第二十話:モノトーンの空と、極彩色のハイウェイ
アメリカ大陸を横断する果てしないアスファルトの帯、インターステート・ハイウェイ。
荒野を切り裂くように爆走する漆黒のバケモノ――七五〇馬力のHQモナーロ・インターセプターの車内は、狂気と絶叫に包まれていた。
「ヒャーハッハッハッ! 遅い遅い遅ォイ!! 前の車が邪魔じゃ! ほれナビゲーター、裏道を探さんか!」
「は、はいいいいいっ!?」
助手席に押し込まれたパットは、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、分厚いロードマップを広げて必死に目で追っていた。
運転席のガーベラは、もはや完全に『マッドマックス』の悪役トーカッターの狂気に呑まれていた。前の車を煽り散らし、対向車線にはみ出してのゴボウ抜きを繰り返し、サイドマフラーからは威嚇するようにバックファイアを吹き出している。
「ナイトライダー! 夜空を見上げるたび、あいつを思い出せええええええ!!」
「いや夜空に居るって、それ死んでるってことじゃないですかあああああ!!」
ノリノリで映画のセリフを絶叫する東洋人の魔女に、パットは泣き叫びながら的確なツッコミを入れた。
時速二百キロを超える暴力的なGでシートに押し付けられながら、パットの頭の片隅で、ふと冷静な疑問が浮かび上がった。
(アタシは……どうしてこんな所で、命の危機に瀕しているんだろう……)
走馬灯のように、パットの脳裏にこれまでの人生がフラッシュバックする。
パットが物心ついた頃には、父親はこの世にいなかった。ハリウッドで映画のカメラマンをしていたという父は、撮影中の事故で帰らぬ人となったらしい。
残されたのは、内気で、背が高くて猫背で、顔中そばかすだらけのパットと、そんな娘を世界で一番愛してくれた優しい母親だけだった。
学校では目立たず、冴えないグループに属していたパットだったが、彼女には夢があった。亡き父が愛した映画の世界の近く、ロサンゼルスに行くこと。
パットは猛勉強を重ねた。アメリカの共通テストであるSATでは、一五〇〇点オーバーという驚異的なハイスコアを叩き出し、見事に南カリフォルニア大学(USC)へのフルスカラシップ(全額奨学金)を勝ち取ったのだ。
『すごいわパット! 私、あなたが誇らしいわ!』
抱きしめてくれた母の温もりを、今でもはっきりと覚えている。
あとは学生ローンとアルバイトで生活費を稼ぎ、優秀な成績で卒業して弁護士になる。それが、貧しい母子家庭から抜け出し、母を楽にさせるための唯一にして最高のプランだった。
だが、アメリカという国は、持たざる者に対してどこまでも冷酷だった。
母が倒れたのだ。
高額な医療保険になど加入しているはずもなく、パットは必死で看病をしたが、その甲斐もなく母はあっけなく息を引き取った。
悲しむ暇さえ与えられなかった。病院から突きつけられた莫大な医療費と、葬儀の費用。わずかにあった蓄えは一瞬で消え去り、住んでいた家も、ボロボロの車さえも借金のカタに奪われた。
一七歳にして天涯孤独。文字通り、着の身着のまま路上に放り出された。
駅のベンチや、二四時間営業のダイナーの片隅で、コーヒー一杯で夜を明かす日々。
USCの入学手続きの期限までは、あと二週間しかない。カリフォルニアに行かなければ、奨学金も入学の権利も取り消されてしまう。
だが、東海岸のコネティカットから西海岸のロサンゼルスまでの旅費など、どこにもない。仮にたどり着けたとしても、当面の寮費も食費もないのだ。その先に希望があるとは到底思えなかった。
(それでも……せめてLAに行って、お母さんと一緒に夢見たあのキャンパスを見てから、諦めたかった……)
絶望の中でパットが見たのが、地方紙の片隅に載っていたあの怪しげな三行広告だった。
『当方、日本人女性。長距離の移動につき、ナビ兼話し相手募集。LAまでの交通費、食費、宿泊費全額負担。日当百ドル』
人身売買か、麻薬の運び屋か。常識的に考えれば絶対に関わってはいけない罠だ。
だが、パットにはもう、失うものなど何一つ残っていなかった。
「おいナビゲーター! 次は右か左か、どっちじゃ!!」
「ひっ!? つ、次の分岐を左ですぅぅっ!!」
「よォし、しっかり掴まっておれよ!!」
ガーベラがステアリングを乱暴に切り、HQモナーロがけたたましいスキール音を上げてハイウェイの分岐に飛び込んでいく。
理不尽で、暴力的で、ルールなど一切無視するこの日本の魔女。
しかし、彼女の隣に座っている間だけは、あの息が詰まるような絶望も、母を失った悲しみも、借金の恐怖も、すべてが圧倒的な『スピード』の中に置き去りにされていた。
(アタシ……死ぬかもしれないけど、LAには行けるんだ……!)
