蝉時雨が止むとき
夏休みに入って三日目。
都会の暑さから逃げるように、僕は祖母の家へやって来た。
駅を降りた瞬間、むっとした熱気が頬を包む。
照り返すアスファルト。青すぎる空。入道雲がゆっくりと形を変え、遠くの山々を見下ろしている。
そして、それらすべてを包み込むように響いていた。
――ミーン、ミーン、ミーン。
耳を塞いでも聞こえてくる蝉の大合唱。
アブラゼミ、ミンミンゼミ、時折ツクツクボウシまで混じって、まるで町全体が鳴いているようだった。
「今年もよう鳴いとるねえ」
祖母は麦わら帽子を押さえながら笑う。
「毎年こんなに?」
「こんなもんじゃよ。暑ければ暑いほど元気になる」
祖母の家までは駅から歩いて十分ほど。
道の両側には古い木造の家が並び、その向こうには田んぼが広がっている。
風が吹けば稲が波のように揺れ、その上から蝉時雨が降り注いでくる。
耳が痛くなるほどの大音量なのに、不思議とうるさいとは思わない。
むしろ、夏そのものの音だった。
祖母の家へ着くと、縁側には風鈴が吊るされていた。
ちりん。
涼しげな音が一度だけ鳴る。
「ばあちゃん、この風鈴、昔からあったっけ?」
「お前が小さい頃、一緒に選んだじゃないか」
そう言われても思い出せない。
けれど、ガラス越しに揺れる青い模様を見ていると、どこか懐かしい気がした。
昼はそうめんを食べ、夕方には畑へトマトを取りに行き、夜は縁側でスイカを食べる。
何も変わらない夏。
テレビでは各地で猛暑日を記録したと騒いでいる。
それでも祖母は笑っていた。
「夏は暑いから夏なんだよ」
夜になると、昼間あれほど鳴いていた蝉は姿を消し、代わりに草むらから虫の声が聞こえ始めた。
耳を澄ませば、風が竹林を揺らす音まで聞こえる。
田舎の夜は静かだ。
そう思っていた。
翌日。
宿題を終えた僕は、暇つぶしに町を歩いてみることにした。
「暗くなる前には帰っておいでよ」
祖母の声を背に受けながら、麦わら帽子をかぶって外へ出る。
今日も朝から蝉は絶好調だった。
ミーン。
ジジジジジ。
シャワーのように降り注ぐ蝉時雨。
細い道を歩き、神社の前を通り、小さな橋を渡る。
知らない町を歩くのは少しだけ冒険みたいで楽しかった。
ふと、一本の細い道が目に入った。
古い石垣に囲まれた、木陰の多い道だ。
「近道かな」
そう呟いて角を曲がる。
その瞬間だった。
蝉が、鳴き止んだ。
風は吹いている。
木々の葉も揺れている。
なのに、さっきまで町中に響いていた蝉の声だけが、嘘みたいに消えていた。
あまりの静けさに、自分の息遣いだけがやけに大きく聞こえる。
「……え?」
思わず足を止める。
その静寂は、まるで誰かが世界の音量を切ったようだった。
僕は一歩だけ後ろへ下がる。
――ミーン!
突然、耳元で蝉時雨が弾けた。
「うわっ!」
驚いて肩を震わせる。
もう一度前へ出る。
静寂。
後ろへ戻る。
蝉時雨。
前へ。
静寂。
まるで見えない境界線でもあるかのように、その場所だけ蝉は一匹も鳴いていなかった。
気のせいだったのかもしれない。
家へ帰る道すがら、僕は何度もそう自分に言い聞かせていた。
蝉だって生き物だ。
たまたま鳴き止むことくらいある。
そう考えれば済む話だ。
それなのに、あの静けさだけは頭から離れなかった。
夜になって布団へ入っても、思い出すのはあの場所だった。
耳が痛くなるほど鳴いていた蝉が、一本角を曲がっただけでぴたりと止む。
まるで、そこだけ夏から切り離されているようだった。
翌日。
宿題を終えると、僕はまた同じ道へ向かっていた。
「気になるなら確かめればいい。」
そんな言い訳をしながら。
神社を過ぎ、小さな橋を渡る。
蝉時雨は昨日と変わらない。
ミーン。
ジジジジジ。
空気が震えるほどの大合唱。
僕はゆっくりと角を曲がった。
――すっ。
まただ。
誰かが音だけを吸い取ったように、蝉の声が消える。
風だけが木々を揺らしている。
葉はざわり、と音を立てる。
それなのに蝉だけが鳴かない。
昨日とまったく同じだった。
僕は周囲を見回した。
木は何本も立っている。
幹には蝉の抜け殻も貼り付いている。
なのに姿は見えない。
いや、見えないだけで、本当はいるのだろうか。
試しに手を叩いてみる。
パンッ。
乾いた音が静かな道へ響く。
何も起きない。
蝉は鳴かない。
僕は境界線まで戻る。
その途端。
ミーーーーーン!
