強めるために幼い頃から王太子との婚約者として扱われていた。
いわゆる政略結婚で、実のところディアナにとっては重荷にしか感じられなかった。
華やかなドレスと絶えない舞踏会、それらは公爵令嬢としての役割を果たすには欠かせないものだが、それと同時に、彼女の心をどこか息苦しくさせる要因でもあった。
その大きな理由のひとつに、王太子カシウス・アルブレヒトの存在がある。
カシウスは国中から俊英と謳われていたが、実際には気まぐれでプライドが高く、傲慢な男だった。
「やあ、ディアナ。今日も相変わらずの無表情だな。笑顔という言葉を知っているか?」
子供の頃から彼はディアナを小馬鹿にするかのような態度をとっていた。
人前では表向き婚約者としてふさわしい言葉をかけても、その目つきにはどこか見下すような色が混ざり込んでいる。
「お似合いの二人ですね」
周囲の貴族や使用人たちはそう祝福するが、ディアナ自身はその言葉にいつも違和感を覚えていた。
果たして自分は、こんな空気の中で一生を過ごすのだろうか。
そうした疑問を抱えながらも、日は過ぎていく。
しかしある日、ディアナの耳にこんな噂が流れてきた。
「王太子殿下は、別の令嬢に心を奪われているらしい」
その相手とは下級貴族の娘、マリーベル・エカルト。
天真爛漫で不思議な魅力を湛えるマリーベルは、気まぐれなカシウスの心を掴むには十分だったらしい。
ディアナはその噂を聞いた時、なぜか安堵に似た感情を抱いた。
「もしそうなら……殿下に惹かれてくれる相手がいるなら、そして殿下もその人を愛するならば。私も自由になれるのかもしれない」
もちろん、婚約者を裏切られる立場としては相応しくない思考なのだろう。
だがこの重苦しさから解放されると考えると、それほど悪い話でもないと感じてしまう自分がいた。
そしてその予感は、ある日の放課後に唐突に現実となる。
ディアナはこの日、学園での授業が終わった後にカシウスにサロンへ呼び出されていたのだ。
「ディアナ、婚約を解消してもらう」
そうカシウスが宣言した時、ディアナに驚きはなかった。
彼が言うには、心に決めた相手──マリーベルがいる以上、形式的な結婚など続けられないという。
「わかりました」
ディアナは逆らわずにそう答えた。
むしろ望む所だったと言ってもいい。
反対に、周囲の者たち──特にカシウスのお目付け役として密かにつかされていた者たちは蒼白な顔をして王へ報告をした。
公爵家との縁は、王家にとって重要な政治的役割を果たしている。
それを自ら壊そうとするなど、どうあっても許される行為ではない。
結果、婚約破棄は認められながらも、カシウスは大きな代償を支払う事になった。
王の怒りは激しく、彼は王太子の地位を奪われる。
「カシウスよ、お前は王位継承権を剥奪する」
その決定は国中に衝撃をもって伝わり、次期王は弟である第二王子ということが確定する。
さらにカシウスは北の塔へ幽閉され、その存在をいずれ病死として処理する方針が打ち出された。
昨今、王国は外交的に微妙な立場にあり、領土拡張主義を取る隣国などから隙を窺われているという状況で、公爵家との関係強化は必須であった。
その程度の政治情勢もわからず、あまつさえ国を乱すような真似をするカシウスは、無能を通り越して害悪だと王は判断したのだ。
一方、下級貴族の娘であるマリーベルは、夜半に姿をくらまして行方を眩ませる。
王からの勘気があまりにも重く、逃げる以外の選択がなかったのかもしれない。
そうして、カシアスは毒で緩やかに殺される事となった。
だがそれを知ったディアナの胸中は複雑であった。
「そんな……死ななくてもいいじゃない……」
ディアナは何度も父と王に面会を求め、恩赦を懇願する。
「お嬢様、これ以上は公爵家としても立場が……」
使用人が止めようとするが、彼女の目にはうっすらと涙がにじんでいた。
ディアナはもちろんカシウスを愛してはいない。
それでも死を望んでいたわけではなかった。
たかが婚約破棄くらいで──
そんな思いがディアナにはある。