パットは涙を拭い、再びロードマップを力強く握りしめた。
♦
同じ頃。
モナーロの後方を猛追する、初代トヨタ・ソアラの車内。
日本のヤンキー車特有の甘ったるい芳香剤の匂いが充満する密室で、身長二メートルの大男ボブは、靴下だけの足を窮屈そうに折り曲げながら、信じられない光景を目にしていた。
『ツッパリ~♪ High School Rock'n Roll~♪』
カーステレオから大音量で流れる『横浜銀蝿』のロックンロールに合わせて、運転席の太がノリノリで首を振り、デタラメな英語と日本語を交ぜて熱唱しているのだ。
「ヒャッハー! 最高だぜ! おいボブ、お前も歌え!」
「オ、オーマイガッ……ボス、俺は日本語なんて分からないぞ……」
だが、太の暴走は歌だけにとどまらなかった。
前方に大型トレーラーが並走し、軽い渋滞を作り出しているのを見るや否や、太はダッシュボードの下から黒いマイクを取り出した。かつて日本の暴走族やヤンキーがこぞって愛用していた、車外スピーカー(拡声器)のPAマイクだ。
『あー、あー。テステス。……おい前走ってるトロい車! どけろ!! このマザーファッカー野郎!!』
大音量でハイウェイに響き渡る太の怒声。
アメリカ人相手に『マザーファッカー』とは、撃ち殺されても文句は言えない最悪の侮蔑語である。ボブが血の気を引かせていると、太はニヤリと笑ってマイクをボブに押し付けた。
「ほれ、ボブ! お前も言ってやれ! 日頃の鬱憤を晴らすんだよ!」
「えっ!? お、俺が!?」
半ばヤケクソになったボブは、マイクを握りしめ、自分たちに道を譲って追い抜かれていくアメ車の群れに向かって、腹の底から叫んだ。
『ウーラー!!(Oorah!)』
『センパーファイ!!(Semper Fi!)』
それは、彼がかつて所属していたアメリカ海兵隊の雄叫びと、「常に忠誠を」を意味する誇り高き合言葉だった。
それを聞いた太は、ステアリングを握りながら目を丸くした。
「なんだボブ、お前、マリーンだったのか?」
その言葉に、ボブはビクッと肩を震わせ、顔を強張らせた。
しまった、と思った。
自分が軍人であったこと、ベトナムに行っていたことを知られれば、どうなるか。
(また……『赤ちゃん殺し』と罵られる……!)
