第15話:九龍の光と影、あるいは朝日の当たる場所
一九八一年、香港。
まだイギリスの統治下にあり、世界中の金と欲望が渦巻く極東の巨大な魔都。
俺とガーベラは、テレビの特集番組で見たその怪しげな魅力に惹かれ、ふらりと海を渡ってこの地を訪れていた。
「おおお! なんじゃあの巨大な船は! 海の上に城が建っておるぞ!」
ヴィクトリア・ハーバーの夜景を背に、ガーベラが目を輝かせて指差したのは、水上レストラン『珍寶王國』だ。
ネオンがギラギラと輝くド派手な巨大船。俺たちはそこで、フカヒレの姿煮や極上の干し鮑といった、バブル期香港の象徴とも言える超高級海鮮中華を腹の底から堪能した。
その後はピークトラムに乗り、ヴィクトリア・ピークから『百万ドルの夜景』を見下ろす。そして宿泊は、香港の歴史と伝統の象徴である最高級ホテル『ペニンシュラ香港』のスイートルームだ。
「地球の『資本主義』という魔法も、なかなか凄まじいものじゃな。これほどまでに富と贅沢が極まった都市は、ノリディアの王都にも存在せぬわ」
「ああ、これは表の香港が持つ、とびきり強い光の部分だな。……だが、俺たちが本当に見たかったのは、こっちじゃない」
翌日。
俺たちはペニンシュラを出ると、この旅の真の目的地へと足を向けた。
――『九龍城砦』
無許可の増改築が繰り返され、太陽の光すら届かないほど複雑怪奇に絡み合った巨大なスラム街。マフィアが暗躍し、警察すら容易に立ち入れない、東洋一の魔窟である。
「……見事な瘴気じゃ。ノリディアの最深ダンジョンすら可愛く思えるほどのカオスっぷりじゃな!」
「よし、行くぞ。厄介事はご免だからな、認識阻害をかけていく」
俺たちは『こちらから声をかければ応じるが、それ以外は風景と同化して無関心にスルーされる』という都合の良い認識阻害魔法を展開し、九龍城の暗い迷宮へと足を踏み入れた。
頭上すれすれを、啓徳空港に離着陸する巨大な旅客機が轟音を立てて通過していく。
迷路のように入り組んだ細い通路。むき出しの配管からポタポタと落ちる水滴。違法な歯科医院の看板、怪しげな薬屋、そして強烈な八角とドブの匂いが混ざり合った、圧倒的な熱気。
「太、あそこの店で何か食ってみようぞ! 何の肉かは分からんが、猛烈に美味そうな匂いがする!」
俺たちは路地裏の薄暗い食堂に陣取り、何の材料が使われているのか一切不明な、しかし異常に美味い点心をつついた。
食後は怪しげな水パイプを吸ってみる。謎のハーブの煙を肺に入れると、二人してフワフワと妙にテンションが上がり、気づけば俺たちは九龍城の奥深くに蔓延る『娼館』のエリアにまで足を伸ばしていた。
そこでハイになったガーベラは「わしも地球の夜の営みを体験してみたいぞ!」と言い出し、俺とガーベラ、そして現地の娼婦という三人でベッドを共にするというカオスな展開に突入した。
だが、最強の賢者の好奇心は留まることを知らなかった。
「おお、これは良いことを思いついたぞ! 人体錬成の応用で、わしにも『ナニ』を生やしてみるのじゃ!」
「はぁ!? お前、何やって……おい、ちょっと待て、デカすぎだろソレ!」
「ふはははっ! いざ尋常に行ざっ!!」
結果として、立派なモノを生やした異世界の賢者様は、規格外の体力とテクニックで現地の娼婦を完膚なきまでに責め落とし、絶頂のあまり泡を吹かせて気絶させてしまった。
「……コラァッ! ウチの大事な商品に何してくれてんだテメェら!!」
「ひぃっ、ポン引きの兄ちゃんが青龍刀持って追ってきたぞ! 逃げるのじゃ太!」
「お前のせいだろバカヤロウ!」
俺たちは認識阻害も忘れ、迷宮のような九龍城の屋根や配管の上を、大笑いしながら縦横無尽に逃げ回った。
危険で、汚くて、でも生命力にあふれたこの場所の魅力に、俺たちはすっかりハマってしまっていたのだ。
♦
そんな九龍城砦での日々の中で、俺たちは一人の少年と出会った。
名前は『ナナシ』。物心ついた頃から両親はおらず、この城内の雑用や使い走りで小銭や食料を得て生きている、名もなき孤児だった。