この辺り、ディアナには上級貴族としての自覚がなかったのかもしれない。
しかし国王がそうと定め、もはや覆り様がないこともディアナには分かっていた。
§§§
「どうか、せめて最後に一度だけディアナに会わせてください。詫びたいのです」
ある日、カシウスがそんな要望を訴えた。
息子の最後の出会いならば、とカシウスはディアナとの面会を許された。
§§§
ディアナが北の塔を訪れた時、彼女は思わず息を呑んだ。
石造りの塔の中には湿った空気がこもり、陰気な臭いが立ち込めている。
これはまさに、死の塔なのだ──そんな思いで寒気を覚える。
螺旋階段を昇った先にある小部屋で、カシウスは衰弱した様子で微笑んでいた。
「ディアナ……来てくれたのか」
髪は乱れ、瞳には生気が感じられない。
匂いもそうだ。
かつては匂い袋などを持ち歩いて周囲に香しい匂いを振りまいていた男が、いまや死臭を振りまくにまで落ちている。
「殿下は私に余り優しくはしてくださりませんでした……でも、死ぬ事はないと、そう思うのです」
ディアナが震える声で言うと、カシウスはか細い声で「僕はもう殿下ではないよ……でも、すまない」と答えた。
「君を傷つけた。僕は……愚かだった」
彼の頬を涙が伝う。
カシウスはもやは傲慢な王太子などではなく、ただの悔恨に沈む若者である。
「私は……もう怒っておりません」
本心だった。
なぜ彼を恨まないのか、不思議なほどにディアナの胸には憎しみは湧かなかった。
たかが婚約破棄ではないか──ディアナの胸には再びそんな思いが沸く。
確かにカシウスは酷い男だ。
だが、死に値するほどか?
勿論政治という観点から見れば、カシウスは大きな過ちを犯したかもしれない。
しかし。
──何が、政治よ
ディアナは胸に怒りにも似た感情を覚える。
それは上級貴族が抱いてはならない類の感情だった。
「ありがとう……ディアナ……」
カシウスはやけにさっぱりとした顔で礼を述べる。
ただ、ディアナはそうもいかない。
せめて命だけでも、とは思うものの──
ディアナの如何なる嘆願も、国王は聞き届ける事はなかった。
§§§
翌朝、カシウスは息を引き取る。
訃報を聞いたディアナは涙こそ流さなかったものの、自身でも整理しきれない虚無感のようなものに襲われる。
貴族とはいったい何なのだろうという思い。
貴族の在り方というものが、何か生命に対する冒とくなのではないだろうかという怒り。
そういった思いが胸を締めつける。
その頃、マリーベルの行方をつかんだという噂が王宮で囁かれ始めていた。
それが真実かどうかは不確かで、ディアナは特に興味を示す気力もなかった。
「もう、私は……疲れたわ」
そう言ってディアナはしばらく公爵家で静養することにした。
そしてある日、広大な公爵家の庭園を散策していた時のこと。
美しく手入れされた公爵家自慢の草花だ。
本来なら心を癒してくれるはずの庭園。
だがどうにもディアナの胸に空いた孔のようなものがふさがらない。
「もう少し休まなきゃダメかしら……」
そんな事を呟いた次の瞬間。
不意に背後でざわり、とかすかな物音が聞こえる。
「誰か、いるの?」
振り返るやいなや、冷たい刃の感触が腹部に突き立った。
それだけではない。
刃を抉りこむ様にひねられる。
「っ……」
声を上げようにも、喉が血で塞がっているのか、かすれた息しか出せない。
視界がぐらりと揺れ、膝から崩れ落ちる。
地面に伏せたまま、ディアナは薄れゆく意識の中で衛兵の足音が近づくのを聞いた。
「ディアナ様が……誰か、早く来い! その女を捕えろ!!!」
必死の叫び声に応じるように衛兵たちが駆け寄ってくるが、既に手遅れだ。
──彼女は……
ディアナは下手人に見覚えがある。
狂ったように笑いながらそこに立っていたのは、マリーベルだった。
どうして、あなたが──そんな言葉すら発せないほど痛みは酷い。
マリーベルの表情は妖艶というより狂気に満ちており、口元からは泡のような唾が垂れている。
「あは、あはははっ……ざま……みろ……おまえの、せいで! お前のせいで!」
意味を成さないような呟きが、空気を切り裂くように響いては消える。
