第5話 命令違反
遊戯室までの廊下は、短かった。
だが、黒瀬玲央には、その数メートルが異様に長く感じられた。
壁には、園児たちが描いた絵が貼られている。
太陽。
花。
家族。
丸い顔の動物。
不揃いな文字で書かれた、自分の名前。
その下を、死刑囚たちが武装して進んでいる。
悪い冗談のような光景だった。
先頭は獅堂鉄平。
大型防弾シールドを構え、廊下の幅をほとんど塞いでいる。
その後ろに黒瀬。
さらに灰原ナギ。
真神アキラは壁際を音もなく進んでいた。
通信越しに、伊吹透の声が入る。
『隊長、遊戯室の中、かなり荒れてる。怒鳴り声が増えた』
「人数は?」
『中に四人。起爆端末を持ってるのが一人。子どもの近くに二人。入口側に一人』
黒瀬はWRISTの映像を見る。
灰原のドローンが、遊戯室の隅から内部を映していた。
園児たちは、遊戯室の壁際に集められている。
職員たちは、その前に座らされていた。
犯人の一人が、銀色のケースの前にしゃがみ込んでいる。
その手には、黒い小型端末。
遠隔起爆は止めた。
だが、遊戯室の爆弾そのものはまだ生きている。
灰原が低く言った。
「本体は銀色のケース。床に固定されてる。近くで起爆できる」
「止められるか?」
黒瀬が聞く。
「見ないと無理」
「近づけるか?」
「誰かが前に出れば」
黒瀬は遊戯室の扉を見る。
遊戯室の中が、明らかにざわついていた。
さっき廊下で上がった「侵入者だ」という叫び声が、ここまで届いている。
犯人たちは、もう異変に気づいていた。
扉の向こうから、男の怒鳴り声が響いた。
「誰だ! どこから入った!」
子どもの泣き声が大きくなる。
その声に重なるように、別の犯人が叫んだ。
「もう始めろ! 配信しろ!」
伊吹の声が入る。
『隊長、もう言葉じゃ引っ張れない。向こう、話を聞く余裕がなくなってる』
「分かった」
黒瀬は短く答えた。
白羽美月の声が通信に割り込む。
『黒瀬、遊戯室への突入は待機してください』
黒瀬は足を止めた。
『爆発物本体が未処理です。園児との距離も近すぎます。今突入すれば、犯人が反射的に起爆する可能性があります』
「待てば?」
『状況を再評価します。灰原の映像をもとに――』
その時、遊戯室の中で犯人の一人が園児の腕を掴んだ。
小さな男の子だった。
泣きすぎて、声も出ていない。
職員が止めようと身を乗り出す。
銃口が向けられる。
職員は動けなくなった。
犯人は男の子を引きずるように、銀色のケースの近くへ連れていく。
起爆端末を持つ男が叫んだ。
「これで分かるだろ! 俺たちは本気だ!」
黒瀬の目が細くなる。
WRISTの画面に、赤い警告が走った。
《統括官命令:待機》
《突入行動:禁止》
美月の声が強くなる。
『黒瀬、待機です』
黒瀬は返事をしなかった。
獅堂が横目で黒瀬を見る。
「隊長」
黒瀬は遊戯室の扉を見たまま言った。
「獅堂、正面」
「ああ」
「灰原、俺の合図で爆弾を見る」
「分かった」
「真神、入口側の一人を無力化しろ」
「分かった」
美月の声が鋭くなる。
『黒瀬、命令違反です』
黒瀬は低く答えた。
「間に合わない」
首元のNOXが、赤く光った。
《警告》
《統括官命令違反》
《行動記録中》
黒瀬はそれでも前へ出た。
「行くぞ」
獅堂が遊戯室の扉を蹴り開けた。
大きな音が響く。
その瞬間、室内の全員がこちらを向いた。
犯人の銃口が動く。
獅堂がシールドを前に出した。
銃声。
一発。
二発。
三発。
弾丸がシールドに当たり、鈍い音を立てる。
園児たちが悲鳴を上げた。
「伏せろ!」
黒瀬の声が遊戯室に響く。
職員の一人が、とっさに子どもたちを抱え込んだ。
獅堂は下がらなかった。
シールドを構えたまま、遊戯室の中央へ進む。
