第31話:風の通り道と彼らの残した道
乾いた赤い土埃が、ロケバスの窓を容赦なく叩きつけていた。
一九八〇年代前半。アメリカ・ハリウッドから遠く離れたオーストラリアの荒野。
見渡す限りの赤茶けた大地を一本のハイウェイが貫き、その道を数台の撮影用車両が連なって走っている。
「……暑いな。エアコンがまるで効いちゃいない」
後部座席で分厚い葉巻を燻らせながら、大柄な黒人男性——ボブがぼやいた。
元海兵隊員であり、アメリカ横断非合法レース『キャノンボール』を生き抜いた彼は現在、ハリウッドで売り出し中の若手女優たちの専属ボディガード兼アドバイザーとして雇われている。
「文句言わないの、ボブ。これも大事なロケなんだから」
前の座席から振り返ったのは、ブロンドの髪をポニーテールにした快活な少女、パットだった。彼女は今作で牧場主の娘役という重要なポジションを射止めている。
その隣には、探偵の恋人役を演じるレベッカが台本を熱心に読み込んでいた。かつて悪徳プロデューサーの奴隷契約に縛られていた彼女の顔に、もうあの頃の陰りはない。
「それにしても、ボスも思い切ったわよね。オーストラリアのど真ん中でアクション映画なんて」
レベッカの視線の先、助手席にはこの映画のプロデューサーの背中があった。
かつてハリウッドで若手女優を食い物にしていた彼は、ある夜、奇妙な東洋人の男にプロレス技で完膚なきまでに叩きのめされ、絶対的な恐怖という名の『呪い』を魂に刻まれた。
以来、憑き物が落ちたように人が変わり、真摯に映画作りに向き合うようになったのだ。
「そろそろ休憩にしよう。あそこにガソリンスタンドとドライブインがある」
プロデューサーの指示で、ロケ隊の車列は荒野にポツンと建つ古びた店に滑り込んだ。
むせ返るような熱気の中、冷たいコーラを求めて店に入った一行は、店主であるアボリジニの老人——サミュエルと出会った。
無骨だがどこか温かみのあるサミュエルは、ハリウッドから来たという彼らを珍しそうに、だが友好的に迎え入れた。
冷えた瓶コーラを喉に流し込んでいたボブの動きが、ふと止まった。
レジの奥の壁。色褪せたポスターや観光客の残したサインに紛れて、一枚の写真が飾られていたからだ。
「……おいおい、嘘だろ」
ボブの呟きに、パットとレベッカも振り返る。
写真に写っていたのは、サミュエルと共に笑顔を見せる、ふてぶてしいツラをした東洋人の男と、異常なまでに美しいプラチナブロンドの少女。
「太さんと、ガーベラさん……!」
パットが声を上げ、レベッカも信じられないといった顔で口元を押さえた。
恩人であり、自分たちの人生を極彩色に変えて嵐のように去っていった二人。こんな世界の果てのような荒野の店で、彼らの足跡に出会うとは夢にも思わなかった。
「おや、あんたたち、あの夫婦の知り合いかい?」
サミュエルが目を丸くして尋ねてくる。
「ええ……私たちの、大切なボスたちよ。彼らはここへ?」
「ああ。少し前にフラリとやってきてね。妻を助けてもらった。命の恩人さ。……彼らは『ウルル』の麓へ向かっていったよ」
ウルル。
聞き慣れない単語に、プロデューサーが眉をひそめる。
「ウルル? エアーズロックのことですか?」
「白人たちはそう呼ぶがね。俺たちにとっては、昔からの大切な聖地だ。大いなる、ウルルさ」
サミュエルの静かな、しかし深い敬意の込められた言葉に、プロデューサーは雷に打たれたように立ち尽くした。
今回の映画の脚本は、典型的なB級アクションだった。
粗暴なアボリジニの男が白人の牧場主を殺して逃亡し、エアーズロックの頂上で追い詰めた探偵と派手な銃撃戦を繰り広げ、最後は犯人が岩の上から転落死して終わる。
当時のオーストラリアの映画界では、有色人種は知的な職業には就けず、野蛮な悪役として描かれるのが当たり前だった。
だが、プロデューサーの脳裏に、かつて自分をボコボコにしたあの東洋人の男の顔がよぎる。
理不尽な暴力を嫌悪し、権力に胡坐をかく者を徹底的に叩き潰した、あの男。
その男が、敬意を払った場所。それが『ウルル』なのだ。
「……書き換えるぞ」
プロデューサーは呟き、慌てて脚本家を呼び寄せた。
「あの岩の上でドンパチなんかさせない。あれは聖地だ。単なる観光地の岩山じゃない」
「な、何を言ってるんですか急に! 明日からあの岩の周りでクライマックスの撮影ですよ!?」
「半日で書き直せ! 犯人の背景を変えるんだ。ただの野蛮な強盗じゃない、彼には彼なりの、どうしようもない理由があったことにしろ!」
ハリウッドの悪徳プロデューサーから、真の映画人へと生まれ変わった男の執念だった。
ロケ隊が足止めを食らう中、クーラーの壊れた安モーテルの部屋で、プロデューサーと脚本家は汗だくになりながらタイプライターを叩き続けた。
そして翌日。
新しい台本が配られ、オーストラリアの乾いた風の中でカメラが回った。
書き換えられたストーリーは、こうだ。
