第49話:クリティカル
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何か温かい感触が君の体に触れている。
目を覚ますと、そこにはルクレツィアがいた。
君にぴったりと密着し、その白磁のような頬を君の胸板に押し付けている。
銀の髪が月光のように淡く輝き、君の顎先をくすぐった。
薄闇の中で、君とルクレツィアの目が合った。
聖女の瞳には戸惑いと何か別の感情が混じり合って揺れている。
それは恐怖か、それとも別の何かか。
瞳の奥で揺らめく感情の正体を君は既に察していたが。
君は交代の時間かどうかを尋ねた。
見張りの順番が回ってきたのかと思ったのだ。
声は低く、静かに。
この暗闇の中で、余計な音を立てるべきではない。
「い、いえ、違います……」
ルクレツィアはやや慌てた様子で首を横に振る。
その動きで銀の髪がさらさらと流れ、甘い香りが漂った。
神聖魔術を扱う者特有の、清浄な気配。
だがその奥に女としての生々しい体温が潜んでいる。
「今はモーブが見張りをしております。わたくしは、その……」
言葉を濁す彼女に、君は寒いのかと尋ねた。
確かにこの迷宮には底冷えするような寒気が漂っている。
第七層ともなれば、生者を拒む死の気配が空気そのものに染み込んでいるのだ。
黒死聖堂と名付けられたこの場所は、光を呑み込む闇と、それでいて奇妙に物の輪郭だけは浮かび上がる矛盾した空間。
天幕の薄い布一枚では、この死の寒気を防ぐには心もとない。
ルクレツィアは小さく頷いた。
だがその頷きが本心からのものでないことを、君は見抜いていた。
彼女の体は確かに冷えているが、それは寒さゆえではない。
恐怖が彼女の体温を奪っているのだ。
君はルクレツィアの細い腰を掴み、自身の方へと引き寄せた。
そして再び目を瞑る。
眠りに戻ろうとする君にしかし、ルクレツィアの体は別の意思を示していた。
彼女の脚が君の腰に絡みつき、柔らかな体がより強く押し付けられてくる。
豊かな胸が君の胸板に押し潰され、形を変える。
吐息が首筋をくすぐった。
熱い、湿った吐息。
それは単なる呼吸ではなく、何かを求める女の息遣いだった。
君はそれを無視した。
ただ、咎めることもしなかった。
君にはルクレツィアの意図が分かっている。
こういう命が簡単に吹き消されてしまうような状況では、"盛る"こともままあるのだ。
死の恐怖が、生への渇望を呼び起こす。
それが時として、肉欲という最も原始的な形で現れる。
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そういえば、と君はかつての冒険を思い出した。
まだ君が今より未熟だった頃の事だ。
ライカードの迷宮、その名も「絶望の螺旋」と呼ばれる凶悪なダンジョンでの出来事。
当時のパーティで、迷宮に踏み入って──戻れなくなった。
最初は順調だった。
階層を降りるごとに財宝を見つけ、経験を積み、皆が意気揚々としていた。
だが第七層を過ぎたあたりから、状況は一変した。
帰還の呪文が効かない。
転移の巻物も無効。
まるで迷宮そのものが、君たちを呑み込もうとしているかのようだった。
食料は尽き、水も底を突いた。
傷は癒えず、疲労は蓄積していく。
そして最悪なことに、パーティの斥候が毒矢の罠に引っかかった。
解毒薬はとうに使い果たしていた。
毒は緩やかに、しかし確実に全員の体を蝕んでいく。
もはや魔力も切れ、体力も限界。
毒が総身を蝕み、皆が死を覚悟していた時、パーティの神官がいきなり脱ぎだしたのだ。
彼女は美しい女だった。
普段は物静かで、信仰に篤い女神官。
白い法衣に身を包み、いつも穏やかな微笑みを浮かべていた。
「最期になるならば」
そう呟きながら、彼女は震える手で法衣の紐を解いた。
「せめて、女として死にたい」
その言葉が引き金となった。
死を前にした人間の本能が、堰を切ったように溢れ出した。
