第9話 解除ではなく
地下三階の空気は、熱かった。
防火扉を開けた瞬間、煙と熱が一気に流れ込んでくる。
黒瀬玲央は腕で顔をかばいながら、一歩中へ入った。
防煙マスク越しでも、喉の奥が焼けるようだった。
天井の非常灯は半分死んでいる。
点いているものも、赤く弱い光を揺らしていた。
床には割れた蛍光灯。
倒れた台車。
焦げた段ボール。
濡れたコンクリート。
その奥から、金属を叩く音が聞こえる。
一回。
二回。
三回。
生きている。
黒瀬は短く言った。
「真神、右を確認。灰原、熱源を確認」
「分かった」
「うん」
真神アキラは壁際を滑るように進み、搬入通路の角を確認する。
灰原ナギは耐熱カメラを構え、赤く染まった画面を睨んだ。
WRISTには、灰原の解析結果が共有されていく。
《要救助者反応:六名》
《未確認熱源:複数》
《二次爆発リスク:上昇》
《地下三階進入制限:残り一分十秒》
黒瀬は通信を開いた。
「統括官、地下三階に入った。要救助者六名。熱源は複数」
白羽美月の声が返る。
『確認しています。二分以内に判断してください』
「分かってる」
黒瀬は周囲を見た。
通路の奥に、防火シャッターがあった。
半分ほど下りたまま歪み、下部にわずかな隙間がある。
だが、人が通るには狭すぎた。
向こう側から、人の声がした。
「誰かいるのか!」
「助けてくれ!」
作業員らしき男の声。
黒瀬はシャッターへ近づく。
「第6部隊だ。そこに何人いる」
「六人! 一人、足を挟まれてる!」
「火は?」
「こっち側にはない! でも、シャッターが閉まる前、そっち側の電気室が異常に熱かった! 赤いランプも点滅してた!」
灰原が反応する。
「電気室?」
黒瀬は灰原を見る。
「こっち側か」
灰原は耐熱カメラを動かした。
赤い熱源が、黒瀬たちのいる通路の奥で強く映っている。
場所は、壁際の非常用電源盤。
その周囲だけ、熱が不自然に集まっていた。
熱源は一つではない。
床下。
壁際。
電源盤の背面。
規則的に並んでいる。
灰原の顔から、わずかに血の気が引いた。
「違う」
「何が」
「火災じゃない」
黒瀬は低く聞いた。
「爆弾か」
「たぶん」
灰原は膝をつき、床に転がっていた配線の焼け跡を見る。
「非常用電源に偽装してる。熱源が電源盤の位置と合わない。火災ならもっと広がる。でもこれは、熱が逃げないように置いてある」
真神が言った。
「起爆装置か」
「温度起爆。たぶん、火災で一定温度を超えたら動く」
灰原は短く息を吸った。
「救助隊が入る頃に爆発するようにしてる」
黒瀬は赤く点滅する電源盤を見た。
事故ではない。
テロリストは、地上で捕まった。
だが、地下に残されたものはまだ生きている。
犯人がいなくても、人を殺す仕掛けだけが残っている。
通信に美月の声が入った。
『黒瀬、状況を』
黒瀬は答える。
「熱源は爆発物の可能性が高い。非常用電源に偽装。温度起爆の疑い」
美月の声が一瞬止まった。
『撤退してください。地下三階の状況は危険です』
シャッターの向こうで、男の声が叫ぶ。
「待ってくれ! こっちに怪我人がいる!」
別の声。
「煙が入ってきてる!」
黒瀬はシャッターの隙間を見る。
向こう側には、うずくまる影が見えた。
撤退すれば、六人は残る。
残れば、爆発に巻き込まれる。
黒瀬は灰原を見る。
「判断は」
灰原は耐熱カメラを睨んだまま言った。
「残り一分で爆発するとは限らない。でも温度は上がってる」
「解除できるか」
「本体の解除は無理」
「温度起爆は?」
「構造を見れば、切れるかもしれない」
「分かるまでに?」
灰原は短く答えた。
「時間がない」
WRISTの表示が変わる。
《地下三階進入制限:残り五十秒》
黒瀬は通信を開いた。
「統括官、判断更新だ」
『撤退です』
「撤退すれば六人を見殺しにする事になる」
『あなたたちが爆発に巻き込まれれば、地下二階の救助も止まります』
「分かってる」
黒瀬は赤い熱源を見た。
「灰原、必要な時間は」
灰原は即答しなかった。
シャッターの隙間。
壁際の電源盤。
熱の並び。
床下へ伸びる不自然な配線。
それから言った。
「解除じゃないなら、三分」
