第41話 病院屋上の惨劇
エレベーターで病院の最上階へ。そこからさらに階段を駆け上がり、屋上へと続く鉄の扉を押し開ける。
途端に、視界いっぱいの青空が飛び込んできた。
冬の風が吹き抜け、冷たい空気が頬を切る。広々とした屋上――無人に見えたが、フェンスの奥に二つの人影が立っているのを見つけ、息が止まった。
制服。――間違いない。
胸の奥がざわつく。
僕はためらうことなく、その影に向かって駆け出した。
「花園さん!」
声を張り上げる。
近づくにつれ、その姿が鮮明になる。花園花梨。そして、その肩を掴まれている東野静。
振り返った花園さんの表情は、雷に打たれたように凍りついていた。
「な、夏目君……!」
驚きと狼狽――まるで、なぜここにいると叫びたいかのような顔。だが僕には、その驚きの理由が痛いほど分かっていた。
僕が未来を視なければ、ここに辿り着くことはなかったのだから。
無意識に視線が彼女の手元へと向かう。
銀色の光が揺れた。ナイフ。
――あの時、映像で見たものと同じ。
現実に突きつけられた惨劇の凶器に、背筋が震える。喉がひりつき、呼吸が浅くなる。
僕の視線に気付いたのか、花園さんは慌ててナイフを隠そうとした。だが、隠しきれない。肩が震え、顔は苦痛に歪んでいる。
そこへ、追いついた桐生と神楽坂さんが背後に並ぶ。
「駿太郎……まさか、あんたが……」
花園さんは呆然と、そして怯えたような目をしていた。
桐生の視線がナイフを捕らえ、彼の表情が蒼白に変わる。
「花梨……お前、なにをするつもりだったんだ」
その問いは静かな怒りを孕んでいた。だが――
「来ないで!」
花園さんは叫び、ナイフをこちらに突き出した。
震える腕で、それでも僕たちを威嚇するように刃を光らせる。
後ずさりながら、東野さんの肩を強引に掴んだ。
東野さんの体がびくりと跳ねる。だが声は出せない。大きく見開かれた瞳は虚ろで、恐怖に支配されていた。
無理もない。――僕たちが駆けつける直前まで、この子は刃を突きつけられていたのだ。心が壊れかけても仕方がない。
冬の風がフェンスを鳴らす音。ナイフの刃先に反射する陽光。そして、緊張に押し潰されそうな沈黙。
惨劇は、まさにここで始まろうとしていた。
惨劇を阻止しなければ――。でも、本当に、僕にそんなことができるのか。自問自答が胸を締めつける。
花園さんは明らかに癇癪を起こしており、手に握られたナイフは震えている。
下手に刺激すれば、その刃が本当に振り下ろされるかもしれない。
「どうするの?」
神楽坂さんが耳元で囁く。吐息が冷たく触れるほどの距離。
「……少し、時間を稼ぎたい」
同じく囁き返す。
神楽坂さんは「えっ、倒しちゃダメなの?」と眉をひそめた。
――倒す?
さすがは格闘に自信のある彼女だ。だが、相手はナイフを持っている。
刺される恐怖を感じていないのだろうか。いや、たとえ感じていても動じないのが神楽坂さんなのかもしれない。
「策はあるのか?」
横で低く響いた桐生の声。
正直、自信は半々だ。だが、僕は桐生をまっすぐ見返し、力強く頷いた。
普段の桐生は、自信に満ち溢れた顔をしている。
だが今の彼は――親友である花園さんがナイフを持っているという現実に直面し、明らかに動揺していた。
それでも、勇気を振り絞ったように声を出す。
「……わかった」
桐生は一歩、花園さんへ歩み寄った。
「駿太郎もよ! 近付かないで!」
花園さんが悲鳴のように叫び、ナイフの刃を突きつける。
その鋭さに桐生は足を止め、震える声で名を呼んだ。
「……花梨」
「てか、なんで駿太郎がここにいるのよ! この裏切り者!」
花園さんの叫びは、刃よりも鋭く響いた。
「……あんただけは、私の味方でいてくれると思ったのに! 裏切り者! バカ! タコ!」
悲痛な罵声。
最後の二つは、もはや意味を失った子供じみた悪口だった。きっとそれほどに、花園さんの心は混乱しているのだろう。
冷たい風が三人の間を吹き抜け、ナイフの刃先が揺らめく。
緊張は、今にも弾けそうだった。
「花梨……ごめん。こうなる前に、俺が止めるべきだった」
