第51話:狂人の試練場②
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なぁに、死んだら起こしてやる──君のその言葉は、この場の空気を凍りつかせるには十分だった。
ライカードにおいて、死は終わりではない。それは一つの状態異常であり、蘇生魔術によって回復可能な、少し重い風邪のようなものだ。失敗すれば灰と化し、二度失敗すれば存在そのものが消失するリスクはあるが、それを恐れていては強くなれない。死は学習であり、投資である。
だが、この世界の住人にとっては違った。
「……お兄さん、それ、本気で言ってる?」
キャリエルが引きつった笑みを浮かべる。その目には明らかな恐怖が宿っている。
モーブは君から視線を逸らし、何かを堪えるように唇を噛んでいる。彼の騎士道精神が、君の提案を拒絶しているのだ。
唯一、ルクレツィアだけが恍惚とした表情で君を見つめていた。
「素晴らしい心構えですわ、主様。死を恐れず、更なる高みを目指す……わたくしも、その覚悟にお供いたします」
彼女もまた、一度君によって殺され、蘇生された経験を持つ。その経験が、彼女の死生観を僅かながらにライカード色に染め上げているのかもしれない。
まあ、良いだろうと君は判断した。恐怖があろうと、忌避感があろうと、彼らは最終的に君に従う。それで十分だ。
君たちは肉の回廊を更に奥へと進んだ。
壁の脈動は次第に大きくなり、腐臭と血の臭いが混じり合った空気は、耐え難いほどに濃密になっていく。
やがて、君たちは開けた空間に出た。
そこは、まるで巨大な生物の心臓内部か、あるいは屠殺場のようだった。
天井からは無数の血管のような管が垂れ下がり、床は血液を思わせる粘液と、砕けた骨片で満たされている。
そして、その中央に「それ」はいた。
身の丈は三メートルを優に超え、山羊のような頭部と、蝙蝠の翼を持つ筋骨隆々の巨体。その肌は深い藍色で、手には燃え盛る長剣と、禍々しい意匠の鞭を携えている。
──グレーターデーモン。
魔界の貴族階級に属し、その力は下級の悪魔とは比較にならない上位の存在。そして、その周囲には数体のレッサーデーモンが控えていた。
「あれが……」
モーブが息を呑む。その威圧感は、確かに凄まじい。
だが君にとっては、それは単なる「素材」だ。効率よく解体し、糧とすべき資源である。
君は冷静に状況を分析した。敵の数はグレーターデーモン一体、レッサーデーモンが四体。
まずは手順通りだ。お供から始末する。
君は指を鳴らした。
──『大凍』
瞬間、空間の温度が絶対零度に向けて急激に低下する。渦巻く冷気の奔流がレッサーデーモンたちを飲み込み、一瞬にして氷像へと変えた。君は氷像と化した彼らに歩み寄り、拳で砕く。パリン、という軽い音と共に、悪魔たちは粉々になった。掃除完了。
残るはグレーターデーモン一体。これで条件は整った。
グレーターデーモンは仲間が瞬殺されたことに驚愕し、そして激怒した。その口から放たれるのは、呪詛と害意に満ちた咆哮。
だが、君は動かない。君は悪魔の力量を測るため、あえてその突進を受け止めることにした。
燃え盛る剣が振り下ろされる。その速度と質量は、城門すら砕くだろう。
インパクトの瞬間、君は呟いた。
──『鉄身』
君の全身が鋼鉄と化す。甲高い金属音が響き渡り、グレーターデーモンの剣が君の腕に食い込む──ことはなく、逆にその剣の方が罅割れた。
馬鹿な、と悪魔が目を見開く。その隙を君は見逃さない。
君は懐に飛び込み、鋼鉄と化した拳を悪魔の鳩尾に叩き込む。数百キロの鉄球が衝突したに等しい一撃。悪魔の強靭な腹筋は容易く引き裂かれ、内臓が破裂する音が響いた。
ぐふっ、と悪魔が血反吐を吐き出す。
君は更に追撃を加えた。それは戦闘というよりも、解体作業に近かった。
右の翼を掴み、力任せに根元から引き千切る。悪魔が絶叫する。
左の脚の膝関節を正確に蹴り砕き、骨を露出させる。悪魔が再び絶叫する。
両腕の腱を断ち切り、武器を取り落とさせる。
効率的で、無駄のない動き。
やがて、グレーターデーモンは地面に倒れ伏した。四肢は満足に動かず、翼も失っている。瀕死の状態だが、まだ死んではいない。
完璧な「半殺し」だ。
君は満足げに頷き、仲間たちを振り返った。
首を掻き切る様なジェスチャー。
殺れ、という事だ。
君の要求に、三人は蒼白な顔で頷くしかなかった。
◆
君は倒れ伏すグレーターデーモンを顎で示した。
キャリエルが短剣を握りしめ、震える足で悪魔に近づく。
「こ、殺すの……? こんな、動けない相手を……?」
彼女の声には明らかな嫌悪感が滲んでいる。
キャリエルは涙目になりながらも、意を決して短剣を振り上げた。狙いは心臓。だが、その切っ先は悪魔の硬い皮膚に弾かれる。
君はキャリエルの肩を軽く叩いた。
ガッツを見せろという鼓舞。
