第7話 申請権
朝は、思ったより普通に来た。
白い天井。
薄い布団。
壁に埋め込まれた監視カメラ。
扉の横にある認証パネル。
拘置施設の独房よりは広い。
だが、自由とは言いがたかった。
黒瀬玲央はベッドから起き上がり、首元のNOXに触れた。
黒い制御環は、昨日と同じように冷たい。
左腕のWRISTが、短く震えた。
《起床確認》
《生体状態:正常》
《現在残刑日数:40》
《本日行動範囲:第6部隊隊舎内》
《外出:不可》
黒瀬は表示を見て、鼻で笑った。
「丁寧な監獄だな」
返事はない。
部屋の扉が開く。
廊下に出ると、同じような個室が並んでいた。
無駄に清潔で、無駄に明るい。
壁の角には監視カメラ。
天井には生体センサー。
床には位置認証用のライン。
それでも、扉は開く。
食堂にも行ける。
共有スペースにも行ける。
訓練室にも行ける。
ただし、許された範囲の中だけ。
それは、自由に歩ける檻だった。
食堂に入ると、伊吹透がすでに席についていた。
寝癖のついた髪のまま、トレーの上の朝食を眺めている。
「おはよう、黒瀬ちゃん」
「早いな」
「寝られなかっただけ。あと、死刑囚救助隊の朝食が気になって」
黒瀬は伊吹のトレーを見る。
ご飯。
味噌汁。
焼き魚。
卵焼き。
小鉢。
普通だった。
普通すぎて、逆に気味が悪い。
伊吹は箸で卵焼きをつついた。
「毒とか入ってるかな」
「入れるならもっと早い」
「だよね。首輪で済むもんね」
伊吹は笑って、卵焼きを口に入れた。
「味、普通」
「そうか」
黒瀬もトレーを受け取り、向かいに座った。
少し遅れて、灰原ナギが入ってくる。
寝癖はない。
表情も変わらない。
だが、手には小型ドローンの部品が握られていた。
伊吹がそれを見る。
「ナギちゃん、食堂に工具持ち込みありなの?」
「工具じゃない。羽根」
「なおさら食堂で見るものじゃないね」
灰原は伊吹を無視して、黒瀬の斜め前に座った。
続いて、真神アキラが無言で入ってくる。
トレーを取り、壁際に座ろうとしたところで、黒瀬が言った。
「こっちに座れ」
真神は黒瀬を見る。
「なぜ」
「部隊だからだ」
「食事までか」
「食事もだ」
真神は少しだけ面倒そうに息を吐き、席についた。
最後に、獅堂鉄平が来た。
大柄な体に、食堂の椅子が少し小さく見える。
伊吹が手を振る。
「獅堂さん、おはよう」
「朝から騒がしいな」
「まだ静かな方だよ」
獅堂は伊吹の隣に座った。
トレーの上の味噌汁を見て、短く言う。
「薄い」
「そこ気にするんだ」
伊吹が笑う。
獅堂は答えず、箸を取った。
五人が同じテーブルについた。
誰かがそうしようと言ったわけではない。
それでも、自然とそうなった。
仲間ではない。
信頼もない。
だが、昨日同じ場所から帰ってきた。
その事実だけが、まだ薄く残っていた。
食堂の壁面モニターに、朝のニュースが流れている。
ひばりの森こども園事件。
画面には、規制線の外で泣き崩れる保護者と、園児を抱える救急隊員の映像が映っていた。
テロップにはこう出ている。
警察特殊救助班が園児二十六名を救出
職員六名も無事
犯人グループ八名を逮捕
伊吹が味噌汁を飲みながら言った。
「警察特殊救助班だって」
灰原は画面を見ない。
真神も見ない。
獅堂だけが、一瞬だけ目を上げた。
画面の端に、昨日の女の子らしき姿が映った。
母親に抱きつき、顔を隠して泣いている。
獅堂はすぐに視線を落とした。
伊吹はそれを見逃さなかった。
だが、何も言わなかった。
黒瀬も、ニュースを見ながら箸を動かした。
知られなくていい。
助けた相手に、余計なものを背負わせる必要はない。
死刑囚に助けられた。
そんな事実は、子どもたちにはいらない。
食事が終わる頃、全員のWRISTが同時に震えた。
《残刑日数加算反映完了》
《申請メニュー更新》
《使用可能申請権を確認してください》
伊吹がすぐに反応する。
「来た。命のポイント交換所」
「言い方」
黒瀬が言う。
「でもそんな感じじゃない?」
伊吹はWRISTを操作し、空中に半透明のメニューを開いた。
黒瀬のWRISTにも同じ表示が出る。
《残刑日数申請》
《1日:日常改善申請》
《1日:短時間通信申請》
《3日:監視付き通話申請》
《3日:手紙送付申請》
《7日:家族面会申請》
《7日:弁護士接触申請》
