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おっさん、異世界で魔法を覚える。〜嫁連れて帰ってきたら【昭和】だった件〜  作者: だい


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第12話:鉄のカーテンと西風、あるいは同志への餞

 1981年。世界はまだ冷戦の最中。

 世界を二分する共産主義陣営の心臓部、ソビエト連邦の首都モスクワは、重く垂れ込めた鉛色の空と、凍てつくような冷たい空気に包まれていた。


 分厚い『鉄のカーテン』に覆われたこの魔都は、西側の人間からすれば恐怖と謎に満ちた場所だ。街角には秘密警察(KGB)の監視の目が光り、市民たちは息を潜めるようにして歩いている。

 だが、そんな張り詰めた空気などお構いなしに、俺とガーベラは赤の広場を呑気に観光していた。


「ほう、あれがクレムリンか! まるでおとぎ話の城のような色使いじゃな。赤や緑のネギ坊主が乗っておるぞ!」

「ありゃ聖ワシリイ大聖堂だ。しかし、見事な建築美だな。西側のプロパガンダじゃ、ソ連は灰色一色のディストピアみたいに言われてるが、やっぱり自分の目で見ないと分からないもんだ」


 俺たちは純粋な知的好奇心から、この歴史的な大国をこの目で見ておこうと、ふらりとモスクワへやってきたのだ。

 とはいえ、真っ当な入国手続きなど踏んでいない。空間転移で直接入り込んだため、当然ながら即座に違和感を察知されていた。


 広場の端から、鋭い眼光で俺たちを睨みつける一人の男がいた。

 KGB(ソ連国家保安委員会)のヴァイス少佐。仕立ての良い分厚いトレンチコートを着込み、冷徹な青い瞳を持つ、いかにも有能な防諜部隊のエリートといった風貌の男だ。


「……あのアジア人の男女、入国の記録がない。どこから湧いた? 西側の新型スパイか、それとも……。第一班、対象を包囲しろ。抵抗すれば撃っても構わん」


 ヴァイス少佐の的確で容赦のない指示により、私服の捜査員たちが俺たちを取り囲もうとじわじわと距離を詰めてくる。

 だが、最強の賢者と異世界帰りの俺たちにとって、KGBの包囲網など児戯に等しかった。


「おっと、お迎えが来たみたいだぞ」

「鬱陶しいのう。少し顔を変えさせてもらうぞ」


 ガーベラが指先で軽くマナを弾いた瞬間、俺たちの顔と服装を覆うように『幻影イリュージョン』の魔法が展開された。

 KGBの捜査員たちが路地裏に踏み込んだ時、そこにいたのは怪しいアジア人夫婦ではなく、くたびれたコートを着たふくよかなロシア人の中年夫婦だった。


「対象を見失いました! 路地には地元の人間しかおりません!」

「馬鹿な……! 煙のように消えたとでも言うのか! モスクワの街で私の目を誤魔化せるはずがない、必ず探し出せ!」


 無線越しに怒鳴るヴァイス少佐の声を背に、俺たちはロシア人夫婦の姿のまま、悠々とモスクワ観光を続けた。

 街角の黄色いタンクで売られている微炭酸の麦芽飲料『クワス』を買い、その独特の甘酸っぱいパンのような風味を笑い合いながら楽しむ。

 夜にはボリショイ劇場へ足を運び、世界最高峰のバレエ『白鳥の湖』を鑑賞した。国家の体制がいかにおぞましくとも、ロシアの大地が育んだ芸術の美しさは本物だった。


「素晴らしい跳躍じゃ! 魔法も使わずにあんなに高く美しく舞うとは!」


 感動したガーベラは、終演後に楽屋へこっそりと空間転移で忍び込み、うら若きバレエ団員たちに『差し入れ』を行った。

 俺がアメリカで大量に買い込んでおいた、本物のリーバイスのジーンズと、ソニーのウォッカ(カセットデッキ)である。


「オ、オーマイゴッド……! 本物のリーバイス!? それに日本のウォークマン!?」

「内緒じゃぞ。お主たちの素晴らしい舞への、わしからの賛辞じゃ」


 当時のソ連において、西側のジーンズや日本製家電は、どんな紙幣よりも価値を持つ最強の『裏通貨』だった。団員たちは涙を流して喜び、ガーベラの手を握って何度も「スパシーバ!」と感謝を告げた。


