第48話:FUCK
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戦いが終わった。
だが、君の眉間に刻まれた皺は深まるばかりだった。
第八層への階段が、どこにもない。
石棺があった場所の周囲を隈なく調べる。
壁を叩き、床を踏み鳴らし、天井に視線を巡らせても、下層へ続く道は見当たらなかった。
「おかしいな……」
キャリエルが首を傾げる。
「ここが最深部なのかな?」
赤い髪を掻き上げながら、彼女は君の方を振り返った。
君は首を横に振る。
静かに、しかし断固として。
君の内なる善の炎が轟々と燃え盛り、まだ討つべき者がいると囁いていた。
それは善でもなければ悪でもない。
邪だ。
純粋な邪悪が、どこかで君たちを待ち構えている。
「わたくしも、まだ終わりではないと感じます」
ルクレツィアが静かに告げた。
聖女としての感性が、何かを察知しているのだろう。
彼女の瞳には不安と決意が同居していた。
モーブは無言のまま、剣の柄に手を添えている。
彼もまた、戦いが終わっていないことを本能的に理解していた。
ふと、キャリエルの視線が宙に浮かぶ黒い石棺へと向けられる。
「あの棺桶……」
彼女は呟き、そして君の方を見た。
「調べてみてもいい?」
君は頷く。
斥候の素養もあるキャリエルなら、何か見つけるかもしれない。
彼女は軽やかな足取りで石棺へと近づいていく。
慎重に、しかし大胆に。
手を伸ばし、棺の表面を撫でるように調べ始めた。
「……あった」
キャリエルの声が響く。
「お兄さん、こっちに来て」
君が近づくと、彼女は石棺の奥を指差した。
そこには奇妙な文様が刻まれている。
複雑に入り組んだ幾何学模様。
見る者の平衡感覚を狂わせるような、歪んだ図形の連なり。
君の顔色が変わった。
これは──
転送罠だ。
しかも、ライカードのダンジョンで見かけた恐るべき"アレ"に酷似している。
君は仲間たちに説明を始めた。
転送罠とは、踏み込んだ者を別の場所へ強制的に移動させる魔法装置だ。
大抵の場合、決められた場所への移動手段として使われる。
だが、ライカードのそれは違った。
ランダムに、どこへでも飛ばされる。
最悪の場合──
壁の中へ。
「壁の、中?」
ルクレツィアが青ざめる。
君は頷いた。
ただ埋め込まれるだけではない。
存在そのものが「壁」へと書き換えられるのだ。
死ぬのでも麻痺するのでもない。
「壁」になる。
生きてもいないし、死んでもいない。
蘇生すら不可能。
それは存在の消滅に等しい。
三人はごくりと息を呑んだ。
「で、でも……」
キャリエルが震え声で言う。
「これは決められた場所へ行くやつかもしれないよね?」
君は頷く。
状況的に考えて、これは第八層への移動手段である可能性が高い。
他に道がない以上、使うしかないだろう。
だが、その前に──
君は休まないかと提案した。
シェディムとの戦いで、全員が消耗している。
特にルクレツィアは魔装付与で限界まで魔力を使い果たしていた。
キャリエルも傷だらけだ。
「そうですわね……」
ルクレツィアが安堵の息をつく。
「少し、休ませていただきたく……」
彼女の足元がふらつく。
モーブがさりげなく支えた。
君は周囲を見回す。
黒死聖堂と呼ばれるこの空間は、不気味ではあるが今のところ新たな敵の気配はない。
石棺の近くでキャンプを張ることにした。
携帯用の天幕を取り出し、手際よく設営していく。
ライカードの冒険者にとって、ダンジョン内での野営は日常茶飯事だ。
死と隣り合わせの環境で眠ることに、君は慣れきっている。
「火は起こさない方がいいかな」
キャリエルが呟く。
君は頷いた。
携帯食料を取り出し、静かに分け合う。
乾燥肉と堅焼きパン。
味気ないがないよりはマシだ。
「それにしても……」
ルクレツィアが呟く。
「転送罠、ですか」
彼女の表情には不安が滲んでいる。
無理もない。
存在が消滅する可能性があるなど、誰だって恐ろしい。
だが君は落ち着いていた。
これまで何度も死線を潜り抜けてきた。
転送罠にも何度か引っかかったことがある。
幸い、壁に埋め込まれたことはないが。
「大丈夫だよ」
キャリエルが無理に明るく振る舞う。
「お兄さんがいるんだから」
その言葉に、ルクレツィアも小さく微笑んだ。
モーブは相変わらず無言だが、その表情はいつもより柔らかい。
仲間の存在が、恐怖を和らげていた。
君は天幕の入り口に座り、見張りを買って出た。
三人には休むように促す。
特にルクレツィアは眠る必要があった。
魔力の回復には睡眠が一番だ。
「でも、主様も休まれた方が……」
ルクレツィアが心配そうに言いかけるが、君は首を振った。
最初の見張りは自分が務める。
後で交代すればいい。
三人は君の言葉に従い、天幕の中で横になった。
疲労のせいか、すぐに寝息が聞こえてくる。
君は剣を膝に置き、闇を見据えた。
黒死聖堂の不気味な静寂が、君を包み込む。
だが君は微動だにしない。
ただじっと、仲間の眠りを守り続けた。
やがて、キャリエルがもぞもぞと起き出してくる。
「交代するよ」
小声で告げる彼女に、君は頷いた。
まだ完全に回復していないだろうが、彼女の申し出を断る理由はない。
仲間を信頼することもまた、冒険者の務めだ。
君は天幕に入り、ルクレツィアの隣に横たわる。
聖女の寝顔は安らかだった。
戦いの疲れが、彼女を深い眠りへと誘っている。
君も目を閉じた。
明日は、転送罠に飛び込むことになるだろう。
第八層で何が待ち受けているか分からない。
だが、恐れはなかった。
仲間がいる。
絆がある。
そして燃え盛る善の心もある。
それだけで十分だ。
君の意識は、ゆっくりと闇へと沈んでいった。
夢も見ない、深い眠りへと。