「こっちを見るな!」
獅堂が怒鳴る。
その声に、子どもたちがびくりと肩を震わせる。
獅堂はすぐに声を落とした。
「床見てろ。耳ふさいでろ」
職員がすぐに反応した。
「みんな、耳をふさいで! 下を向いて!」
子どもたちが小さな手で耳を押さえる。
真神が動いた。
入口側にいた犯人が銃を構えるより早く、真神はその懐に入る。
手首を押さえ、肩をずらし、膝を落とす。
犯人の体が床に沈む。
通常拘束具が、手首を固定した。
音はほとんどなかった。
獅堂は子どもたちの前へ出た。
子どもの近くにいた二人の犯人が、同時に銃を向ける。
獅堂はシールドを斜めに構え、二人の視界を塞いだ。
一人が発砲する。
弾はシールドに弾かれ、天井へ逸れた。
もう一人が子どもへ手を伸ばす。
獅堂はシールドの縁で男の腕を押し返し、そのまま壁際へ押し込んだ。
真神が入口側の犯人を床に伏せたまま、空いた手で通常拘束具を投げる。
黒瀬はそれを受け取り、子どもに手を伸ばした男の手首へかけた。
もう一人は獅堂のシールドに押され、膝をつく。
獅堂はそのまま男を床へ倒し、足で銃を遠ざけた。
「動くな」
低い声だった。
男は動かなかった。
黒瀬は起爆端末を持つ男へ向かった。
男は男の子の腕を掴んだまま、手の中の端末を握りしめていた。
黒い小型端末。
画面には、赤い円形の表示が浮かんでいる。
「来るな!」
男が叫んだ。
「一歩でも近づいたら押す! 全部終わらせてやる!」
男の子が声にならない悲鳴を漏らす。
黒瀬は止まらなかった。
「その子を離せ」
「黙れ! 下がれ!」
男の親指が、端末の中央に触れた。
赤い円が、少しずつ閉じていく。
灰原の声が飛ぶ。
「起爆シーケンスに入った」
「止められるか?」
黒瀬が聞く。
「赤い円が閉じきったら起爆する」
十分ではない。
それでも、ゼロではない。
黒瀬は床を蹴った。
男が叫ぶ。
「来るなって言ってるだろ!」
赤い円が、さらに小さくなる。
黒瀬は手にしていた低出力スタンバトンを投げた。
狙ったのは男の体ではない。
起爆端末を握る手首。
バトンの先端が、男の手に当たる。
端末の入力がずれた。
画面に赤い警告が走る。
《入力解除》
《起爆中断》
男の指が、画面から外れた。
次の瞬間、黒瀬は男の腕を掴み、男の子を引き離した。
「獅堂!」
「任せろ!」
獅堂がシールドを滑り込ませる。
黒瀬は男の子を獅堂の背後へ押し込んだ。
獅堂は片腕で子どもを抱え込み、シールドの内側へ隠す。
「大丈夫だ。動くな」
子どもは泣くこともできず、獅堂の服を掴んだ。
起爆端末を落とした男が、床に手を伸ばす。
黒瀬がその手を踏み止めた。
男が叫ぶ。
「離せ!」
黒瀬は答えない。
男の肩を押さえ、床へ伏せる。
真神が横から通常拘束具をかけた。
「端末」
黒瀬が言う。
灰原がすでに動いていた。
銀色のケースへ駆け寄り、端末と本体の位置を見比べる。
「触らないで」
灰原の声がいつもより低い。
黒瀬は男を押さえたまま動きを止める。
「どこまで近づける?」
「私だけ」
灰原は床に膝をついた。
銀色のケースの側面には、小さな赤いランプが点滅している。
配線は床に固定され、近くには手動起爆用の受信機らしき小型装置が付いていた。
灰原は特殊解除ツールを当てる。
WRISTに、解析結果が共有された。
《手動起爆信号:待機状態》
《本体電源:作動中》
《接触リスク:高》
美月の声が通信に入る。
『灰原、状況は?』
「手動信号はまだ入ってない。でも本体は生きてる」
『解除できますか?』
「できるかじゃなくて、やる」
黒瀬は顔を上げた。
灰原の声には、わずかな震えもなかった。
灰原は工具を持ち替える。
細い先端が、ケース側面の小さな端子へ触れた。
