第38話 手を伸ばす勇気
「なにすんだよ、凪!」
「ああ……痛い。勘弁してよ。僕、こういうの慣れてないんだから」
自分の拳を見下ろした後、視線を桐生に戻す。
だが、桐生の顔にはまだ余裕が浮かんでいた。――物足りなさそうな顔。
なら、もう一発だ。
今度は腰をしっかり入れて拳を振り抜いた。
乾いた音が響き、桐生の体は弾かれるように後ろへ。尻もちをつき、そのまま床に倒れ込む。
さらに馬乗りになって殴りつけてやろうとした、その瞬間――
「夏目君!」
背後から鋭い声が飛んだ。振り返ると、神楽坂さんが険しい表情で立っていた。
「その辺にしなさい!」
怒りを帯びた眼差しのまま、彼女は僕の腕を掴む。
「なにがあったかは知らない。でも――桐生君は無実よ。だから、もう殴るのはやめなさい」
一切の迷いを感じさせない断言。
僕は視線を逸らし、わざと淡々と返した。
「……知ってるよ、そんなこと」
その瞬間、神楽坂さんは目を瞬かせて言葉を失った。
けれど、もっと驚いていたのは桐生の方だった。
「な、なんだよ……それ」
尻もちをついたまま、頬を押さえ、目を白黒させている。
――ああ、もうカミングアウトするしかないか。
欲求不満そうな桐生の顔も、今はだいぶスッキリしたようだし。
「桐生。君がさっき言ったこと――全部嘘だ。半分は花園さんのため、そして半分は……お前自身のため、だろ?」
僕は静かにそう言い放ち、神楽坂さんへと視線を移した。
「神楽坂さん。前に言ったよね。――想像力のある人間が、人を陥れようなんて無理だって。この言葉、僕よりも桐生にこそ当てはまるんだよ」
僕は桐生を見据え、静かに続ける。
「桐生。君は花園さんを脅したんじゃない。……助けたかったんだろ」
「な、なにを言って――」
「サッカー部を助けてほしいって、写真部に手紙を出したのは……桐生、君だ」
突拍子もないように聞こえる言葉。だが、桐生は露骨に視線を逸らした。その反応こそが答えだった。
「桐生君が……? でも、どうして……」
神楽坂さんは信じられないといった様子で桐生を見つめている。
僕は淡々と続けた。
「違和感だったんだ。――僕たち写真部が女子サッカー部の試合を撮影した日のこと。桐生、君はこう言ったよね。“女子サッカー部だけじゃなくて、男子サッカー部の撮影も頼むぜ”って」
神楽坂さんが小さく「あっ」と声を漏らす。
「でも、あの時……僕はまだ“女子サッカー部の撮影に来た”なんて一言も言ってなかった。桐生は“僕らが女子サッカー部を狙って来た”ってことを知っていた。だから、無意識に口を滑らせたんだ」
桐生は口を挟まず、ただ黙って俯いている。拳を握りしめ、肩がわずかに震えていた。
「桐生はきっと女子サッカー部のいじめに気づいていた。だけど、自分の力じゃ止められない。だから……藁にもすがる思いで、写真部に手紙を出した」
「……それは違う」
ずっと黙っていた桐生が、ようやく口を開いた。
顔を上げた彼は、さっきまでの悪役じみた笑みを完全に消し去り、苦悩を滲ませたいつもの顔に戻っていた。
「写真部……いや、凪。お前なら解決してくれると思ったんだ」
「えっ……?」
思わず息を呑む僕を、桐生はまっすぐ見つめる。
その瞳には、罪悪感と後悔が色濃く宿っていた。
「昔……凪が楓馬を必死で助けようとしていたのを、俺は見てた。だけど、俺は何もできなかった。ただ……怖くて、目を逸らして、見ていることしかできなかった。楓馬はサッカー部の仲間だったのに……俺は結局、何もしなかった」
唇を強く噛み、桐生の声は震えていた。
その肩は小刻みに揺れていて――彼が、どれほど長い時間、自分の無力さに苛まれてきたのかが痛いほど伝わってきた。
ああ……やっぱり。
桐生のやつ、ずっと後悔していたんだな。
「……桐生、ごめん。本当は、ずっと前から気づいてた」
僕は静かに言いながら、手を差し伸べた。
桐生は驚くこともなく、その手を見つめ、そして僕の目を真っ直ぐに見返した。
「桐生はいつも僕に声をかけてくれたよな。毎日のように、“サッカー部に戻ってこい”ってしつこく、何度も。……ごめん。本当はわかってたんだ」
僕は静かに言葉を紡ぐ。
「桐生がずっと、楓馬の件に責任を感じてたことも。知ってた。でも、僕は気づかないふりをしてた。……だって、僕自身、そのことを思い出したくなかったから」
だから――もういいんだ。
桐生、君は悪くない。あれはもう終わったことだから。僕のことは放っておいていいんだ。
「――じゃあ、次は助けなさい」
突然、話に割り込むように神楽坂さんの声が響いた。
僕の手を握ろうとしていた桐生の手は、宙で止まる。
「花園さんを助けたいんでしょ? だったら、不格好でも足掻きなさい。救えるかどうかなんて、どうせ結果論。大事なのは――今、手を伸ばすかどうか、それだけよ」
その声音は、叱るようでいて優しい。微笑みを浮かべながらも、確かに桐生の胸に火を灯す強さがあった。
桐生は息を大きく吸い込み、「……おう!」と力強く頷く。
その顔は、もう迷いのない、いつもの凛々しい桐生の顔だった。
次の瞬間、桐生は差し出していた僕の手をしっかりと握り返す。
その温もりが伝わってきて――胸の奥に押し込めていた、長い間のわだかまりが少しずつ溶けていく気がした。
「桐生。……花園さんが東野さんをいじめた本当の理由、教えてくれるよな」
僕は桐生の肩に手を置いて問いかける。
桐生は一度だけ目を逸らした。けれどすぐに、覚悟を決めた表情でこちらを見据える。
「……わかった」
そして、重い口を――ようやく開いてくれた。