花園さんの肩を見つめながら、桐生は低く、しかしはっきりと声を出した。
その言葉を聞いた瞬間、花園さんの目が大きく揺れる。
「……やっぱり。写真部に告げ口したの……駿太郎だったのね」
悟ったような声。唇が震えている。桐生はわずかに目を伏せ、だがすぐに顔を上げて応える。
「ああ、そうだ。俺が写真部に偽名で手紙を出した」
「なんでよ! 駿太郎は……私の味方じゃなかったの?」
その叫びには、怒りと同じくらい、深い悲しみが滲んでいた。
桐生は胸を叩くようにして声を張る。
「味方だからだ! だから止めたかったんだよ、花梨!」
感情を露わにする桐生の言葉に、花園さんは一瞬だけ怯んだ。だがすぐに東野さんの方へとナイフを突きつけ、肩をさらに強く掴む。
「なんで止めるのよ! わかってるでしょ? こいつが葵の足を壊したのよ! 足だけじゃない、心までも! 葵は今も学校に行けず、この病院に閉じ込められてる……それなのに、こいつはのうのうとサッカー部で走ってるのよ!」
「だけど……あれは事故だったはずだ」
桐生の声には迷いが混じっていた。それでも必死に花園さんを正気へと引き戻そうとする。
「違う! 事故じゃない!」
花園さんの瞳は涙で濡れ、震える声が屋上に響く。
「こいつはずっと……葵がレギュラーでいることを妬んでた。だから、故意に葵の足を狙ったのよ……そうでしょ!」
東野さんの肩を掴む手が震える。全員の視線が一点に集まる。
東野さんは最初、顔を伏せていた。
だが、花園さんの問いに抗うように、ゆっくりと顔を上げ――その瞳を見せた。
その顔には、恐怖の影は一切なかった。
むしろ――覚悟を秘めた、強い意志の光が宿っていた。
「……はい。故意です」
東野さんの口から放たれた言葉は、最悪の答えだった。
途端、花園さんのナイフが振り下ろされる。
「っ――!」
思わず体が前に出る。だが、刃は東野さんの胸元すぐ手前で止まった。
ギリギリの距離で、鋭い光を放つ刃先が静止する。
なぜ花園さんの手が止まったのかはわからない。
ただ、ナイフを握るその手は、ひどく震えていた。
桐生も前に踏み出し、手を伸ばしかけていたが……止まったナイフを見て、同じように動きを凍らせる。
屋上に張り詰める沈黙。
その中心で――東野さんだけが、まるで刃を恐れていないかのように、凛とした瞳を向けていた。
胸元に迫る冷たい刃など存在しないかのように。
ただ、真っ直ぐに。花園さんを見据えていた。
「花園先輩の言う通りです。……私は中学時代、葵が憎かった」
静かに、けれど震えのない声で東野さんは語り始めた。
そのあまりに素直な言葉に、ナイフを握る花園さんの方が目を見開き、呆然と立ち尽くす。
「いくら頑張っても、葵には届かなかった。どれだけ練習しても、必死に食らいついても……結局、私はずっとレギュラーになれませんでした」
東野さんの声は淡々としているのに、そこに滲む悔しさは鮮烈だった。
花園さんの方が、逆に体を震わせ、目を泳がせている。
「三年生最後の引退試合。あの日、私と葵は別々のチームでした。私が1点、葵が2点を決めていて……試合終了間際、葵がさらに得点を狙ってドリブルで駆け上がったのを見て。……私、頭が真っ白になったんです」
声がわずかにかすれる。
それでも東野さんは目を逸らさず、言葉を続ける。
「気がついたら、ボールじゃなく……葵の足を狙っていました。スライディングの瞬間、私の心ははっきりと葵に向いていました」
その告白は、誰に言い訳するでもない。ただ、自分の罪を認めるための言葉だった。
「だから、あれは事故なんかじゃない。……私が、葵の足を壊しました」
最後の言葉は、涙を堪えながらもはっきりと。
その一言に、屋上の空気が凍りついた。
「……そう。やっぱり、そうだったのね」
花園さんは笑った。
納得したように――けれど、その微笑みが痛ましいほど壊れそうで。
桐生が思わず手を伸ばしかけた、その瞬間だった。
「――お姉ちゃん!」
鋭い声が背後から響く。
全員が一斉に振り返る。
そこに立っていたのは、一人の少女。の隣には七海さんと姫野さんの姿。
――花園葵が、そこにいた。