最初は、食堂で酒を飲んでいた時に、タバコと追加の酒の買い出しを頼んだのがきっかけだった。
それ以来、城内で見かけるたびに小銭を渡したり、屋台の飯を奢ってやったりした。俺たちにとっては、ただの気まぐれな施しに過ぎなかった。
だが、ある日のこと。
ナナシは俺たちの元にやってくると、照れくさそうに一枚のベニヤ板を差し出した。
そこには、石や灰、拾った木炭の欠片を使って描かれた『俺とガーベラの絵』があった。
「……これ、お前が描いたのか?」
荒削りだが、特徴を完璧に捉え、何より対象への深い愛情と温かさに満ちた、素晴らしい絵だった。
俺とガーベラは、その類まれなる才能に一発で惚れ込んだ。
「ナナシ。これ、やるよ」
俺は日本から買ってきた上質なスケッチブックと、絵の具、色鉛筆、クレヨンのセットを取り出して少年に渡した。
さらに、金に物を言わせて城内に比較的まともな空き部屋を一つ確保し、彼に与えた。
「俺たちは一度日本に帰るけど、お前はここにいていい。好きなだけ絵を描け。お前が描いた絵は、俺たちが全部買ってやるから」
ナナシは、真新しい画材を震える手で抱きしめ、大粒の涙をこぼしながら何度も何度も頭を下げた。
♦
――だが、その気まぐれな優しさが、結果として最悪の悲劇を招くことになるとは、当時の俺たちは思いもしなかったのだ。
日本でしばらくのんびりと過ごした後、俺たちは約束通りナナシの絵を買い取るために、再び香港・九龍城へと足を運んだ。
しかし、あの行きつけの食堂の親父から告げられたのは、残酷な事実だった。
「……ナナシは、死んだよ」
「え……?」
「お前さんたちが部屋を与えて、小綺麗になったからだろうな。城内の半グレどもに『あのガキ、金を持ってるぞ』と目をつけられたんだ。……身ぐるみを剥がされ、誰かも分からないほど顔を潰されて、路地裏に全裸で捨てられてた」
親父は、カウンターの下から泥と血にまみれた『破かれた絵』を取り出した。
「これ……見るか? アイツの手元に、これだけが残されてたんだ」
俺は、その破れた絵を見つめたまま、無言で食堂を出た。
「……どうする、お前様よ」
薄暗い路地裏を歩きながら、背後からガーベラが静かに問いかけてきた。
『お前様』。彼女が俺をそう呼ぶ時は、最強の賢者としてではなく、ひとりの伴侶として、俺の魂のあり方を問うている時だ。
「……俺の配慮が、足りなかったんだろうな。スラムの孤児に、身を守る力も与えずに金や部屋だけを与えりゃ、どうなるかくらい想像できたはずだ。俺の責任なんだろうな」
「…………」
「…………んな訳あるかッ!!」
ドンッ! と、俺は横の配管を殴り飛ばした。分厚い鉄管がひしゃげ、水が噴き出す。
「知るかそんなもん! 俺より、ナナシを殺した奴らが悪いに決まってる! あいつらは絶対に生かしちゃおかねえ!」
胸の奥で、どす黒い炎が爆発的に燃え上がるのを感じていた。
「復讐じゃねえ。ただ俺がムカついたからだ。だから、実行犯も、その上の組織の奴らも、まとめて全員殺してやる。……ガーベラ、ひょっとして『復讐は何も生み出さない』とか言って、止めたいのか?」
俺が血走った目で睨みつけると、ガーベラはクスリと妖艶に笑い、俺の頬にそっと手を添えた。
「いや? 復讐なんて考えて当たり前じゃし、力があるならすれば良いとすら思っておる。……『ナナシがそれを望んでいる』などと死人のせいにするのではなく、お前様が『自分のために殺す』と言うのなら、わしは一切止めはせん」
ガーベラの瞳に、深淵のような絶対的な魔力が満ちていく。
「当然、手伝うぞ。愛する夫の怒りじゃからな」
♦
そうして、九龍城砦における二人の『ゴミ掃除』が幕を開けた。
ナナシを直接いたぶって殺したチンピラたちの溜まり場。
薄暗い麻雀荘のような部屋に、俺たちは『空間転移』で唐突に出現した。
「あぁ? なんだテメェら……どこから入ってき――」
半グレの一人が立ち上がった、次の瞬間。
ゴシャッ!!!