「十秒、誰も動かないで」
獅堂がすぐに叫ぶ。
「全員、動くな!」
職員が子どもたちを抱えたまま固まる。
真神は入口側の犯人を押さえたまま、視線だけを周囲へ走らせる。
黒瀬も起爆端末を持っていた男の首元を床へ押さえたまま動かない。
獅堂はシールドを構えたまま、子どもの近くにいた二人の犯人を床へ押さえ込んでいる。
一秒。
二秒。
灰原の目だけが、赤いランプを見ていた。
三秒。
四秒。
誰も動けない。
五秒。
六秒。
灰原が小さく息を吸う。
七秒。
八秒。
赤いランプが、一瞬だけ強く光った。
獅堂の腕の中で、男の子が小さく震える。
九秒。
十秒。
ランプが消えた。
WRISTに表示が出る。
《手動起爆信号:遮断》
《本体電源:停止》
《爆発物反応:低下》
灰原は工具を離した。
「止まった」
その一言で、遊戯室の空気が変わった。
誰かが泣いた。
園児だったのか、職員だったのか分からない。
黒瀬は男から手を離し、室内を見渡した。
犯人は全員、床に伏せられていた。
入口側の男は真神が拘束している。
起爆端末を持っていた男は、黒瀬の足元。
子どもの近くにいた二人は、獅堂のシールドに押し戻され、通常拘束具で床に固定されていた。
全員、生きている。
黒瀬はようやく息を吐いた。
だが、任務はまだ終わっていない。
「獅堂」
「ああ」
「避難を始める」
獅堂はシールドを構えたまま、園児たちの前に膝をついた。
大きな体を少しでも低くするように。
「歩ける子は先生と一緒に歩け。怖かったら、俺の盾だけ見てろ」
泣いていた女の子が、職員の手を握りながら獅堂を見上げた。
「おじさんも、悪い人?」
獅堂は一瞬だけ固まった。
大きな手が、シールドの持ち手を握ったまま止まる。
「……そうだな」
女の子は涙で濡れた顔のまま、獅堂を見ていた。
獅堂は目を逸らす。
「怖かったら、見なくていい」
すると、女の子は小さく首を横に振った。
「でも、助けてくれたから」
獅堂は何も言えなかった。
女の子は、震える声で続けた。
「いい人だよ」
獅堂はしばらく黙っていた。
それから、シールドを握り直した。
「先生の手を離すな」
女の子は小さくうなずいた。
獅堂は、遊戯室の出口へ視線を向ける。
「外まで守る」
職員たちが園児を連れて立ち上がる。
真神は犯人たちを壁際へ寄せ、通常拘束具を確認する。
灰原は銀色のケースから目を離さない。
黒瀬は遊戯室の入口に立ち、廊下を確認した。
伊吹の声が通信に入る。
『隊長、外の警察が突入準備に入ってる。人質誘導ルートを空けるって』
「分かった」
『あと、保護者たちが限界。子どもが見えたら一気に崩れるかも』
「警察に抑えさせろ」
『言い方が怖いね』
「頼む」
『はいはい、任されました』
伊吹の通信が切れる。
黒瀬は獅堂にうなずく。
獅堂が先頭に立った。
大型シールドが、園児たちの前に出る。
その後ろを職員と園児たちが続く。
小さな足音が、廊下に響いた。
一歩。
また一歩。
誰も走らせない。
誰も振り返らせない。
東側非常口から外の光が見えた。
最初の園児が外へ出た瞬間、規制線の向こうから悲鳴のような声が上がった。
「出てきた!」
「子どもたちだ!」
警察官が保護者たちを抑える。
救急隊員が駆け寄る。
職員が泣きながら園児を引き渡す。
一人。
二人。
三人。
黒瀬は数を数えた。
二十六人。
最後の一人が外に出た時、獅堂はようやくシールドを下ろした。
その腕の中にいた男の子が、救急隊員に引き渡される。
男の子は獅堂の服を掴んだまま、離れようとしなかった。
獅堂は困ったように、少しだけ眉を寄せる。
「もう大丈夫だ」
男の子は泣きながら首を横に振る。
獅堂は大きな手で、男の子の頭にそっと触れた。