衛兵がマリーベルを取り押さえるが、それでも嗤うのをやめない。
だが、死にゆくディアナにとってはマリーベルのけたたましい哄笑などはどうでも良い話だった。
地面に広がる紅い液は生温かく、視界はどんどん暗くなってゆく。
──貴族、は、もういいわ
そんな事を思いながら、ディアナは死んだ。
◆◆◆
樫原 智樹は、昼休みの間ずっとぼーっとしていた。
窓の外から吹き込む風がカーテンをゆっくりと揺らしている。
5月の風は柔らかく、智樹は薄っすらとした眠気を覚えていた。
──最近、しゃきっとしねえなあ……
春という季節のせいだろうか、ここ最近はどうにも気怠い。
周囲のクラスメイトたちは各々会話を楽しんでいる様だが──
智樹はかれらの輪の中に加わるでもなく、机に肘をつきながらぼんやりと空を眺めている。
「……たそがれてるねー」
隣の席から声をかけてきたのは、伊藤という男子生徒だった。
智樹の数少ない友人の一人だ。
伊藤はややチャラそうな外見をしているが、空気を読むのが上手く、どこか要領の良いタイプでもある。
智樹は彼に苦笑を返す。
「なんかだるくてさ」
そう言ってから、自分のスマホを手に取る。
画面には連絡先リストがずらりと並んでいて、そのほとんどが女子の名前だ。
「おまえ、またあっちこっちに手を出してんの?」
伊藤が皮肉交じりに訊ねると、智樹は肩をすくめる。
「まあな。でも "なんか違うな" って思ったらすぐフッてるよ 」
智樹としては "無駄に弄んだりしてないよ" という意味で言っているのだが、本意がどうあれこれではプレイボーイの戯言である。
智樹は顔立ちが良く、頭脳明晰でスポーツも万能。
いわゆるクラスのヒエラルキーでいえば頂点に位置するような存在だ。
だから、自然と女子たちが言い寄ってくる。
しかし、そこに深い思いがあるわけでもない。
いつの間にか別の女子へ乗り換えてしまう。
少なくとも、周囲からはそう見えていた。
「けっこう噂になってるぞ。女の扱いが酷いって」
「別にいいだろ。嫌なら話しかけるなってんだ」
智樹は投げやりに言葉を出す。
「まあ、俺は別に止めないけどよ」
伊藤はため息交じりに言いながら、教室の後方に視線をやる。
「ところでさ、あの転入生、井出 直子っていったっけ? めちゃくちゃかわいくね?」
智樹は彼の目線を追いかけるように振り返る。
そこには、窓際の席で静かにノートを閉じている少女の姿があった。
黒髪を肩下くらいまで伸ばし、深い色合いの瞳が印象的だ。
表情はどこかはかなげで、少しうつむき加減な姿勢が、男子の保護欲をくすぐるタイプかもしれない。
「井出 直子……」
智樹はその名を小さく呟く。
目で追うたびに心臓がざわめくような感覚が湧き上がる。
彼女が転入してきたのは、ちょうど一か月ほど前のことだった。
「おまえなら、すぐに狙いに行くと思ったけどな。手、出さないのか?」
伊藤の茶化すような声に、智樹はしばし口を開けない。
その一か月間、実際に直子へアプローチすることは一度もなかった。
なぜか、彼女を前にすると胸が苦しくなるのだ。
これまで何人もの女子に平然と声をかけてきたというのに、直子には同じことができない。
むしろ話しかけることすら緊張してしまう、という致命的な状態。
「……なんか調子狂うんだよ」
素直にそう答えると、伊藤は意外そうに目を見開いた。
「へえ、そんな珍しいこともあるんだな」
智樹は視線を戻して直子の後ろ姿を再び見つめる。
まるでどこかで会ったことがあるような、そんな奇妙なデジャビュ。
◇
その一か月は、智樹にとって何とも落ち着かない日々だった。
放課後や昼休み、直子は一人で静かに読書をしていることが多い。
クラスメイトたちとは最低限の会話は交わしているらしいが、まだ打ち解けていない部分も見える。
かわいいのに周りから群がる男子がいないのは、彼女の独特の空気感が理由なのかもしれない。
なんというか、 "住む世界が違う子" といった風情なのだ。
いやいや、自分の様な庶民が──という気にさせられてしまう。
智樹の場合は少し違ったが。