《14日:未公開任務記録閲覧申請》
《30日:事件再調査申請》
《90日:再審査予備申請》
伊吹は表示を指で弾いた。
「一日で日常改善。枕を柔らかくするとか?」
灰原が淡々と言う。
「照明調整、食事制限、医療補助、室温設定」
「ナギちゃん、よく読んでるね」
「読めば分かる」
「僕は読まずに雰囲気で生きてる」
「危ない」
「よく言われる」
伊吹は笑い、監視付き通話申請の項目を開いた。
すぐに赤い警告が出る。
《申請には統括官承認が必要です》
《通話先事前登録が必要です》
《会話内容は記録されます》
《不適切内容を検知した場合、即時遮断》
伊吹は口笛を吹いた。
「通話にも首輪付きか」
黒瀬は表示を見る。
確かに、自由ではない。
残刑日数は金ではない。
命の残りを削って、許可を申請する権利に変えるだけだ。
許可されるとは限らない。
申請しても、却下されることがある。
その上、すべて記録される。
獅堂はWRISTを開いたまま、何も押していなかった。
伊吹がのぞき込もうとする。
「獅堂さんは何か申請しないの?」
獅堂は画面を消した。
「しない」
「家族面会とか」
獅堂の目が少しだけ低くなる。
伊吹はすぐに笑みを引っ込めた。
「ごめん」
「謝るな」
獅堂は味噌汁の椀を置いた。
「面会する相手なんていない」
その声は低かった。
それ以上、誰も聞かなかった。
真神はWRISTの申請メニューを一瞥しただけで閉じた。
「くだらない」
伊吹が聞く。
「真神くんは通話したい相手いないの?」
「いたら、ここにいない」
「それもそうだ」
灰原は申請メニューとは別の画面を開いていた。
装備改善申請。
《小型偵察ドローン追加申請》
《耐熱カメラ申請》
《爆発物処理用補助アーム申請》
《必要理由入力》
《統括官承認待ち》
黒瀬はそれを見る。
「もう出すのか」
「必要だから」
「昨日言っていたやつか」
「うん」
灰原は短く理由を書き込んでいく。
遊戯室内の死角。
カーテン接触による映像乱れ。
熱源確認の遅延。
爆発物への接近リスク。
感情はない。
だが、昨日の任務で何が足りなかったのかは、正確に見ている。
伊吹が感心したように言った。
「ナギちゃん、仕事は早いね」
「仕事だから」
「人間関係は?」
「必要最低限」
「うん、今後の課題だ」
灰原は無視した。
黒瀬は自分のWRISTを見る。
目に留まったのは、一つの項目だった。
《30日:事件再調査申請》
黒瀬は、その表示から目を離せなかった。
三十日。
部下四名殺害。
国家機密任務中の重大背信行為。
そう記録された事件。
黒瀬が死刑囚になった理由。
再調査申請には三十日が必要だった。
今の黒瀬には、四十日ある。
使えば、申請できる。
だが、申請したところで通る保証はない。
許可されるとも限らない。
記録が開示されるとも限らない。
本当に再調査されるとも限らない。
それでも、項目はそこにあった。
伊吹が横から覗いた。
「黒瀬ちゃん、それ気になる?」
黒瀬は画面を閉じた。
「見るな」
「見えちゃったんだよ」
「忘れろ」
「無理だね。僕、記憶力はいいから」
黒瀬は伊吹を見た。
伊吹は軽く手を上げる。
「言わないよ」
その声は、いつもより少しだけ軽くなかった。
「人の地雷を踏む趣味はあるけど、爆発させる趣味はない」
「十分悪い趣味だ」
「職業病みたいなもの」
「詐欺師に職業病があるのか」
「あるよ。相手の痛そうな場所が、先に見える」
伊吹はそう言って、自分のWRISTを閉じた。
食堂の入口に、美月が立っていた。
黒い制服。
まとめられた髪。
昨夜と同じ硬い表情。
「全員、共有スペースへ」
伊吹が小さく言う。
「今日も怖い顔してるね」
美月は伊吹を見る。
「聞こえています」
「聞こえるように言ったので」
「では、黙って移動してください」
「はい、統括官」
伊吹は軽く返事をして立ち上がった。
共有スペースに移動すると、壁面モニターに隊舎の見取り図が表示された。
食堂。
個室。
共有スペース。
訓練室。
医療室。
装備調整室。
面談室。
そして、赤く塗られた外部通路。
《許可区域》
《制限区域》
《立入禁止区域》
《外出不可》
美月は説明を始めた。
「第6部隊隊舎内では、指定区域内の移動を許可します。ただし、外部区画への移動には統括官承認が必要です」
伊吹が手を上げる。
「コンビニは?」