「何をする」
「温度起爆だけ切る」
美月の声が入る。
『温度起爆だけ?』
灰原は通信に向けて言った。
「完全解除は無理。構造が見えない。無理に電源を落としたら、排煙設備と防火シャッターが死ぬ。地下二階の人が煙で詰む」
黒瀬は目を細めた。
「電源を落とせば駄目か」
「駄目。電源を生かしたまま、温度起爆の信号だけ外す。失敗したら起爆する」
真神が淡々と言う。
「分かりやすく最悪だな」
灰原は頷かない。
「うん」
黒瀬は通信に戻った。
「統括官。灰原が温度起爆を止める。俺と真神でシャッターを開けて六人を出す」
『承認できません』
「見殺しにするのか?」
美月はすぐには答えなかった。
警報音。
煙。
金属を叩く音。
その中で、通信だけが妙に近かった。
美月が言う。
『……灰原の作業時間、三分。三分を超えたら撤退』
灰原が即座に言う。
「三分じゃ足りない」
黒瀬は灰原を見る。
「最低は」
「四分」
『三分です』
「四分」
灰原の声は揺れなかった。
「三分だと、切り離しが雑になる。失敗率が上がる」
美月が息を呑む気配があった。
黒瀬は言った。
「統括官」
『……四分。ですが、温度急上昇、構造振動増大、通信途絶のいずれかで即時撤退。灰原の特殊解除ツールを限定承認します』
WRISTに表示が出る。
《特殊解除ツール:限定承認》
《使用目的:温度起爆信号の切り離し》
《使用者:灰原ナギ》
《作業制限:四分》
《撤退条件:即時適用》
灰原の装備ケースのロックが外れた。
小さな音。
灰原はケースを開ける。
細い絶縁カッター。
耐熱プローブ。
小型の信号遮断クリップ。
伊吹の声が通信に混じった。
『隊長、地下二階、避難者が増えてる。飲食店街の奥に十二、いや十三。煙が回ってる』
黒瀬は短く返す。
「獅堂は」
『前で通路を作ってる。消防と接続中。こっちは何とかする』
「走らせるな」
『分かってる。走らせたら詰まる』
黒瀬は一度だけ目を閉じた。
地下二階には伊吹と獅堂。
地下三階には六人と爆発物。
全員を救うには、どちらも止められない。
「伊吹。地下二階を任せる」
少しの間。
それから、伊吹の声が返った。
『了解』
いつもの軽さは薄かった。
黒瀬は真神を見る。
「シャッターを開ける」
真神は頷いた。
「殺す相手はいない方が面倒だな」
「救う相手はいる」
「それが面倒だと言っている」
真神はしゃがみ、シャッターの下部を確認した。
「歪んでる。完全には開かない」
「人が通れるだけでいい」
黒瀬は灰原を見る。
「電源盤は任せる」
「うん」
灰原は振り返らずに答えた。
その指先は、すでに工具ケースのロックを外していた。
真神がシャッター脇に鉄棒を差し込む。
黒瀬も下部に手をかけた。
金属は熱を持っている。
防護手袋越しでも、じわりと熱が伝わった。
「いくぞ」
二人が同時に力をかける。
金属が軋んだ。
十センチ。
十五センチ。
二十センチ。
人が一人、這って通れる程度の隙間ができる。
黒瀬はシャッターの向こうへ声を飛ばした。
「動ける奴から出ろ。低く進め。声を出すな」
灰原は非常用電源盤の前に膝をついた。
耐熱プローブを差し込み、焼けたカバーの隙間を覗く。
赤い光が、彼女の顔を照らす。
WRISTには灰原の解析が流れる。
《温度起爆回路:推定》
《非常用電源系統:連動》
《排煙設備:同系統に接続》
《強制遮断:非推奨》
灰原は唇を動かした。
「悪趣味」
黒瀬は一人目を引き出しながら聞いた。
「何が」
「電源を落とせば爆発は止まりやすい。でも排煙が止まる。電源を生かせば排煙は動く。でも爆弾も温まる」
「選ばせる作りか」
「うん」
灰原の声が低い。
「作った奴、性格悪い」
シャッターの向こうから、作業服の男が這ってくる。
顔は煤で黒い。
肩で息をしている。
黒瀬が腕を掴み、外へ引き出した。
「後ろへ。壁沿いに進め」
男は頷き、よろめきながら壁へ移動する。
「二人目」
次に出たのは、若い女性作業員だった。
足元がふらついている。
真神が内側へ腕を伸ばし、隙間へ誘導する。
女性は真神の顔を見て、一瞬怯えた。
真神は言った。
「怖がる暇があるなら息をしろ」
「……はい」
