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蝉時雨が止むとき

掲載日:2026/07/12

 夏休みに入って三日目。

 都会の暑さから逃げるように、僕は祖母の家へやって来た。

 駅を降りた瞬間、むっとした熱気が頬を包む。

 照り返すアスファルト。青すぎる空。入道雲がゆっくりと形を変え、遠くの山々を見下ろしている。

 そして、それらすべてを包み込むように響いていた。

 ――ミーン、ミーン、ミーン。

 耳を塞いでも聞こえてくる蝉の大合唱。

 アブラゼミ、ミンミンゼミ、時折ツクツクボウシまで混じって、まるで町全体が鳴いているようだった。


「今年もよう鳴いとるねえ」


 祖母は麦わら帽子を押さえながら笑う。


「毎年こんなに?」

「こんなもんじゃよ。暑ければ暑いほど元気になる」


 祖母の家までは駅から歩いて十分ほど。

 道の両側には古い木造の家が並び、その向こうには田んぼが広がっている。

 風が吹けば稲が波のように揺れ、その上から蝉時雨が降り注いでくる。

 耳が痛くなるほどの大音量なのに、不思議とうるさいとは思わない。

 むしろ、夏そのものの音だった。

 祖母の家へ着くと、縁側には風鈴が吊るされていた。

 ちりん。

 涼しげな音が一度だけ鳴る。


「ばあちゃん、この風鈴、昔からあったっけ?」

「お前が小さい頃、一緒に選んだじゃないか」


 そう言われても思い出せない。

 けれど、ガラス越しに揺れる青い模様を見ていると、どこか懐かしい気がした。

 昼はそうめんを食べ、夕方には畑へトマトを取りに行き、夜は縁側でスイカを食べる。

 何も変わらない夏。

 テレビでは各地で猛暑日を記録したと騒いでいる。

 それでも祖母は笑っていた。


「夏は暑いから夏なんだよ」


 夜になると、昼間あれほど鳴いていた蝉は姿を消し、代わりに草むらから虫の声が聞こえ始めた。

 耳を澄ませば、風が竹林を揺らす音まで聞こえる。

 田舎の夜は静かだ。

 そう思っていた。


 翌日。

 宿題を終えた僕は、暇つぶしに町を歩いてみることにした。

「暗くなる前には帰っておいでよ」

 祖母の声を背に受けながら、麦わら帽子をかぶって外へ出る。

 今日も朝から蝉は絶好調だった。

 ミーン。

 ジジジジジ。

 シャワーのように降り注ぐ蝉時雨。

 細い道を歩き、神社の前を通り、小さな橋を渡る。

 知らない町を歩くのは少しだけ冒険みたいで楽しかった。

 ふと、一本の細い道が目に入った。

 古い石垣に囲まれた、木陰の多い道だ。


「近道かな」


 そう呟いて角を曲がる。

 その瞬間だった。

 蝉が、鳴き止んだ。

 風は吹いている。

 木々の葉も揺れている。

 なのに、さっきまで町中に響いていた蝉の声だけが、嘘みたいに消えていた。

 あまりの静けさに、自分の息遣いだけがやけに大きく聞こえる。


「……え?」


 思わず足を止める。

 その静寂は、まるで誰かが世界の音量を切ったようだった。

 僕は一歩だけ後ろへ下がる。

 ――ミーン!