ボブの脳裏に、どす黒い過去の記憶が濁流のように押し寄せてきた。
ボブは子供の頃から体が大きく、運動神経も抜群で、町一番の人気者だった。
そんな彼には、心から尊敬する大好きなおじさんがいた。軍服に身を包み、休暇で帰ってくるたびに冒険譚のように戦場の話をしてくれる、最高にカッコいい自慢のおじさんだった。
やがて、ベトナム戦争が始まった。
最初は国中が愛国心に燃え、軍人を後押ししていた。しかし、ボブがジュニアハイ、そしてハイスクールへと進むにつれ、テレビに映し出される泥沼の戦況と反戦運動の激化により、世間の空気は一変した。
国の命令を受けて命を懸けている軍人たちが、まるで殺人鬼のように蔑まれ、非難されるようになったのだ。ボブにはそれがどうしても納得できなかった。
そんな中、おじさんの戦死の報せが届いた。
深い悲しみに包まれて参列した葬式の最中、ボブは信じられない光景を目の当たりにする。
おじさんの実の娘である従姉妹が、ヒッピーのような仲間たちと共に、「人殺しのベイビーキラーが死んでせいせいした」と笑いながらハイになり、父親の死を喜んでいたのだ。
激しい怒りに駆られたボブは従姉妹たちに掴みかかろうとしたが、親戚や周りの大人たちは、自分の両親でさえ、彼らを殴ることすら止めた。
「波風を立てるな」「今はそういう時代なんだ」と。
ボブが海兵隊への志願書類を送ったのは、その翌日のことだった。
『もう志願済みだ。卒業したら、俺は戦場に行く』
泣き崩れる両親を背に、ボブは憧れたおじさんの足跡を追って、地獄のベトナムへと飛んだ。
しかし、そこで彼を待っていたのは、英雄的な冒険譚などではない、ただの腐りきった地獄だった。
蒸し暑いジャングル、腐敗臭、ナパーム弾の炎。
横行する民間人への虐殺、不満を持った兵士による上官殺害、恐怖を紛らわせるための麻薬、そして腐敗した汚職。
そんな狂気の中でも、祖国を信じ、懸命に戦っていた善良な戦友たちは、次々と虫けらのように死んでいった。
クソみたいなアメリカ兵をこの手で殺してやりたいと何度も思った。だが、ボブには彼らを撃つことができなかった。
精神をすり減らしたボブが麻薬に手を出し、心が完全に壊れてしまうまでに、そう時間はかからなかった。
満身創痍で帰国した彼を待っていたのは、命を懸けて守ろうとしたはずの祖国からの、決定的な拒絶と蔑みだった。
空港で唾を吐きかけられ、故郷の家に帰っても、両親は「近所の目があるから」と彼を家に入れようとはしなかった。
行き場を失い、さまよう日々。
ある日、ボブはおじさんの家を訪ねた。ベトナムでおじさんの部下だったという古参兵から聞いた『真実』を伝えるためだ。
「おじさんは……北ベトナム軍との激しい交戦中、逃げ遅れたベトナム人の子供を助けに行って撃たれた傷がもとで死んだんだ。彼はいまでも、部下たちの英雄なんだ」
それを聞いたおばさんは、涙を流してボブの手を握った。
『あの人が赤ちゃん殺しなわけないって、ずっと信じてたけど……悔しかった。教えてくれて、本当にありがとう』
ボブは、地獄のような戦場に行って、初めて報われた気がした。自分の行動は、無駄ではなかったのだと。
しかし、悲劇はそこで終わらなかった。
帰り道、町のダイナーに立ち寄ったボブは、あろうことかあの従姉妹と鉢合わせてしまったのだ。
彼女は相変わらずヒッピー仲間を引き連れ、ボブを見るなり「人殺し」「赤ちゃん殺し」と口汚く罵った。自分だけなら耐えられた。だが、彼女は実の父親であるおじさんのことまで侮辱し始めたのだ。
「おじさんは子供を助けて死んだんだ!」
ボブが言い返すと、従姉妹は嘲笑って吐き捨てた。
「どうせ、助けたフリをしてその後に殺したんでしょ。狂った米兵ならやりかねないわ」
プツンと、ボブの中で何かが切れた。
ダイナーを出た路地裏で、従姉妹と仲間たちがナイフを取り出してボブを襲ってきた。実戦を経験したボブにとって、ドラッグでフラフラの若者など敵ではない。彼は身を守るため、男たちの手足を容赦なくへし折った。
