第33話 後悔より、選んだ勇気
実は、楓馬との出来事を詳しく知っているのは舞だけだった。
楓馬が僕に背を向け、立ち去ったあの日。僕は家に帰り、自室にこもってただ落ち込んでいた。
そんな時、そっと声をかけてきたのが舞だった。
舞は鋭い。いや、鋭くなくても、あの日の僕は誰の目にもわかるほど落ち込んでいたに違いない。
「お兄ちゃん、どうしたの?」と問いかけてくる舞に、僕は一度「なんでもない」と突き放そうとした。
けれど、舞は引かなかった。「なんでもないはずがない」と言って、僕の腕をぎゅっと掴んできた。
心が弱っていた僕は、その真っ直ぐな瞳に抗えず、気づけば無意識に言葉をこぼしていた。
あのとき舞は、最後まで黙って僕の話を聞いてくれた。
普段は生意気で口うるさい妹なのに、その時だけは不思議なくらい優しくて――僕がすべてを話し終えた後、「お兄ちゃん、辛かったね」と小さく呟いてくれた。
あの言葉に、どれほど救われたことか。
だから僕は、あの日、舞にだけ打ち明けたことを後悔していない。
もしあの時も一人で抱え込んでいたら、きっともっと酷い状況に押し潰されていたはずだ。
悩みというのは、一人で抱え込むものじゃない――あの日、妹からそれを教えられた気がする。
……もっとも、だからといって七海さんに話していい理由にはならないけど。
「凪君は、間違ってないよ」
七海さんが真顔で僕を見つめる。真剣な視線に、言葉が喉でつかえて思わず目をそらした。
「凪君は“助けたかった”んでしょ。友達を。――それって、間違いじゃないよ」
まっすぐな瞳。吸い込まれるようなその強さは、あの日、舞に話を聞いてもらったときと同じ感覚を呼び起こす。
「でも、結果として僕は楓馬を追い込んでしまった」
普段なら誤魔化すところなのに、気づけば後悔が零れていた。言ってしまってから、しまったと思ったが、もう遅い。
「じゃあ、放っておけばよかったの?」
「……そうだね。放っておいても、いじめは起きたと思う。どっちにしろ、楓馬は救えなかった」
「それは結果論でしょ。私は経過が大事だと思うの」
七海さんは膝の上で握った両拳を、ぎゅっと強めた。声は震えていないのに、熱だけがまっすぐ伝わってくる。
「もし何もしなかったら――きっと、今よりもっと後悔してる。『知ってたのに動かなかった自分』って、一生許せないよ。私は、そういう後悔のほうがこわい」
何もしなかったら? そう言われて、僕は一瞬考え込む。
事前に楓馬に何かが起こると知っていながら、目をそらしていたら――同じ結末だったとして、僕は自分をどう思っただろう。
思考が深みに落ちていく。その渦を断ち切るように、七海さんが言葉を差し込んだ。
「ねぇ、凪君。正しいかどうかって、いつも結果だけで決まるわけじゃないよ。あの日、凪君は『助けたい』って気持ちで動いた。その向きは、絶対に間違ってない。私は――その凪君を否定したくない」
「凪君。静ちゃんを助けてくれてありがとう。花梨ちゃんが酷いことをしていたのは事実なんだよね。もしそれが真実なら、私は受け入れるよ」
七海さんは唇を噛みながらも、真っ直ぐに言葉を紡ぐ。
「それでもね……私は花梨ちゃんも助けたいと思うの。どうしてあんなことをしたのか、本人の口から聞きたい。甘い考えかもしれない。でも私は逃げたくない。『誰かを救うには犠牲がつきもの』なんて、思いたくないから。たとえ可能性が低くても――私はみんなが幸せになる、ハッピーエンドを目指したいの」
七海さんの瞳は、決して強靭ではなかった。体は小刻みに震えている。
怖いのだ。それは一目でわかる。けれど、その恐怖を抱えながらも彼女を突き動かしているのは、心の奥にある揺るぎない信念だった。
その姿に、僕は思わず見入っていた。
ずっと七海さんを「強い人間」だと思っていた。だが違った。彼女は怖がっている。ただ――恐れながらも、光を消さず前を向こうとしている。その瞳は弱々しいのに、それでも確かに輝いていた。
「……やめろ」
気づけば、低く、ドスの効いた声が喉から漏れていた。
冷めた皮肉じゃない。七海楓という人間を壊したくない一心で、感情のままに吐き捨てていた。
「そんなことをすれば――絶望するぞ」
言葉が熱を帯びる。胸の奥に押し込めていた苛立ちと恐怖が、感情と一緒に噴き出した。
「無駄な正義感なんか、捨ててしまえ。本当は怖いんだろ。逃げたいんだろ。だったら逃げたっていい! みすみす傷つく必要なんて、どこにもないんだ! そんなことをしても――得も、見返りも、何もないんだから!」
冷酷な言葉のはずなのに、そこにあったのは怒りと哀願が混じった叫びだった。
「本当に――全部を救えると思ってるのか? そんなの無理だ。世界は汚れてる。七海さん一人が足掻いたところで、結果なんてついてこない」
頑張れば報われる。そんな言葉は、人を頑張らせるために作られた方便だ。
大体、頑張ってどうする? 仮に七海さんが花梨を助けられたとして――その後、彼女が一生、七海さんに忠誠を誓うわけでもない。そんな約束、あり得ないし、あったところで大した得にもならない。
「……そうだね。凪人君の言う通りだよ」
七海さんは静かに頷くと、椅子から立ち上がった。
ゆっくりと僕に歩み寄り、至近距離で立ち止まる。手を伸ばせば触れられる距離。
彼女はそのまま手を伸ばし、僕の頬にそっと触れた。
「凪人君。私ね、不安だし……怖いよ。花梨ちゃんを助けられる自信なんて、正直ない。だから、これはただの自己満足かもしれない」
「……何故、そこまでして」
問いかけると、七海さんはかすかに微笑んだ。
「私はね、前に“なにもしなかった”ことがあるの。逃げる道を選んだの。……そのせいで、ずっと後悔してる。もう二度と、あんな想いはしたくない。だから私は泥臭くても足掻くよ。間違ってても、無謀でも、逃げない」
その瞳には揺れがあった。けれど、それ以上に揺るぎない光が宿っていた。
――テコでも動かない。七海さんが、頑固モードに入った時は、もう何を言っても聞かない。
「……わかった。好きにするといいよ」
僕は肩を落とし、それ以上なにも言わなかった。彼女の行動を止める理由は僕にはない。同時に、協力する理由もない。
悪いけど――七海さんのヒーローごっこに、これ以上付き合うつもりはなかった。
そんな僕の心境など知らず、七海さんはぱっと顔を綻ばせて「うん!」と嬉しそうに笑った。
その無邪気な笑顔は、きっといつか灰色に変わる。
そんな、したくもない予感を抱えながら――僕はただ、目を背けることしかできなかった。