 突然、耳元で蝉時雨が弾けた。


「うわっ!」


 驚いて肩を震わせる。

 もう一度前へ出る。

 静寂。

 後ろへ戻る。

 蝉時雨。

 前へ。

 静寂。

 まるで見えない境界線でもあるかのように、その場所だけ蝉は一匹も鳴いていなかった。



 気のせいだったのかもしれない。

 家へ帰る道すがら、僕は何度もそう自分に言い聞かせていた。

 蝉だって生き物だ。

 たまたま鳴き止むことくらいある。

 そう考えれば済む話だ。

 それなのに、あの静けさだけは頭から離れなかった。

 夜になって布団へ入っても、思い出すのはあの場所だった。

 耳が痛くなるほど鳴いていた蝉が、一本角を曲がっただけでぴたりと止む。

 まるで、そこだけ夏から切り離されているようだった。


 翌日。

 宿題を終えると、僕はまた同じ道へ向かっていた。

 「気になるなら確かめればいい。」

 そんな言い訳をしながら。

 神社を過ぎ、小さな橋を渡る。

 蝉時雨は昨日と変わらない。

 ミーン。

 ジジジジジ。

 空気が震えるほどの大合唱。

 僕はゆっくりと角を曲がった。


 ――すっ。

 まただ。

 誰かが音だけを吸い取ったように、蝉の声が消える。

 風だけが木々を揺らしている。

 葉はざわり、と音を立てる。

 それなのに蝉だけが鳴かない。

 昨日とまったく同じだった。

 僕は周囲を見回した。

 木は何本も立っている。

 幹には蝉の抜け殻も貼り付いている。

 なのに姿は見えない。

 いや、見えないだけで、本当はいるのだろうか。

 試しに手を叩いてみる。

 パンッ。

 乾いた音が静かな道へ響く。

 何も起きない。

 蝉は鳴かない。

 僕は境界線まで戻る。


 その途端。

 ミーーーーーン!

 待っていたかのように、一斉に鳴き始めた。


「……なんなんだよ。」


 胸の奥がざわつく。

 怖い。

 だけど、それ以上に知りたかった。

 その日は境界線を何度も行ったり来たりした。

 一歩前へ。

 静寂。

 一歩後ろへ。

 蝉時雨。

 まるで見えない壁でもあるように、その境目は寸分違わず同じ場所にあった。

 帰ろう。

 そう思って踵を返した、その時だった。


 コッ。

 自分の靴がアスファルトを叩く音。

 静かな道では、その音だけがやけに大きく響く。

 コッ。

 もう一歩。

 コッ。

 さらに一歩。

 すると。

 ……コッ。

 少し遅れて、もう一つ。

 後ろで足音がした。


 僕は立ち止まる。

 音も止まる。

 振り返る。

 誰もいない。

 道の先まで見渡せる。

 木陰にも、人影はない。

 聞き間違いだ。

 そう思って歩き出す。

 コッ。

 コッ。

 ……コッ。


 まただ。

 僕の足音の、ほんの半拍あと。

 誰かが同じ道を歩いている。

 速く歩けば、速く。

 ゆっくり歩けば、ゆっくり。

 まるで後ろをついてくるように。

 喉がからからに渇いた。


 振り返る。

 誰もいない。

 走る。

 コッ、コッ、コッ、コッ――

 自分の足音だけが響く。

 いや。

 違う。

 もう一つある。

 聞こえている。

 確かに聞こえている。


 境界線を飛び越えた瞬間だった。

 ミーーーーーーーーーン!!