「不可」
「散歩は?」
「不可」
「屋上で風に当たるのは?」
「不可」
「じゃあ自由とは?」
「隊舎内移動の自由です」
「言い方が上手いね」
美月は無視して続ける。
「残刑日数を使用した申請は、すべて審査対象です。日数を消費すれば必ず許可されるわけではありません」
獅堂が低く言う。
「使った日数は戻るのか」
「却下された場合は返還されます。承認後に本人都合で取り消した場合は、内容によります」
「細かいな」
「細かくなければ、制度は壊れます」
美月の声には迷いがなかった。
黒瀬はそれを聞いていた。
制度。
承認。
記録。
申請。
この場所は、何もかもが手続きでできている。
それは死刑囚を縛るためのものだ。
だが、それだけではないようにも見えた。
首輪をつけられた者だけでなく、首輪を使う側にも鎖をかけている。
そんな作りだった。
伊吹が言った。
「統括官、質問」
「何ですか」
「この制度、作った人かなり心配性だよね」
美月の目がわずかに動いた。
「どういう意味ですか」
「だってさ、承認、審査、記録、監査、拒否権。面倒なくらい止める仕組みが多い」
伊吹は壁面の表示を見上げる。
「死刑囚を縛るだけなら、もっと簡単でいい。首輪つけて、命令して、逆らったら終わり。それで済むでしょ」
誰も答えない。
伊吹は続けた。
「でも、そうしてない。僕らだけじゃなくて、命令する側も縛ってる」
美月は少しだけ沈黙した。
「制度上、必要な安全措置です」
「誰に対する?」
伊吹が聞いた。
美月の表情は変わらない。
だが、返答までに一拍あった。
「全員に対するものです」
伊吹は笑った。
「便利な答えだね」
「それ以上の説明は許可されていません」
「はいはい」
伊吹は両手を上げた。
黒瀬は美月を見ていた。
美月が何かを隠していることは分かる。
だが、それが何かまでは分からない。
美月自身も、すべてを知っている顔ではなかった。
その時、共有スペースの扉が開いた。
入ってきたのは、橘修司だった。
細身のスーツ。
感情を削ったような目。
手には薄い黒色の端末。
面会室で初めて会った時と、ほとんど変わらない。
伊吹が小さく言う。
「お客さん?」
黒瀬は橘を見た。
「法務省」
橘は軽く会釈した。
「おはようございます。第6部隊の皆さん」
美月が姿勢を正す。
「橘監査室長」
橘はうなずいた。
「白羽統括官、昨日の任務記録を確認しました」
「処分申請は行いません」
「それも確認済みです」
橘は黒瀬を見る。
「黒瀬玲央さん」
「何だ」
「初任務、お疲れさまでした」
「労いに来たのか」
「監査に来ました」
「だろうな」
橘は表情を変えない。
「任務結果は良好です。ただし、命令逸脱は重大です」
黒瀬は答えない。
橘は続けた。
「しかし、処分申請を行わないという白羽統括官の判断は、制度上認められています」
伊吹が口を挟む。
「制度って、本当に便利な言葉だね」
橘は伊吹を見る。
「便利にしておかなければ、人は簡単に人を殺します」
伊吹の笑みが少しだけ止まった。
橘は淡々と言った。
「承認とは、現場を遅らせるためだけのものではありません。命令する側を止めるためにも存在します」
共有スペースが静かになった。
美月は橘を見ている。
黒瀬も、何も言わない。
橘の声は変わらない。
「あなた方には首輪があります。ですが、首輪を握る側に何の制限もなければ、それは制度ではなく処刑装置です」
真神が静かに言った。
「今も大差ない」
橘は真神を見る。
「そうならないように、記録と承認がある」
「綺麗事だな」
「ええ」
橘は否定しなかった。
「制度とは、多くの場合、綺麗事で人を縛ります」
黒瀬は橘を見た。
この男は、制度を正しいとは言わない。
最初に会った時と同じだった。
美しく言い換えようとしない。
だからこそ、余計に信用しづらい。
橘は端末を操作した。
壁面モニターに、昨日の任務結果が表示される。
《第6部隊初任務》
《人質三十二名生存》
《犯人八名確保》
《爆発物三箇所無力化》
《命令逸脱:記録》
《処分申請:なし》
《監査評価:継続観察》
伊吹が呟く。
「観察される人生だねえ」
橘は言った。
「皆さんはすでに、死刑確定者です」
その言葉に、空気が少しだけ沈む。
橘は続ける。
「その事実は変わりません。任務で人を救っても、過去の罪が消えるわけではない」