待っていたかのように、一斉に鳴き始めた。
「……なんなんだよ。」
胸の奥がざわつく。
怖い。
だけど、それ以上に知りたかった。
その日は境界線を何度も行ったり来たりした。
一歩前へ。
静寂。
一歩後ろへ。
蝉時雨。
まるで見えない壁でもあるように、その境目は寸分違わず同じ場所にあった。
帰ろう。
そう思って踵を返した、その時だった。
コッ。
自分の靴がアスファルトを叩く音。
静かな道では、その音だけがやけに大きく響く。
コッ。
もう一歩。
コッ。
さらに一歩。
すると。
……コッ。
少し遅れて、もう一つ。
後ろで足音がした。
僕は立ち止まる。
音も止まる。
振り返る。
誰もいない。
道の先まで見渡せる。
木陰にも、人影はない。
聞き間違いだ。
そう思って歩き出す。
コッ。
コッ。
……コッ。
まただ。
僕の足音の、ほんの半拍あと。
誰かが同じ道を歩いている。
速く歩けば、速く。
ゆっくり歩けば、ゆっくり。
まるで後ろをついてくるように。
喉がからからに渇いた。
振り返る。
誰もいない。
走る。
コッ、コッ、コッ、コッ――
自分の足音だけが響く。
いや。
違う。
もう一つある。
聞こえている。
確かに聞こえている。
境界線を飛び越えた瞬間だった。
ミーーーーーーーーーン!!
蝉時雨が耳を打つ。
あまりの大音量に思わず顔をしかめる。
振り返る。
静かな道には、誰も立っていなかった。
けれど。
蝉は一匹も鳴いていなかった。
まるで、その道の奥だけ、夏が息を潜めているように。
夕方になっても、胸のざわつきは消えなかった。
あの道では、自分の足音のほかに、もう一つ聞こえていた。
姿は見えない。
振り返っても誰もいない。
それなのに、耳だけは「誰かがいる」と告げていた。
家に帰ると、祖母は台所で夕飯の支度をしていた。
「おかえり。ずいぶん歩いたね」
「うん。」
冷たい麦茶を一気に飲み干す。
喉は潤ったはずなのに、胸の渇きは消えなかった。
夕食のあと、縁側で祖母とスイカを食べる。
日が傾き、昼間の暑さが少しだけ和らいでいた。
風鈴が、ちりん、と鳴る。
その音に誘われるように、僕は口を開いた。
「ねえ、ばあちゃん。」
「なんだい。」
「神社の向こうにある石垣の道、知ってる?」
祖母はスイカを食べる手を止めた。
「……知ってるよ。」
「今日歩いたんだけど。」
祖母は何も言わない。
風鈴だけが、また小さく鳴った。
「変なんだ。」
「何が。」
「あそこだけ、蝉が一匹も鳴かない。」
祖母は静かに目を伏せた。
「そうかい。」
驚く様子はなかった。
まるで、その話を知っていたかのように。
「昔からだよ。」
「昔から?」
「あの道では蝉が鳴かない。」
「なんで?」
「さあねえ。」
祖母は小さく笑う。
「理由なんて誰も知らないさ。」
少し間を置いて、ぽつりと言った。
「でもね。」
「うん。」
「蝉は、人より賢い。」
「え?」
「人には分からないものが、蝉には分かることがある。」
祖母はそれ以上、何も話さなかった。
僕は聞き返そうとした。
けれど、祖母は話を終わらせるように立ち上がり、台所へ戻っていった。
その夜。
布団に入っても眠れなかった。
天井を見つめながら考える。
もし祖母の言うとおりなら。
蝉は何を感じ取っているのだろう。
危険?
動物?
地震?