キャリエルは歯を食いしばり、今度は両手で短剣を握り、全体重を乗せて突き刺した。ぐちゃり、と肉を貫く感触。悪魔が断末魔の叫びをあげる。
だが、その叫びは途中で途切れた。悪魔は絶命する直前、最後の力を振り絞り、異界の言葉を紡いだのだ。
空間が歪み、新たなグレーターデーモンが二体、姿を現した。
君は笑みを浮かべた。ここからが“養殖”の始まりだ。
君は瞬時に動き出し、新たな二体のグレーターデーモンを無力化する。
ものの数秒で、二体の「素材」が出来上がった。
三人は絶望的な表情で眼前の光景を見つめていた。
◆
それから地獄のような反復作業が始まった。
君が素材を用意し、三人が解体する。その繰り返し。
最初は一体倒すのにも苦労していたが、回数を重ねるごとにその手際は恐ろしく良くなっていった。
十体目。
キャリエルはもはや躊躇なく、悪魔の眼窩に短剣を突き立てていた。その目からは徐々に光が消え失せ、虚無が宿り始める。
「……ねえ、これ、いつまで続くの?」
虚ろな声で呟くキャリエルだが、君は答えない──精神も鍛える必要があるからだ。
これからの戦いは更にデンジャラスでハードなものになってくる。
終わりが見えない訓練は精神を大きく疲弊させるが、それを乗り越えればよりタフになれるだろう。
二十体目。
モーブは無言で剣を振るい続けていた。彼の騎士道はとうの昔に崩壊し、今やただの殺戮機械と化している。その剣筋は洗練され、一切の無駄がない。
「……済まない」
時折、彼はそんな言葉を呟きながら、悪魔の首を刎ねる。その姿はどこか滑稽でさえあった。哀れみながら殺す。矛盾した行動だが、それが彼の精神の均衡を保つための最後の砦だったのかもしれない。
三十体目。
ルクレツィアの様子は違った。彼女は恍惚とした表情で悪魔を屠り続けている。
「主様! また一体、邪悪を滅ぼしましたわ! これも全て主様の御導きのおかげです!」
彼女にとって、この行為は君への信仰の証であり、神聖な儀式なのだ。その瞳には狂信の光が爛々と輝いている。彼女が一番、この状況に適応していた。
五十体目。
広間は悪魔の死骸と体液で満たされ、凄惨な光景が広がっていた。
キャリエルたちの動きは、もはや職人の域に達している。
「……なんだか、可哀そうになってきた」
キャリエルがぽつりと呟いた。その目は完全に死んでいる。
呼ばれて来てみれば即座に無力化され、後はただ機械的に解体されるのを待つだけ。彼らはもはや、グレーターデーモンを恐るべき悪魔としてではなく、ベルトコンベアで流れてくる哀れな部品のように見ていた。
君はそんな三人の様子を観察しながら、内心で評価を下していた。
悪くはない。彼らは確実に成長している。死の匂いに慣れ、殺戮への抵抗感が薄れ、冒険者らしくなってきたではないか!
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ライカードでは、これはごく一般的な修行風景である。
冒険者もある程度戦えるようになったら、それから先はこの「養殖」で基礎的な階梯を上げるのが常識だ。いかに効率よく、いかに多くの経験を積むか。それが重要視される。
時には、複数のパーティが協力して大規模な養殖場を作り、血と臓物に塗れたカーニバルを繰り広げることもある。死ねば蘇生させ、また狩場へと送り込む。そうやって、ライカードの冒険者たちは強くなっていくのだ。倫理や道徳を超越した、純粋な力の追求。
君もまたそうやって育ってきた。だから、この光景に何の違和感も覚えない。むしろ、これほど安全な環境で力を得られることに感謝すべきだとさえ思っている。
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百体目のグレーターデーモンが絶命した時、君は特訓の終了を告げた。
三人は血塗れの姿で、その場に立ち尽くしていた。その表情には、疲労と虚無感が色濃く浮かんでいる。
君は満足げに頷き、その透徹した視線──“心眼”で彼らの内なる力を見定めた。
素晴らしい──そう君は満足げに頷く。君の予想を超える成長だったのだ。
彼らの“階梯”は、この短時間で飛躍的に上昇していた。
キャリエルの俊敏さは更に磨かれ、その動きにはもはや迷いがない。危機察知能力も、この極限状況の中で研ぎ澄まされたようだ。
モーブの剣には重みが加わり、その一撃は岩をも砕く威力を秘めている。風の制御もより精密になり、その機動力は倍加していた。
そしてルクレツィア。彼女の神聖力は増大し、その輝きはより強固なものとなっている。
上々だ、と君は判断した。これで、この先の戦いにもある程度は対応できるだろう。
そう、ある程度なのだ。
まだまだ足りない──そう君は考えている。
幸いなのは、君のその考えをキャリエルらが知らない事であった。