「低く」
女性は床に近い姿勢になり、外へ出た。
三人目。
四人目。
順に逃がしていく。
灰原は電源盤の前から動かない。
赤。
黒。
白。
焼けて色の変わった線。
本来そこにないはずの細い銀線。
爆弾は、電源設備の中に隠されている。
ただ止めればいいなら簡単だった。
切ればいい線はある。
だが、それを切れば排煙が落ちる。
防火シャッターの残りも動かなくなる。
地下二階の避難者が煙に巻かれる。
灰原は歯を噛んだ。
「違う」
一つ目ではない。
「こっちでもない」
二つ目でもない。
「これ」
耐熱プローブを差し込む。
信号遮断クリップを固定する。
だが、奥の線に届かない。
補助アームがあれば届く距離。
承認されなかった装備。
灰原は一瞬だけ、唇を噛んだ。
黒瀬は五人目を引き出しながら、それを見た。
「届かないのか」
「届く」
「無理してる顔だ」
「見ないで」
「時間は」
灰原はWRISTを見ずに言う。
「一分三十」
黒瀬は美月へ通信を開いた。
「統括官、灰原の作業に追加装備が必要だ。補助アーム」
美月の反応は早かった。
『補助アームは未承認装備です』
「今ここで要る」
『灰原、必要性を説明してください』
灰原は工具を握ったまま答える。
「奥の信号線に手が届かない。手作業だと熱源に近づきすぎる。補助アームなら外側から切れる」
『危険性は?』
「使い方を間違えたら、信号線を押し込んで起爆する」
美月は一瞬沈黙した。
黒瀬は言った。
「判断しろ、統括官」
短い沈黙のあと、美月の声が返る。
『使用者は灰原ナギのみ。対象は温度起爆信号線。操作時間は六十秒。失敗兆候が出た時点で即時撤退』
灰原が即答する。
「六十秒でいい」
WRISTに表示が出た。
《爆発物処理用補助アーム:限定承認》
《使用者:灰原ナギ》
《使用目的:温度起爆信号線の切り離し》
《操作制限:六十秒》
灰原のケースの最下段が解錠される。
小型の折りたたみ式アームが展開した。
灰原はそれを電源盤の縁に固定する。
指先で操作し、細いアームを奥へ入れた。
五人目の作業員が、外へ出た直後、咳き込みながらシャッターの奥を指さした。
「奥に、まだ一人……足を挟まれてる」
黒瀬は隙間から中を覗いた。
搬入区画の奥。
倒れた作業員の脚に、金属棚が倒れ込んでいる。
意識は薄い。
このままでは煙を吸う。
「真神」
「見えてる」
真神は身を低くし、シャッターの隙間へ滑り込んだ。
黒瀬はシャッターの下部に両手をかける。
「俺が支える。棚をどかせ」
「分かった」
真神は内側へ入ると、すぐに倒れた棚の横へ回り込んだ。
煙の向こうで、金属が軋む音がする。
「重いな」
「感想はいらない」
「言った方が力が入る」
真神は棚の脚を掴み、肩を入れた。
作業員がかすかに呻く。
「痛い……!」
「生きてる証拠だ」
真神が力を込める。
棚がずれた。
作業員の足が抜ける。
その瞬間、通路の奥で火花が走った。
灰原が叫ぶ。
「伏せて!」
小さな破裂音。
電源盤の横のカバーが弾け飛んだ。
黒瀬のWRISTに警告が出る。
《温度上昇》
《二次爆発リスク:上昇》
《作業制限:残り二分十秒》
シャッターがさらに沈む。
黒瀬は歯を食いしばった。
「真神!」
真神は倒れた作業員の腕を肩に回し、半ば引きずるようにして隙間へ戻った。
「出すぞ」
黒瀬が作業員の上着を掴む。
真神が内側から背中を押す。
作業員の体が、シャッターの下を抜けた。
続いて、真神も身を低くして隙間をくぐる。
鈍い音を立てて、シャッターがさらに沈んだ。
黒瀬は膝をついた。
手袋の表面が焦げていた。
真神が息を整えながら言う。
「全員出した」
黒瀬はすぐに確認する。
「六人いるか」
最初の男が咳き込みながら答えた。
「いる……全員、いる……!」
黒瀬は通信を開いた。
「統括官、地下三階の要救助者六名を確保。これから脱出させる」
美月の声が返る。
『了解。灰原の作業状況は?』
灰原は電源盤の前で動かなかった。
細い工具を持つ指だけが、わずかに震えている。
「灰原」
「喋らないで」
黒瀬は黙った。
美月の声が通信に入る。
『地下二階、状況悪化。煙が南側に流れています』
