第29話 残響と予兆
残されたのは、僕と姫野さんの二人きり。
姫野さんは先ほどのやり取りを気にしているのか、気まずそうに視線を落とし、なかなか目を合わせてくれなかった。
「あのさ。姫野さん」
「ごめん……凪人君。変なこと、紅葉ちゃんに告げ口しちゃって」
僕が口を開いた途端、怒られると思ったのか、姫野さんは小さな肩をすくめ、深々と頭を下げてきた。
「いや、別に怒ってはいないよ。でも、姫野さん――勘違いしてるよ。僕は七海さんとは正反対な人間だ。七海さんみたいな正義感なんて、僕にはない」
「……それは違うよ」
間髪入れず、姫野さんは僕の言葉を遮った。
その声は小さいけれど、驚くほど強い響きを持っていた。自分でも無意識だったのか、僕の顔を見て、はっとしたように口を押さえる。
「……あのね、凪人君。私、凪人君が過去にどんな経験をしたかはわからない。だから無責任なことは言えないけど……でも、多分、凪人君、本当はそういう人じゃないと思う」
緊張で指先をぎゅっと握りしめながら、姫野さんは早口で言葉を紡ぐ。
本来なら僕が苛立って不機嫌になる場面だ。けれど――姫野さんが必死に、怯えながらも勇気を振り絞ってぶつかってくる姿を見てしまうと、不思議と怒る気になれない。むしろ胸の奥に罪悪感が広がっていく。
「……そういう人って?」
「本当はね、誰よりも正義感が強くて。困ってる人を見たら放っておけない人。――楓ちゃんと同じ信念を持ってる人だと、私は思ってる」
その眼差しは真剣だった。僕を真っ直ぐ見つめて、弱々しいのに強い光を宿していた。
「買い被りすぎだよ」
そう言って僕は苦笑を浮かべた。けれど、姫野さんは顔を上げかけて、僕と視線が重なるとすぐに俯いてしまう。
「……うん」
納得していない声色。それでも、無理やり自分を抑え込むように小さく頷いていた。
そう――買い被りすぎだ。
確かに僕は、過去に楓馬から拒絶された。その出来事を境に、人と距離を置くようになった。
だけど、それを“絶望”と一括りにしたことはない。
あれは僕にとっての教訓だった。
この世界は、正義感という旗を振りかざすだけじゃ生きていけない。
信念を突き通せば、自分の首を絞めるだけだ。
――だから僕は、あの出来事をむしろ感謝している。
もし楓馬の件がなければ、僕はいまだに七海さんと同じ方向を見て、同じ夢を追いかけていたかもしれない。
僕は七海さんとは違う。
……そう自分に言い聞かせながらも、心の奥に小さな痛みが残る。
そのときだった。
ポケットの中から、唐突に着信音が鳴り響いた。いつもはバイブにしているのに――どうやら切り忘れていたらしい。
一瞬、無視しようかと思ったが、姫野さんが「私のことは気にしないで、どうぞ」というような顔をしてくるので、渋々スマホを確認する。
差出人は――舞。
件名を見た瞬間、背筋が凍る。
……完全に忘れていた。やばい。これは本当にまずい。
「凪人君……なにかあったの?」
心配そうに覗き込んでくる姫野さん。
その瞳は曇りがなく、真っ直ぐで。僕は吸い込まれるように見つめ返してしまった。
気付けば、自然と体が近付いていた。顔が近すぎて、姫野さんは真っ赤になり、慌てふためいて「えっ……な、なに?」と目を白黒させている。
普段なら「ごめん」と言って引くところだ。だが今はそれどころじゃない。
一刻の猶予もないのだから。
「姫野さん……一生のお願いがあるんだ」
――このあと、僕は必死に彼女へ頼み込むことになる。
それこそ土下座するぐらいの勢いで。
……ああ、情けないな。
必死すぎる姿を見られて、後で笑われるのは間違いない。
それでも、この瞬間だけは――背に腹は代えられなかった。
第三章 終