彼の場合は話しかけようとすると、凄まじい……例えるなら罪悪感のようなものを覚えてしまい、まともに口も利けなくなる。
「なんなんだよ」
夜、ベッドの上で寝転びながらスマホをいじりつつ、智樹はボヤいた
「恋……?」
まさか恋しちまったのか!? 俺が!? ──などと思ったりもしたが、良く考えてみるとどうもそれも違うようだ。
なんなんだろうな、と思いつつも智樹は気付いたら直子の事ばかり考えるようになっていた。
◇
そして転入からちょうど3か月経った日、智樹は昇降口で直子にでくわした。
下駄箱の横の壁に寄りかかっている。
「あ、樫原君」
彼女の声は、どこかやわらかく耳に心地よい。
智樹は胸の奥の苦しさを必死に抑え込みながら、かろうじて頷く。
普段のプレイボーイっぷりからは想像もできない情けない様子だ。
「井出……さん」
最後に女子にさん付けしたのなんていつだよ、なんて思いながら智樹は返事を返す。
すると直子はまっすぐ智樹を見つめながら──
「私、樫原くんを見てると、どこかで会ったことあるような気がするの」
などと言うではないか。
直子の瞳が、何かを探るかのように揺れていた。
「……え?」
驚くしかなかった。
こちらが感じている事と同じことを、彼女も思っているという事実に。
智樹は頭の中が真っ白になる。
うまい返しが浮かばない。
「覚えてない? もしかしたら前の学校とか、どこかですれ違ったとか」
そう問いかける直子に、智樹はかろうじて首を横に振るだけ。
何も言えない。
軽口でごまかすこともできず、まして自分のこの胸の苦しさの理由なんて、口にできるはずもない。
そもそもなんで直子と面と向かうとこうなるのか、智樹自身にもよくわかっていないのだから。
「さ、さあ……どうだったかな……」
しどろもどろに答えた後、どうしようもない焦燥感が襲ってきた。
直子と視線が重なるたび、頭の奥に何かが閃きそうになるのに、それをつかみ取れないもどかしさ。
「ごめん、俺……ちょっと用事思い出した」
智樹はそう言って、彼女の言葉を最後まで聞かずに廊下を駆け出していた。
「あ、ちょっと待って!」
直子の声を背に受け、情けないと思いつつも智樹はその場から逃げ出した。
◇
翌日、智樹は自分の態度を振り返って後悔する。
あんな逃げ方をしてしまったことで、直子に変な印象を与えたのではないか。
いろいろと思い悩んだ末、クラスで見かけてもさらに話しかけづらくなってしまった。
直子もどこか申し訳なさそうに視線を落としていて、空気はぎこちない。
そんな中、ある朝のホームルームで担任の教師が何やら深刻そうな顔をして教壇に立った。
「みんな、ちょっと聞け。最近、近隣で通り魔事件が起きているらしい。帰宅や登下校の時は、なるべく人通りの多い場所を通るようにしろ。一人で帰ったりするなよ!」
男子の何人かは「どうせすぐ捕まるだろ」と笑う。
女子の何人かはやや不安げな顔をするが、そこまで深刻には捉えていないようだ。
基本的には大半の生徒はピンと来ていないようだった。
智樹も、ふうんと受け止めつつ、何となく他人事のように思う。
学校の周辺は比較的治安が良いとされるし、ましてや昼間は人通りもある。
教師も繰り返し注意を促したが、誰一人真剣に聞いているようには見えなかった。
◇
それから数日たっても智樹は不調のままだった。
昨日も直子と顔を合わせたのだが、気まずい視線を交わしただけで会話はない。
「……このままじゃダメだよな」
そんな風に思いながらも放課後を迎え、結局その日も直子とは一言も話せなかったし、ましてや先日の無礼を詫びる事すらもできなかった。
放課後、智樹はカバンを引っつかんで教室を出る。
明日こそはちゃんと謝ろうなどと思いつつも、それが叶うかどうかは自分でも怪しいと思っている。
校門の方へ歩いていくと、遠くに見覚えのある黒髪が揺れているのに気づいた。
直子だ。
智樹は少しまってから帰ろうと思ったが──
目の奥まで太く長い針を差し込まれたかの様な激痛が智樹を襲った。
思わずその場に蹲るがしかし。
駄目だ
駄目だ
行け