犯人であるアボリジニの男は、白人の牧場主の下で長年真面目に働いていた。
だが彼は見てしまったのだ。牧場主が新しい自家用飛行機を買うために用意した、莫大な現金の束を。
彼には夢があった。いや、悲願があった。
『これだけあれば、聖地の周りの土地を買い戻せるかもしれない』——白人たちに奪われ、観光地として踏みにじられている自分たちの魂の場所を。
魔が差した。
金を盗んで逃げる途中、見つかってしまい、揉み合いの末に牧場主を突き飛ばした。
頭から血を流して動かなくなった主を見て、彼は人を殺してしまったと思い込み、逃亡する。
だが、牧場主は死んでいなかった。
命を取り留めた牧場主は、警察ではなく私立探偵に男の捜索を依頼する。
『今まで真面目に働いてきたあいつが、絶望して死んでしまうんじゃないか』——それは、長年共に働いてきた男への、不器用な情だった。
一方、逃亡する男は、奪った金で生まれて初めて「一等車の切符」を買い、汽車に乗る。
最初で最後の贅沢。窓の外に流れる荒野を見つめながら、彼は最後に聖地を見て死のうと決意し、ウルルへと向かっていた。
探偵は、男の足跡から「向かった先はウルルだ」とアタリをつけ、車を飛ばす。
そしてクライマックス。
圧倒的な質量と神秘的な赤色を放つ巨大な一枚岩、ウルルの麓。
「……カット! 次、ラストシーンいくぞ!」
メガホンを持った監督の声が響く。
カメラのフレームの中、乾いた赤い土の上に、アボリジニの俳優が演じる犯人の男が膝をついていた。
その後ろから、砂埃を上げて探偵の車が追いつく。
間に合ったと胸を撫で下ろして車を降りた探偵(白人の渋い俳優)は、そこで初めて、眼前にそびえ立つ『ウルル』の真の姿を見た。
ただの巨大な岩ではない。そこには数万年の時間が作り上げた、神聖な静寂と圧倒的な自然の威容があった。
「お前さん……こんなところで、何をやってる」
探偵の言葉に、犯人の男はゆっくりと振り向いた。
手には、盗んだ札束が入ったバッグが握られている。だが、彼の顔には悪人の凶悪さなど微塵もなく、ただ悲痛な涙だけが溢れていた。
「ここは、俺たちの聖地なんだ……昔からの、大切な場所なんだ」
男の声は震えていた。
「ここで死ぬつもりだった。だが……」
男は札束の入ったバッグを土の上に放り出し、泣き崩れた。
「俺の汚れた血で、聖地を汚すことなんて……できなかった……」
それは、当時の映画で描かれていた「ステレオタイプの悪役」ではない、土地を奪われ、誇りを奪われ、それでも魂の拠り所だけは守ろうとした一人の人間の叫びだった。
カメラの横で見ていたレベッカもパットも、息を呑んでその演技に見入っている。
探偵はゆっくりと歩み寄り、泣き崩れる男を見下ろした。
そして視線を上げる。
探偵の目線の先——巨大なウルルの岩肌には、観光バスで乗り付け、無邪気に笑いながらチェーン伝いに岩を登っていく白人観光客たちの姿があった。彼らに悪気はない。ただ、そこが誰かの心臓であることを知らないだけだ。
探偵は静かにポケットから煙草を取り出し、ジッポライターで火をつける。
紫煙を長く吐き出し、観光客たちと、泣き崩れる男を交互に見やりながら、ポツリと呟いた。
「強盗は……俺達か」
ハードボイルドな探偵の横顔に、乾いた風が吹き抜ける。
「……カーーーット!! オーケー!!」
監督の叫び声と共に、現場にどっと安堵の空気が広がった。
カメラの外で葉巻を咥えていたボブが「フッ」と笑い、静かに拍手を送る。パットとレベッカも目に涙を浮かべながら、懸命に拍手をしていた。
プロデューサーは天を仰ぎ、大きく息を吐き出した。最高の画が撮れたという確信が、その胸にあった。
——その後。
完成したその映画は、興行的には爆発的なヒットとはならず、制作費を回収してトントンといったところだった。
しかし、批評家たちの間では熱狂的な支持を集めた。
オーストラリアを舞台にした映画において、アボリジニを「ただの悪役」ではなく、背景と魂を持った一人の人間として描き切ったこと。そして、単なる観光地『エアーズロック』ではなく、原住民の聖地『ウルル』としての名称と意味を世に広く知らしめたこと。
それは間違いなく、八〇年代の映画史に一石を投じるエポックメイキングな作品となった。
この映画に出演したレベッカとパットは、実力派女優としての足場を確固たるものにし、プロデューサーもまた「人間ドラマを描ける男」として業界内での評価を一変させることになる。
暗転したスクリーンの後、流れるエンドロール。
その一番最後。数々のスタッフの名前が下から上へと消えていく中、暗闇の画面に数秒間だけ、こんな文字が浮かび上がった。
『Special Thanks』
『Ilunti』
『Futoshi & Gerbera』
それは、地球のどこかで今もバカンスを続けているであろう、理不尽で無茶苦茶な、けれど最高に人間臭い夫婦へ向けた、彼らなりの最大限の敬意と感謝だった。