「母ちゃんが待ってる」
その言葉で、男の子はようやく救急隊員の方へ向いた。
黒瀬はそれを横目で見ていた。
だが、すぐにWRISTが震えた。
《命令逸脱ログ:確認》
《統括官命令:待機》
《隊長行動:突入》
《違反判定:審査待機》
首元のNOXに、赤い光が細く走る。
黒瀬は表示を見た。
来ると思っていた。
むしろ、来ない方がおかしい。
美月の通信が入る。
声は冷静だった。
だが、いつもより少し硬い。
『黒瀬玲央』
「何だ」
『あなたは、私の待機命令を無視しました』
「ああ」
『命令違反です』
「分かっている」
沈黙。
外では、園児たちの泣き声と保護者の声が混ざっていた。
救急隊員が職員を支え、警察官が犯人たちを運び出している。
美月は言った。
『なぜ待たなかったんですか』
黒瀬は遊戯室の方を見た。
銀色のケース。
赤いランプの消えた爆発物。
床に落ちた小さな帽子。
「子どもが爆弾の前に出された」
『それは分かっています』
「なら、答えも分かるだろ」
美月は何も言わなかった。
その時、別の通信が割り込んだ。
特務公安庁中央管制の声だった。
『第6部隊、隊長黒瀬玲央に命令逸脱を確認。統括官、処分審査へ移行してください』
黒瀬は目を伏せなかった。
首元のNOXが、赤く点滅する。
伊吹の軽い声も、今は入らない。
灰原も何も言わない。
真神も黙っている。
獅堂だけが、黒瀬の方を見ていた。
美月の声が返る。
『処分審査には移行しません』
中央管制が即座に反応した。
『統括官、命令違反です』
『記録してください』
美月の声は震えていなかった。
『黒瀬玲央は待機命令に違反しました。ですが、その行動により、園児二十六名、職員六名の生存が確保されました』
『規定では――』
『第6部隊統括官として判断します』
美月は言った。
『処分申請は行いません』
数秒の沈黙。
首元のNOXの赤い光が、ゆっくりと消えていく。
WRISTの表示が切り替わった。
《処分審査:保留》
《統括官判断:処分申請なし》
《任務結果:人質三十二名生存》
《犯人八名確保》
《爆発物三箇所:無力化》
続いて、新しい表示が出る。
《任務成功》
《高危険救助任務》
《残刑日数加算:+3》
黒瀬はその数字を見た。
三日。
人質三十二名の命と引き換えに、自分の命が三日延びた。
悪趣味な制度だ。
そう思った。
だが、外では子どもが親に抱きしめられて泣いている。
職員が座り込み、救急隊員に肩を支えられている。
獅堂はそれを見ないように、シールドの傷を確認していた。
灰原は爆発物処理班に短く説明している。
真神は拘束された犯人たちを黙って見ている。
伊吹は規制線の向こうで、警察官に何かを説明しながら軽く手を振っていた。
黒瀬はWRISTを閉じた。
美月の声が、もう一度入る。
『黒瀬』
「何だ」
『今回だけです』
黒瀬は何も言わなかった。
『次に同じ判断をすれば、私は処分申請を出します』
「分かった」
『分かっているようには聞こえません』
黒瀬は園舎の方を見た。
「それでも、必要なら動く」
通信の向こうで、美月が息を呑む気配がした。
『……あなたを信用したわけではありません』
「それでいい」
『任務結果を優先しただけです』
「十分だ」
黒瀬は園舎を振り返った。
ひばりの森こども園。
数十分前まで、そこは地獄だった。
今は、泣き声が外へ戻っている。
生きている者の声として。
黒瀬は首元のNOXに触れた。
黒い輪は、変わらずそこにあった。
命令違反を記録し、命を管理し、必要なら処分するための首輪。
それでも今日は。
その首輪をつけた死刑囚たちが、子どもを救った。
黒瀬は短く言った。
「帰るぞ」
第6部隊の初任務は、終わった。