待つな、行け、走れ
話しかけろ、一緒に帰れ
そんな声が胸の奥から沸いてくる。
智樹はその声に抗う術を持たなかった。
そうしなければならないのだ──そんな思いが胸を、心を焼き焦がしている。
そうして意を決して──
「井出……さん」
名前を呼ぶと、直子は振り返る。
目が合った瞬間、また胸が苦しくなるような妙な圧迫感が智樹の心を襲った。
それでも智樹は、なんとか笑みを作る。
「この前は、そのごめん……謝りたくって」
すると直子は一瞬驚いたような顔をするが、すぐに小さく微笑む。
「うん、わかりました」
智樹はほっと胸をなでおろすが──
「それにしてもいきなり逃げちゃうから、結構傷つきました」
そんな直子の言葉に、智樹は返す言葉を持たなかった。
「許してあげますから、よかったら一緒に帰りませんか?」
唐突の申し出。
だが、すぐにああと納得する。
「通り魔、だったっけか。まだ捕まってないもんな」
直子は頷く。
「目撃情報はあるみたいだから、捕まるのもすぐだとおもうんですけどね……」
「この時間ならまだ大丈夫だと思うけど、暗くなってからがちょっと怖いかもな……」
智樹の言葉に、直子は「怖がらせないでくださいよ! もう、意地悪なのは元からみたいですね。あの時だって──」
そういって直子はふと考え込む。
あの時?
あの時とはいつだ?
直子は以前逃げ出された時とは違うシーンを想像して先の言葉を言ったのだが、不思議な事にそのシーンというのを思い出せない。
「あ、ご、ごめんなさい。ちょっと勘違いしてたみたいで……えっと、うん、まあ帰りましょう!」
智樹は軽く首をかしげ、ややあって頷く。
二人で並んで歩き出すと、周囲にはあまり人の姿がなかった。
時間が遅めだからか、すれ違う生徒もまばらだ。
「その……また同じ話になっちゃうけど、この前はごめん。話しかけてきてくれたのに、逃げるみたいに帰っちゃって」
智樹が謝罪すると、直子はややうつむいてかすかに首を振る。
「ううん、私も突然あんなこと聞いちゃったし、びっくりしましたよね」
「まあ、びっくりはしたけど……実は、俺も同じ感覚があるんだ。井出さんのこと、どこかで会った気がする、って」
直子は顔をほころばせる。
笑顔になった彼女は、また一段とかわいらしく見えた。
「そっか。じゃあ、私の勘違いじゃないみたいで嬉しいです」
そう言いながら、彼女はふっと視線を落として呟く。
「もしかしたら前世で会ってたのかもしれない、なんてね……」
言葉は冗談めかしているようだが、その表情はどこか不思議な陰影を帯びていた。
智樹は苦笑をこぼす。
「前世、か。スピリチュアルな話になってきたな~」
何となく会話が自然に弾む。
この一か月間の気まずさが嘘のように、二人は小さな笑い声を交わしながら歩みを進めていた。
やや大きな通りを曲がった辺りで、向かいから男が一人歩いてくるのが見える。
上下がスウェットで、手にはコンビニ袋らしきものを持っている。
年のころは40か、50か。
特に怪しい様子はない。
智樹は直子の隣で歩調を合わせ、その男とすれ違おうとする。
その瞬間、なぜか背筋に嫌な予感が走った。
「……っ!」
背後で足音が一気に加速する気配を感じ、智樹はとっさに振り返る。
そこには、先ほどの男が凶暴な目つきでナイフを構え、一直線に直子へ突進してくる姿があった。
「危ない……っ!」
智樹は反射的に直子の体を押しのけ、自分が前に出る。
金属が肉を裂く鈍い感触とともに、鋭い痛みが腹部を貫いた。
「ぐ……あ」
思わず呻き声を上げ、地面に倒れ込みそうになるが、相手のナイフを掴む手を離さない。
男は何とかナイフを引き抜こうと力を込めるが、智樹はありったけの力でそれを阻止する。
「う……離せ、このっ……!」
男の声が歪んで耳に届く。
智樹はほとんど意識が朦朧とする中で、必死にナイフの刃を掴んだ手を放さない。
このためなのだ、という思いが智樹の中にある。
自分はこのために生きてきた──自分でもよくわからない、そんな思い。
付近から悲鳴が上がり、人々が駆け寄ってくる気配がする。
「通り魔だ!!!」