パーティの戦士が彼女を抱きしめた。
魔術師が唇を重ねた。
そして君も──
結果、君も含めてその場の生き残りたちで散々と乱れた。
死の淵で交わされる情交は、狂気じみていた。
誰が誰と繋がっているのかも分からない。
ただ肉と肉がぶつかり合い、体液が飛び散り、獣のような声が響く。
生への執着が、最も原始的な形で爆発したのだ。
そのあと全員、毒が回って死んだ。
最期の瞬間、女神官は満足そうに微笑んでいた。
少なくとも、ただ怯えて死ぬよりはマシだったのかもしれない。
運よく、ギルドの死体回収係に回収してもらったが。
死体回収係は慣れた様子で君たちの遺体を担架に乗せていった。
「また馬鹿な真似をしたもんだ」
そんな呟きが聞こえたような気がしたが、死んでいる君には関係なかった。
あの時は若かった、と君は内心で苦笑する。
今ならもう少し、冷静に対処できただろう。
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ルクレツィアの手が、君の胸板を這い始めた。
細い指先が探るように動く。
その動きは不慣れでどこか必死さを感じさせた。
処女である彼女にとって、こんな真似をすること自体が大きな決断だったのだろう。
「主様……」
掠れた声で彼女が呼ぶ。
その声は震えていた。
恐怖と、羞恥と、そして渇望が入り混じった複雑な響き。
君は薄く目を開け、ルクレツィアを見下ろした。
彼女の顔は上気し、額にはうっすらと汗が浮いている。
月光にも似た銀の髪が乱れ、いつもの清楚な雰囲気は影も形もない。
「わたくしは……わたくしは……」
言葉を探すように、彼女は唇を震わせた。
だが結局、何も言えずに君の胸に顔を埋める。
その肩が小刻みに震えていた。
君には分かっていた。
彼女が何を恐れ、何を求めているのか。
転送罠。
それは単なる移動装置ではない。
失敗すれば、存在そのものが消滅する恐怖の罠。
壁の中に埋め込まれ、生きているとも死んでいるとも言えない状態になる。
蘇生すら不可能な、完全な消滅。
その恐怖が彼女を狂わせているのだ。
ルクレツィアの脚が、より強く君に絡みついた。
まるで溺れる者が藁をも掴むように。
彼女の体温が君に伝わってくる。
聖女とは思えないほど熱く、生々しい体温。
とはいえ、ここでルクレツィアとおっぱじめるわけにもいかない。
それは単に倫理的な問題ではなかった。
聖女の力を失ってもらっては困るからだ。
処女性は神聖魔術の重要な要素の一つ。
肉体的な純潔は、神との繋がりを保つための鍵でもある。
それを失えば、彼女の治癒能力は確実に低下する。
どの程度低下するかは個人差があるが、少なくとも今の半分以下にはなるだろう。
このパーティにおいて、ルクレツィアの治癒魔術は生命線だ。
君の"完治"は強力だが、使用回数に限りがある。
彼女の治癒があってこそ、このパーティは機能している。
それを一時の感情で失うわけにはいかない。
君は慈悲の心を込めて、ルクレツィアの首筋に手刀を構えた。
正確に急所を狙う。
手刀が振り下ろされた。
もちろん首を飛ばさないよう、慎重に。
「うっ……」
短い呻きの後、ルクレツィアは君の胸の上で気を失った。
緊張が解け、絡みついていた脚もだらりと力を失う。
君は彼女の体をそっと横にずらし、携帯用の毛布を掛けてやった。
銀の髪を整え、乱れた衣服も直す。
彼女が目覚めた時に恥ずかしい思いをしないように。
天幕の外ではモーブが黙々と見張りを続けているはずだ。
彼もまた、明日の転送罠に不安を感じているかもしれない。
だが彼は決して、それを表には出さないだろう。
それが彼の生き方だから。
君は再び横になり目を閉じた。
今は束の間の休息を取るべき時だと君は思う。
ルクレツィアの寝息が静かに響く。
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