続いて伊吹の声。
『隊長、こっちも少しまずい。避難者が増えすぎて、通路が詰まりかけてる』
黒瀬は答えた。
「獅堂は」
『盾で流れを作ってる。でも煙が逆流してる。排煙、落ちたら終わるよ』
灰原の指が止まった。
「落とさない」
声は小さい。
でも、確かだった。
伊吹が通信の向こうで言う。
『ナギちゃん、信じてるよ』
「うるさい」
『うん、それでいい』
灰原はアームをさらに奥へ進めた。
小さな画面に、銀色の線が映る。
本命の信号線。
その隣には、赤い被覆の線。
触れれば終わる。
WRISTに表示。
《操作制限:残り三十秒》
《温度上昇:継続》
《排煙設備:稼働中》
黒瀬は灰原の横に立った。
「怖いか」
「黙って」
「怖いなら、それでいい」
「黙ってって言った」
「手が止まってない」
灰原は奥歯を噛む。
アームの先端が、銀線を挟む。
だが、熱で映像が乱れた。
一瞬、線が二重に見える。
灰原の指が迷う。
その瞬間、地下二階から悲鳴が聞こえた。
通信越しに、伊吹の声が響く。
『押さない! 走らない! 前に子どもがいる!』
獅堂の低い声。
『こっちだ! 壁沿いに進め!』
灰原の目が揺れる。
黒瀬は言った。
「灰原」
「何」
「お前が止めれば、上も生きる」
灰原は返事をしない。
「外せ」
灰原は息を止めた。
アームの刃が、銀線を挟む。
一秒。
二秒。
三秒。
切断。
WRISTの表示が一瞬消えた。
黒瀬は灰原を見る。
灰原は動かない。
次の瞬間、表示が戻った。
《温度起爆信号:切断》
《温度上昇による起爆:停止》
《排煙設備:稼働継続》
《主爆薬:未解除》
《二次爆発リスク:残存》
灰原は小さく息を吐いた。
「温度起爆は止めた」
黒瀬は画面を見る。
「爆弾は?」
「本体は残ってる」
灰原は立ち上がった。
「熱で勝手に爆発することはない。でも、衝撃か別系統の信号が入れば起爆する。完全解除じゃない」
「今は十分だ」
「十分じゃない」
灰原は赤い非常用電源盤を見た。
「ただ、今すぐ全員が死ぬ可能性は下げた」
黒瀬は通信を開いた。
「統括官、温度起爆を停止。排煙は生きている。ただし爆弾本体は未解除。二次爆発リスクは残る」
美月の声が返る。
『了解。全員、ただちに脱出してください』
「地下三階の六人は脱出中。灰原を連れて戻る」
その時だった。
足元が揺れた。
小さくない。
通路全体が低く唸る。
天井から粉塵が落ちる。
WRISTが警告を出した。
《構造振動増大》
《地下二階南側通路:崩落リスク》
《避難経路:不安定》
伊吹の声が飛ぶ。
『隊長、まずい! 南側通路、天井が落ちかけてる!』
獅堂の声が重なる。
『こっちは抑える。早く上げろ』
黒瀬は通信に向かって言った。
「獅堂、無理するな」
『無理しねえと通れねえ』
灰原が顔を上げる。
「今の振動で本体の固定がずれた」
「爆発するのか」
「衝撃が続けば、分からない」
黒瀬は低く息を吐いた。
まだ終わらない。
温度起爆は止めた。
だが、爆弾本体は残っている。
地下二階には避難者。
地下三階には救助した六人。
そして、揺れる通路。
黒瀬は真神に通信を入れる。
「真神、六人を階段まで上げろ」
『やってる』
「獅堂の所まで止まるな」
『分かった』
次に、伊吹へ。
「伊吹。全員を走らせるな。だが止めるな」
『難しい注文だね』
「できるだろ」
一拍置いて、伊吹が返す。
『了解』
黒瀬は灰原を見る。
「走れるか」
「走れる」
「なら行くぞ」
灰原は一度だけ、赤い非常用電源盤を見た。
そこにはまだ、点滅する小さな赤いランプがあった。
完全には止まっていない。
ただ、最悪の起爆条件を一つ消しただけだ。
黒瀬は言った。
「灰原」
「何」
「後悔は後でしろ」
灰原は黒瀬を見た。
「今は?」
「生きて出る」
灰原は小さく頷いた。
二人は地下三階の通路を走り出した。
背後で、赤いランプの点滅が続いている。
WRISTに新たな表示が浮かんだ。
《温度起爆:停止》
《主爆薬:未解除》
《地下二階避難未完了》
《地下三階救助者脱出中》
《第6部隊撤退指示:継続》
地下街の底で、まだ火は消えていない。
救助は、終わっていなかった。