だが、パニックに陥った従姉妹の一人が、懐から拳銃を取り出してボブに狙いを定めた。
咄嗟の判断だった。ボブは奪い取ったナイフを投げつけ、地面に転がって身を隠した。
……数秒の静寂の後、路地裏に響き渡ったのは、悲鳴すら上げられない絶望の音だった。
ボブの投げたナイフは、あろうことか従姉妹の眼球に深く突き刺さり、彼女の命を即座に奪い去っていたのだ。
正当防衛とはいえ、過剰防衛と身内殺しの罪で五年間の服役。
刑期を終え、刑務所から放り出されたボブは、空き缶を集めて放浪しながら、毎日、毎日、自問自答を繰り返していた。
『自分は、どこで間違ってしまったのだろう』
『おじさんの名誉を守りたかっただけなのに、結局、おじさんの娘をこの手で殺してしまった』
『ベトナムで見た、平気で人を殺し麻薬を横流ししていたクソ野郎たちは、アメリカの社会に溶け込んで上手く生きているのに。何故、俺はこんなにも上手く生きられない? 俺が間違っていたのか?』
『俺には……生きる価値があるのだろうか』
ボブの命をギリギリのところで繋ぎ止めていたのは、ベトナムで迫り来る砲撃からボブを庇い、全身血まみれになって死んでいった戦友の最後の言葉だけだった。
『ボブ……お前は、死ぬなよ……』
その呪いのような言葉に従い、ただ息をして、空き缶を拾うだけの日々。
いつしかボブの目には、世界がすべて『モノトーン(白黒)』の画面のように、色褪せて見えるようになっていた。
いつか、こんな意味のない日々が終わることを、道の片隅で凍え死ぬ日を、彼はただ祈っていた。
――あの日、コネティカットの駐車場で、奇妙な東洋人が「お願い助けてぇぇぇぇっ!」と情けなくすがりついてくるまでは。
「……海兵隊か」
ステアリングを握る太の声が、ボブを過去のフラッシュバックから現実へと引き戻した。
ボブは、硬く目を閉じた。
次に放たれる言葉は決まっている。『恥を知れ』『人殺し』『ベイビーキラー』。アメリカ中が、彼に向かってそう吐き捨ててきたのだから。
だが、太の口から出た言葉は、ボブの予想を根底から覆すものだった。
「その歳で、そのミリタリーコートの着こなし……ベトナム帰りか」
太は、前方のハイウェイを見据えたまま、なんでもないことのように、カラッとした声で言った。
「いろいろとキツい思いもしただろうが……国のために、お疲れ様だったな」
ドクン、と。
ボブの心臓が、大きく跳ねた。
国のために、お疲れ様だったな。
それは、彼がベトナムから帰還して以来、十年間、誰からもかけられることのなかった言葉だった。
両親からも、社会からも、すれ違う見知らぬ人間からも否定され続けた彼の青春と、命を懸けた戦い。
それを、異国から来た、ヤンキー上がりで非常識極まりないこの奇妙な男が、一切の政治的な偏見も、偽善も抜きにして、ただ純粋な『労い』として肯定してくれたのだ。
「ぼ、ボス……」
ボブの視界が、急に滲み始めた。
涙が溢れ出し、分厚い頬を伝ってボロボロとこぼれ落ちていく。
そして、ボブは信じられない思いで、助手席の窓の外を見た。
モノトーンだった景色に、色が戻ってきている。
青く澄み渡ったアメリカの空、赤茶けた荒野の土、そして、隣でアクセルを踏み抜いている太のソアラの、鮮やかなボディカラー。
世界が、極彩色に輝き始めていた。
「どうしたボブ、腹でも痛いのか?」
「……いや。なんでもない。なんでもないんだ、ボス」
ボブは太い腕で乱暴に涙を拭うと、ニカッと、子供のように無邪気な笑顔を浮かべた。
死ぬためではなく、生きるためのドライブ。
この最高にクレイジーなボスとなら、地獄の底まででも付き合える。そう確信した。
「ウオオオオオオッ! 踏め、ボス! もっとアクセルを踏み抜けェッ!!」
「ハハハハッ! おっしゃ任せとけボブ! ガーベラのヤツに、日本の意地を見せてやるぜッ!!」
プシューーーーッ!!!
ブローオフバルブの快音を響かせ、ソアラがさらに加速する。
すべてを失った少女と、色を失った帰還兵。
彼らの傷だらけの人生を乗せて、二台の狂った車は、眩しい太陽が待つ西海岸へと爆走していくのだった。