スイカをハンマーで叩き割ったような鈍い音と共に、その男の『下顎』が完全に消失した。
大量の血と肉片が壁にぶちまけられ、男は声すら出せずに痙攣して倒れ込む。
「あ……」
「太。オーガの力で下顎を力いっぱい握り潰したら、ああなるじゃろ?」
返り血一つ浴びず、嗜虐的な笑みを浮かべる妙齢の美女。
ガーベラはそのまま流れるような動作で、室内にいた残り数名の半グレたちの『両膝』を、正面から容赦なく蹴り砕いた。
「ぎぃぃぃぃぃッッ!!?」
「あ、足が……! 足があぁぁっ!!」
骨が完全に粉砕され、二度と歩くことのできない身体にされた男たちが、床でのたうち回って泣き叫ぶ。
「さて……」
俺は、恐怖で失禁している男の顔を踏みつけ、極北の氷よりも冷たい声で告げた。
「お前ら、これで簡単に死ねると思うなよ……?」
男たちの意識は、そこで絶望と共に途切れた。
その後、俺たちはチンピラたちから情報を抜き取り、九龍城を牛耳る上部組織の事務所を急襲した。
重火器で武装したマフィアどもなど、異世界最強の俺たちの前ではただの的でしかない。
幹部を含めた二十人ほどの男たちを無力化し、ガーベラの『亜空間収納部屋』の中へとまとめて放り込んだ。
俺たちが彼らに与えた罰は、死よりも遥かに残酷なものだった。
まず、ガーベラが高位の治癒魔法をかけ、彼らの砕けた手足や傷をすべて『完治』させる。
次に、全員に『他人の目からは、凄まじく好みの美女に見える幻影魔法』を焼き付ける。
そして、一切の衣服を奪って下着一枚の姿にし、『絶対に口がきけなくなる呪い』をかけた。
「さて、出荷の時間じゃな」
俺たちは、その二十人の男(見た目は絶世の美女に見えてで口はきけない)を、二人ずつペアにして、世界各国の『最悪の刑務所』や『治安最悪のスラム街』へと空間転移で放り込んでいった。
――それから、二ヶ月後。
俺が魔法で追跡していた、彼らの持つ『生存反応』の最後の火が消えた。
彼らが放り込まれた先で、一体どのような扱いを受けたのか。
放り込まれた後の強制的な性交回数は、一人当たり二千回を超えていた。狂って死ぬことも許されず、あの状況で二ヶ月も持ったのだから、むしろ長生きした方だろう。
彼らは死ぬ瞬間に至るまで、ナナシが感じた絶望と痛みを、何千倍にもして味わい続けたはずだ。
♦
すべての復讐を終えた後。
俺とガーベラは、九龍城砦のあの食堂へと赴き、親父に最後の挨拶をした。
「……もう、俺がこの九龍に来ることはないだろうな」
俺がそう告げると、親父は黙ってタバコに火をつけ、店の奥から、繋ぎ合わせた一枚のキャンバスを持ってきた。
「……やっぱり、これはお前らが持って行け。ナナシが、最後に描き上げていたやつだ」
手渡されたその絵を見て、俺は息を呑んだ。
それは、画材セットを使って描かれた、色鮮やかな『九龍城砦』の風景だった。
だが、俺や一般人が想像するような、薄暗く、危険で、カオスな魔窟としての九龍城ではない。
そこに描かれていたのは、迷宮のような建物の隙間から眩い『朝日』が差し込み、光に照らされた屋上で、俺とガーベラが満面の笑みで空を見上げている姿だった。
――ここは、危険で汚いだけの場所じゃない。
――僕が愛したこの街にも、こんなに綺麗に日の当たる場所があるんだよ。
ナナシのそんな声が、絵から聞こえてくるような気がした。
「……っ」
俺は、絵を脇に抱え、唇を強く噛み締めた。
涙を見せまいと、無言のまま親父に背を向け、右手をヒラヒラと振って食堂の出口へと向かう。
二度と来るつもりはなかった。
だが、この絵が教えてくれた光の当たる九龍の景色を、俺はいつかもう一度、見に来なければならない。
この魔都が取り壊され、歴史の波に消えてしまう、その前に。
無言で歩き出した俺の背中を、ガーベラはすべてを理解したような、この上なく優しい眼差しで見つめていた。
「またの」
ガーベラは、食堂の親父に向けて短くそう告げると、静かに俺の隣へと並び、共に朝日の差し込む九龍の路地へと歩き出したのだった。