 蝉時雨が耳を打つ。

 あまりの大音量に思わず顔をしかめる。

 振り返る。

 静かな道には、誰も立っていなかった。

 けれど。

 蝉は一匹も鳴いていなかった。

 まるで、その道の奥だけ、夏が息を潜めているように。



 夕方になっても、胸のざわつきは消えなかった。

 あの道では、自分の足音のほかに、もう一つ聞こえていた。

 姿は見えない。

 振り返っても誰もいない。

 それなのに、耳だけは「誰かがいる」と告げていた。

 家に帰ると、祖母は台所で夕飯の支度をしていた。


「おかえり。ずいぶん歩いたね」

「うん。」


 冷たい麦茶を一気に飲み干す。

 喉は潤ったはずなのに、胸の渇きは消えなかった。

 夕食のあと、縁側で祖母とスイカを食べる。

 日が傾き、昼間の暑さが少しだけ和らいでいた。

 風鈴が、ちりん、と鳴る。

 その音に誘われるように、僕は口を開いた。


「ねえ、ばあちゃん。」

「なんだい。」

「神社の向こうにある石垣の道、知ってる?」


 祖母はスイカを食べる手を止めた。


「……知ってるよ。」

「今日歩いたんだけど。」


 祖母は何も言わない。

 風鈴だけが、また小さく鳴った。


「変なんだ。」

「何が。」

「あそこだけ、蝉が一匹も鳴かない。」


 祖母は静かに目を伏せた。


「そうかい。」


 驚く様子はなかった。

 まるで、その話を知っていたかのように。


「昔からだよ。」

「昔から?」

「あの道では蝉が鳴かない。」

「なんで?」

「さあねえ。」


 祖母は小さく笑う。


「理由なんて誰も知らないさ。」


 少し間を置いて、ぽつりと言った。


「でもね。」

「うん。」

「蝉は、人より賢い。」

「え?」

「人には分からないものが、蝉には分かることがある。」


 祖母はそれ以上、何も話さなかった。

 僕は聞き返そうとした。

 けれど、祖母は話を終わらせるように立ち上がり、台所へ戻っていった。

 その夜。

 布団に入っても眠れなかった。

 天井を見つめながら考える。

 もし祖母の言うとおりなら。

 蝉は何を感じ取っているのだろう。

 危険?

 動物?

 地震?

 それとも――。

 自分で考えて、自分で笑った。


「幽霊……なんて。」


 そんなもの、いるはずがない。

 なのに。

 耳元で響くのは、昼間聞いたもう一つの足音だった。

 コッ。

 ……コッ。

 思い出しただけだ。

 そう自分に言い聞かせる。


 けれど翌朝、目が覚めた瞬間、最初に考えたのは宿題でも朝食でもなかった。

 ――もう一度、あの道へ行こう。

 確かめたい。

 あの静けさの理由を。

 蝉は、いったい何を恐れているのかを。



 翌日も、朝から蝉は元気に鳴いていた。

 ミーン。

 ジジジジジ。

 耳が痛くなるほどの蝉時雨。

 その音を聞いていると、昨日まで感じていた恐怖が少しだけ薄らいでいく。

 やっぱり考えすぎだったのかもしれない。

 そう思いたかった。


 けれど、気づけば僕はまた神社へ向かっていた。

 橋を渡る。

 石垣が見える。

 足が止まる。

 帰ろう。

 今ならまだ帰れる。

 そう思っているのに、一歩だけ前へ出た。


 ――静寂。

 蝉が鳴き止む。

 世界から夏が消えた。

 僕は息を飲み、ゆっくりと歩き始める。

 コッ。

 一歩。

 コッ。

 二歩。

 ……コッ。

 また聞こえた。


 僕の半拍あとを歩く、もう一つの足音。

 今日は驚かなかった。

 聞こえることは分かっていた。

 問題は、その正体だった。

 僕は立ち止まる。

 足音も止まる。

 振り返らない。

 祖母は何も言わなかった。

 けれど、振り返ってはいけない。

 そんな気がしていた。


 深呼吸をひとつ。

「……誰?」

 声は木々に吸い込まれていく。

 返事はない。

 風も吹かない。

 葉一枚揺れない。

 静寂。

 その中で。

 コッ。

 足音が一つだけ鳴った。

 僕は動いていない。

 なのに。

 後ろの誰かだけが、一歩近づいた。

 全身の毛穴が開く。

 心臓が嫌な音を立てる。


「……やめろ。」


 震える声で言う。

 返事はない。

 コッ。

 また一歩。

 今度は、もっと近い。

 背中に視線を感じる。

 見られている。

 そんな気がした。

 汗が首筋を伝う。

 逃げたい。

 でも、足が動かない。

 静寂が重くのしかかる。

 そして。

 コッ。

 三歩目。


 今度は、すぐ後ろだった。

 耳元で誰かが息をしていてもおかしくない距離。

 僕は耐えきれず、駆け出した。

 コッ!

 コッ!

 コッ!