獅堂の目が細くなる。
真神は無表情のまま。
灰原は視線を落とした。
黒瀬は何も言わない。
橘は続けた。
「ですが、昨日救われた三十二人の命も、消えるわけではありません」
黒瀬の目が、わずかに動いた。
橘は黒瀬を見ていた。
「その両方を記録するために、監査があります」
伊吹が小さく笑った。
「怖い人だね、橘さん」
「よく言われます」
「黒瀬ちゃんと同じ返しだ」
黒瀬は伊吹を見る。
「黙ってろ」
「はーい」
橘は端末を閉じた。
「本日の監査は以上です。白羽統括官、装備改善申請が出ています。確認を」
美月は灰原を見る。
灰原は無表情で言った。
「必要」
美月は端末を確認する。
小型偵察ドローン追加。
耐熱カメラ。
爆発物処理用補助アーム。
美月は少しだけ考えた。
「小型偵察ドローン一機、耐熱カメラ一式は承認します。補助アームは追加資料を提出してください」
灰原はうなずいた。
「分かった」
伊吹が小さく言う。
「ナギちゃん、よかったね」
「必要だから」
「喜び方が独特」
橘は全員を見渡した。
「では、監査はここまでです」
橘が共有スペースを出ていく。
黒瀬もその場を離れようとした。
その時、廊下の先で橘が足を止める。
「黒瀬玲央さん」
黒瀬は振り返った。
「何だ」
橘は周囲を確認するように、わずかに視線を動かした。
美月たちのいる共有スペースからは、少し距離がある。
橘は声を落とした。
「三十日申請は、慎重に使ってください」
黒瀬の表情が、少しだけ硬くなる。
「見ていたのか」
「申請画面の閲覧履歴は記録されています」
「趣味が悪いな」
「制度です」
黒瀬は橘を睨む。
橘は表情を変えなかった。
「事件再調査申請は、出せば必ず進むものではありません。記録開示には段階があります。却下される可能性もある」
「分かっている」
「それでも、出す価値はあります」
黒瀬は黙った。
橘の目は変わらない。
「ただし、今ではない」
「なぜだ」
「あなたはまだ、第6部隊の中で何も得ていません」
「日数ならある」
「日数ではありません」
橘は言った。
「証人です」
黒瀬は動かなかった。
証人。
その言葉だけが、妙に重かった。
「あなたの事件を本当に動かすには、記録だけでは足りない。あなたを見て、あなたの判断を知り、あなたの言葉を信じる人間が必要になる」
橘はそこで一度、言葉を切った。
「今のあなたには、まだそれがいない」
黒瀬は答えなかった。
橘は静かに続けた。
「焦らないことです。残刑日数は命ですが、同時に使い方を間違えれば、ただ減るだけの数字です」
黒瀬は低く言った。
「助言か」
「監査官としての意見です」
「法務省は親切だな」
「親切ではありません」
橘は即答した。
「私は、失敗したくないだけです」
その言葉の意味を、黒瀬はすぐには聞けなかった。
橘はそれ以上言わず、廊下を歩いていった。
黒瀬はしばらく、その背中を見ていた。
その時だった。
共有スペースの警報灯が、白から赤へ変わった。
短い電子音が鳴る。
全員のWRISTが同時に震えた。
《緊急任務予告》
《特務公安庁中央管制より通達》
《第6部隊待機命令解除準備》
伊吹の声が共有スペースから聞こえた。
「ほら来た」
黒瀬はWRISTを見る。
次の表示が開いた。
《発生事案:地下複合施設内爆発》
《場所:新東京第七地下街》
《状況:火災/崩落/閉じ込め多数》
《未確認情報:二次爆発の可能性》
《救助優先度:最優先》
美月の声が飛ぶ。
「全員、作戦室へ」
黒瀬は共有スペースへ戻った。
真神が壁から離れる。
獅堂が低く息を吐く。
灰原は小型ドローンの部品を掴んだ。
美月の表情が一瞬で変わる。
統括官の顔になった。
伊吹が天井を見上げて笑う。
「保育園の次は地下街か」
黒瀬は美月を見る。
「統括官」
美月が黒瀬を見る。
黒瀬は短く言った。
「任務説明を」
美月はうなずいた。
「作戦室へ」
廊下の向こうで、橘は一度だけ足を止めた。
その目だけが、黒瀬たちを追っている。
第6部隊は、まだ昨日の疲れも抜けていない。
信頼もない。
連携も粗い。
傷も、罪も、何一つ消えていない。
それでも、警報は鳴った。
誰かが、また助けを待っている。
黒瀬は歩き出した。
首元のNOXが、白く細く光る。
WRISTに、最後の表示が浮かんだ。
《第6部隊》
《出動準備》