「学生が刺されたぞ!!」
「誰か! 警察!! 警察よんで!」
「あの男をおさえろ!」
そうこうしている内に男は通行人らに取り押さえられ、騒然とした空気が広がった。
智樹はその場に膝をつき、腹からあふれる血をどうにもできずにいる。
「樫原くん……しっかりしてください!」
耳元で、直子の声が震えているのがわかる。
腕にしがみつく彼女の温もりに、少しだけ意識が戻るような気がした。
苦しい呼吸を整えようとするが、なかなかうまくいかない。
「大丈夫……すぐ治るから……」
精一杯の笑みを浮かべながら、そんな言葉を吐き出す。
もちろん治るわけがない。
智樹はただ直子を安心させたい一心で必死に笑おうとしていた。
その時、直子の瞳が大きく見開かれる。
まるで何かを思い出したかのように、視線がゆらりと揺れ動く。
「え……あ……」
智樹も同じだ。
なぜこんな大事な事を忘れていたのだ、というような風情で直子を見つめている。
「これ……で、許してもらえるか……? ディ……アナ」
智樹は確かにそう言った。
次の瞬間、智樹の意識は闇に引きずり込まれるように途切れた。
「え、なに……? なんなの……樫原君……え? か、カシウス……殿下」
直子は何千何万もの写真を一気に見せられたかのような、そんな感覚を覚えた。
身に覚えのない記憶。
身に覚えのない思い出。
カシウス。
ディアナ。
婚約破棄。
死。
殺。
「どうして、あなたが……」
直子は呆然と呟き──
意識を失っている智樹を見て顔色を変えた。
「だめ! 死んじゃ駄目!!!」
そう叫んで手を握る。
やがて救急車のサイレンが遠くから聞こえ始め──
◇
それからの暫く、智樹は病院に入院した。
ナイフによる腹部刺傷だったが、幸いにも内臓の急所を外れていたらしく一命をとりとめる。
教室では彼が大怪我を負ったことに衝撃が走り、通り魔事件としてテレビなどでも大きく報道された。
伊藤などは見舞い品を抱えて何度か病室に足を運んだが、そのたびに智樹は疲れた様子でベッドに横たわっていたものだ。
ちなみに極一部のクラスメイトを除いて智樹を見舞うものはいなかった。
まあこれまでの行状がよろしくないというのもあるし、命に別状がなかったならいいじゃないかと考えた者がそれなりにいたのだ。
ちなみに直子はその極一部のクラスメイトの一人である。
彼女は智樹の顔を見るなり、視線を落としながら深く頭を下げる。
「ごめんなさい、私のせいで……」
智樹は困ったように笑ってかぶりを振る。
「井出さんが謝ることじゃない。俺が勝手にやっただけだし」
直子は震えた声で言葉を探し始める。
「あの時、智樹くん、私のことを……ディアナって呼びましたよね」
智樹はその問いに首をかしげる。
「ディアナ……? なんだ、それ」
彼の瞳には疑問の色があり、どうやら本当に覚えていないらしい。
直子は少し肩を落とす。
「そう……何も覚えてないんですね……」
「え、何か……変なこと言ったかな」
「ううん、大丈夫」
直子は苦笑いを浮かべる。
そしてベッド脇の椅子に腰かけ、じっと智樹の顔を見つめた。
「どうかした?」
「……助けてくれてありがとう。でも、樫原君……命、危なかったんですよ。怖くなかったんですか?」
「別に、その……とっさに体が動いたっていうか」
「そんなの……ん、そ、そうですか……」
しばらくお互いに沈黙が続く。
病室には消毒液の匂いと機械のかすかな電子音が漂い、外の喧騒を遮断する冷たいガラス窓が夕焼けを映していた。
「ねえ、樫原君。普通に話していいですか? 敬語とかじゃなくって」
直子がそう訊ねると、智樹はすぐに頷いた。
「うん……そっちのほうが、俺はうれしいし」
そう言うと、直子は安心したように微笑む。
「じゃあ、また明日も来るね。しっかり休んで早く元気になってね」
直子が立ち上がり、帰り支度を始める。
そうしてドアの前で一度振り返り、そっと笑みを残して去っていった。
残された智樹は、胸の鼓動が高まるのをどうすることもできない。
この不思議な感情が何なのか、まだ自分では理解していなかった。
(了)