それとも――。
自分で考えて、自分で笑った。
「幽霊……なんて。」
そんなもの、いるはずがない。
なのに。
耳元で響くのは、昼間聞いたもう一つの足音だった。
コッ。
……コッ。
思い出しただけだ。
そう自分に言い聞かせる。
けれど翌朝、目が覚めた瞬間、最初に考えたのは宿題でも朝食でもなかった。
――もう一度、あの道へ行こう。
確かめたい。
あの静けさの理由を。
蝉は、いったい何を恐れているのかを。
翌日も、朝から蝉は元気に鳴いていた。
ミーン。
ジジジジジ。
耳が痛くなるほどの蝉時雨。
その音を聞いていると、昨日まで感じていた恐怖が少しだけ薄らいでいく。
やっぱり考えすぎだったのかもしれない。
そう思いたかった。
けれど、気づけば僕はまた神社へ向かっていた。
橋を渡る。
石垣が見える。
足が止まる。
帰ろう。
今ならまだ帰れる。
そう思っているのに、一歩だけ前へ出た。
――静寂。
蝉が鳴き止む。
世界から夏が消えた。
僕は息を飲み、ゆっくりと歩き始める。
コッ。
一歩。
コッ。
二歩。
……コッ。
また聞こえた。
僕の半拍あとを歩く、もう一つの足音。
今日は驚かなかった。
聞こえることは分かっていた。
問題は、その正体だった。
僕は立ち止まる。
足音も止まる。
振り返らない。
祖母は何も言わなかった。
けれど、振り返ってはいけない。
そんな気がしていた。
深呼吸をひとつ。
「……誰?」
声は木々に吸い込まれていく。
返事はない。
風も吹かない。
葉一枚揺れない。
静寂。
その中で。
コッ。
足音が一つだけ鳴った。
僕は動いていない。
なのに。
後ろの誰かだけが、一歩近づいた。
全身の毛穴が開く。
心臓が嫌な音を立てる。
「……やめろ。」
震える声で言う。
返事はない。
コッ。
また一歩。
今度は、もっと近い。
背中に視線を感じる。
見られている。
そんな気がした。
汗が首筋を伝う。
逃げたい。
でも、足が動かない。
静寂が重くのしかかる。
そして。
コッ。
三歩目。
今度は、すぐ後ろだった。
耳元で誰かが息をしていてもおかしくない距離。
僕は耐えきれず、駆け出した。
コッ!
コッ!
コッ!
夢中で走る。
後ろも追ってくる。
速い。
僕が速くなれば、後ろも速くなる。
振り返るな。
振り返るな。
頭の中でそれだけを繰り返す。
境界線まであと少し。
あと一歩。
その瞬間だった。
ミーーーーーーーーーン!!
耳を突き刺すような蝉時雨が、一斉に降り注いだ。
夏が戻る。
世界に音が満ちる。
僕は境界線を飛び越え、その場に崩れ落ちた。
肩で息をしながら、恐る恐る振り返る。
石垣の向こうには、誰もいなかった。
静かな道だけが、昼間とは思えないほど深い沈黙に包まれている。
その奥では、蝉は一匹も鳴いていない。
まるで。
何かが、まだそこに立っているかのように。
家へ帰ると、祖母は何も聞かなかった。
僕も何も話さなかった。
あの道で聞いた足音も。
境界線を越えた瞬間に消えたことも。
話してしまえば、本当にあったことになってしまう気がした。
夕飯はカレーだった。
テレビでは天気予報が流れている。
「明日も猛暑日でしょう。」
いつものニュース。
いつもの食卓。
祖母は「たくさん食べなさい」と笑い、僕は「うん」と答える。
昼間の出来事が、少しずつ夢のように思えてきた。
風呂へ入り、汗を流す。
冷たい麦茶を飲む。
縁側では風鈴が、ちりん、と鳴った。
外では、まだ蝉が鳴いている。
夏は何も変わっていない。
そう思えた。
夜九時を過ぎる頃には、蝉の声は虫の声へと変わっていた。
窓の外から聞こえるのは、鈴虫の小さな音だけ。
僕はようやく安心して布団へ潜り込んだ。
気づけば眠っていた。
◇
目が覚めた。
喉が渇いていた。
時計を見る。
午前二時十二分。
部屋は静まり返っていた。
暗闇の中、ぼんやり天井を見つめる。
虫の声も聞こえない。
風もない。
完全な静寂だった。
その時。
ミーン。
僕は目を見開いた。
一匹。
蝉の声。
夢だと思った。
耳を澄ます。
ミーン。
また鳴いた。
昼間と同じ声だった。
真夜中に鳴くはずがない。
体を起こす。
声は近い。
とても近い。
窓の外だ。
やがて一匹だった声に、もう一匹加わる。
ミーン。
ジジジジジ。
さらに一匹。
また一匹。
気づけば昼間のような蝉時雨になっていた。
僕は障子を見つめる。
開ければ確かめられる。
何がいるのか。
いや。
何もいないのかもしれない。
右手を伸ばす。
障子まで、あと少し。
その時。
祖母の言葉が頭をよぎった。
『蝉は、人より賢い。』
伸ばした手が止まる。
僕はゆっくりと引き戻した。
障子は閉じたまま。
蝉は鳴き続ける。
朝まで、一度も止まなかった。
翌朝。
僕は祖母に尋ねた。
「昨日の夜、蝉……鳴いてた?」
祖母は味噌汁をよそっていた手を止める。
「夜?」
「うん。」
「どこで。」
「僕の部屋の外。」
祖母は静かに窓のほうを見た。
そして、何も言わずに味噌汁を置くと、小さく笑った。
「そうかい。」
それだけだった。
それ以上は何も聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
その日の昼。
家へ帰る前、僕は一度だけあの石垣の道を遠くから見た。
今日も、そこだけ蝉は鳴いていない。
境界線は、変わらずそこにあった。
僕は二度と、その道へ近づかなかった。
あれから十年が過ぎた。
真夏の夜になると、今でも僕の部屋の窓の外だけ、蝉が鳴く。