 夢中で走る。

 後ろも追ってくる。

 速い。

 僕が速くなれば、後ろも速くなる。

 振り返るな。

 振り返るな。

 頭の中でそれだけを繰り返す。

 境界線まであと少し。

 あと一歩。

 その瞬間だった。


 ミーーーーーーーーーン!!

 耳を突き刺すような蝉時雨が、一斉に降り注いだ。

 夏が戻る。

 世界に音が満ちる。

 僕は境界線を飛び越え、その場に崩れ落ちた。

 肩で息をしながら、恐る恐る振り返る。

 石垣の向こうには、誰もいなかった。

 静かな道だけが、昼間とは思えないほど深い沈黙に包まれている。

 その奥では、蝉は一匹も鳴いていない。

 まるで。

 何かが、まだそこに立っているかのように。



 家へ帰ると、祖母は何も聞かなかった。

 僕も何も話さなかった。

 あの道で聞いた足音も。

 境界線を越えた瞬間に消えたことも。

 話してしまえば、本当にあったことになってしまう気がした。


 夕飯はカレーだった。

 テレビでは天気予報が流れている。

 「明日も猛暑日でしょう。」

 いつものニュース。

 いつもの食卓。

 祖母は「たくさん食べなさい」と笑い、僕は「うん」と答える。

 昼間の出来事が、少しずつ夢のように思えてきた。

 風呂へ入り、汗を流す。

 冷たい麦茶を飲む。

 縁側では風鈴が、ちりん、と鳴った。

 外では、まだ蝉が鳴いている。

 夏は何も変わっていない。

 そう思えた。


 夜九時を過ぎる頃には、蝉の声は虫の声へと変わっていた。

 窓の外から聞こえるのは、鈴虫の小さな音だけ。

 僕はようやく安心して布団へ潜り込んだ。

 気づけば眠っていた。


 ◇


 目が覚めた。

 喉が渇いていた。

 時計を見る。

 午前二時十二分。

 部屋は静まり返っていた。

 暗闇の中、ぼんやり天井を見つめる。

 虫の声も聞こえない。

 風もない。

 完全な静寂だった。


 その時。

 ミーン。

 僕は目を見開いた。

 一匹。

 蝉の声。

 夢だと思った。

 耳を澄ます。

 ミーン。

 また鳴いた。

 昼間と同じ声だった。

 真夜中に鳴くはずがない。

 体を起こす。

 声は近い。

 とても近い。

 窓の外だ。

 やがて一匹だった声に、もう一匹加わる。

 ミーン。

 ジジジジジ。

 さらに一匹。

 また一匹。

 気づけば昼間のような蝉時雨になっていた。


 僕は障子を見つめる。

 開ければ確かめられる。

 何がいるのか。

 いや。

 何もいないのかもしれない。

 右手を伸ばす。

 障子まで、あと少し。


 その時。

 祖母の言葉が頭をよぎった。

 『蝉は、人より賢い。』

 伸ばした手が止まる。

 僕はゆっくりと引き戻した。

 障子は閉じたまま。

 蝉は鳴き続ける。

 朝まで、一度も止まなかった。

 翌朝。

 僕は祖母に尋ねた。


「昨日の夜、蝉……鳴いてた?」


 祖母は味噌汁をよそっていた手を止める。


「夜?」

「うん。」

「どこで。」

「僕の部屋の外。」


 祖母は静かに窓のほうを見た。

 そして、何も言わずに味噌汁を置くと、小さく笑った。


「そうかい。」


 それだけだった。

 それ以上は何も聞かなかった。

 聞いてはいけない気がした。


 その日の昼。

 家へ帰る前、僕は一度だけあの石垣の道を遠くから見た。

 今日も、そこだけ蝉は鳴いていない。

 境界線は、変わらずそこにあった。

 僕は二度と、その道へ近づかなかった。


 あれから十年が過ぎた。

 真夏の夜になると、今でも僕の部屋の窓の外だけ、蝉が鳴く。

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