 モスクワを満喫した俺たちは、次なるグルメを求めてカスピ海の沿岸部へと空間転移した。

 狙いはもちろん、世界三大珍味の頂点に君臨する最高級の『ベルーガ・キャビア』だ。

 現地の漁師を見つけ、俺は再び空間収納から伝家の宝刀を抜き放った。


「なあ、この『新品のリーバイス501』で、美味いキャビアを売ってくれないか?」


 それを見た漁師の親父は、目をひん剥いて驚愕し、即座に小屋の奥からバケツ一杯の極上キャビアを持ってきた。

 俺たちは海風を感じながら、アメリカで買ってきたソ連の最高級ウォッカ『ストリチナヤ』の瓶をラッパ飲みし、スプーンで山盛りのキャビアを貪り食うという、資本主義と共産主義を冒涜するような最高に贅沢な宴会を開いた。


 ♦


 旅の後半、俺たちは南下してジョージアやウクライナといった地域へと足を運んだ。当時のこれらの地域は、すべてソビエト連邦という巨大な一つの国に組み込まれていた。

 寒々しく緊張感に満ちたモスクワとは打って変わり、南の人々は驚くほど陽気で、フレンドリーだった。


 見渡す限りのひまわり畑が広がる田舎町。

 俺たちはそこで、村人たちから「見慣れない顔だな! どこから来た! 日本? まあいい、今日は結婚式だ、お前たちも飲め!」と、半ば強引にダーチャ(郊外の別荘)での大宴会に引きずり込まれた。


「なら、俺たちからも祝いの品を出させてもらうぜ」


 俺は空間収納から、日本のウイスキーや焼酎、そして長崎名産の『からすみ』と、大鍋いっぱいに作った『肉じゃが』を取り出した。


「なんだこのオレンジ色の食べ物は? しょっぱいが……ウォッカに恐ろしく合うぞ!」

「こっちの肉の煮込みも美味い! 甘辛くて、ジャガイモがホクホクだ!」


 物資が少なく、決して裕福とは言えない生活環境の中でも、彼らは惜しげもなく手持ちの食事や酒を振る舞い、俺たちを心からの笑顔でもてなしてくれた。

 国境も、イデオロギーも関係ない。そこにあるのは、美味しい酒と食事を囲んで笑い合う、純粋な人間の営みだけだった。


 だが、夜が更け、酒が回ってくると、彼らの口からはポツポツと本音や疑問が漏れ始めた。


「なあ、日本の兄弟。……アメリカってのは、本当に俺たちに向かって核ミサイルを撃ってくるのか?」

「政府は俺たちが世界で一番豊かだと言っているが……どうして俺たちは、毎日パンを買うために何時間も列に並ばなきゃならないんだ?」

「日本の機械は絶対に壊れないって、本当なのか? 外の世界は、一体どうなってるんだ?」


 彼らの瞳には、恐怖と、純粋な知的好奇心が混ざり合っていた。

 西側のプロパガンダでは「冷酷な共産主義の歯車」のように語られるソ連の人民。だが、目の前にいる彼らは、家族を愛し、平和を望み、ただ美味しいものを食べて笑って生きたいと願う、ごく普通の人々だったのだ。


「……誰もミサイルなんか撃ちたくないさ。外の世界の人間だって、あんたたちと同じだよ」


 俺がそう答えると、村人たちはホッとしたような、どこか寂しそうな顔で笑って、再びウォッカのグラスを呷った。

 俺は痛感していた。こうして顔を合わせて話せば、同じ人間で、こんないい奴らばかりなのに。どうして世界は、互いに銃口を突きつけ合い、対立しなきゃならないのだろうか、と。


 ♦


 数日後。

 俺とガーベラは、ソ連での充実した旅を終え、西側諸国へと向かう国際列車『オスト・ヴェスト・エクスプレス(東西急行)』のホームに立っていた。


 冷たい風が吹き抜けるプラットフォーム。

 列車に乗り込もうとしたその時、俺たちの背後から、凍りつくような低い声が響いた。


「そこまでだ。西側のネズミ共」


 振り返ると、そこには数名の武装した部下を引き連れた、ヴァイス少佐の姿があった。

 その顔には、何日も寝ずの捜査を続けてきた疲労の色が濃く滲んでいたが、眼光だけは獲物を仕留めた猟犬のように鋭く光っていた。


「モスクワから消え、カスピ海で目撃され、ウクライナで宴会に興じる……。お前たちの足取りを追うのに骨が折れたぞ。何の目的でこの祖国を嗅ぎ回ったのか、ルビャンカ(KGB本部)の地下でたっぷりと吐かせてもらう」


 ヴァイス少佐が顎をしゃくると、部下たちが銃を構えて俺たちを取り囲んだ。

 だが、俺は焦るどころか、ニヤリと笑って懐から手帳を取り出した。


「お疲れさん、少佐殿。だが俺たちは、完全な『合法的手続き』で出国するただの旅行者だぜ? ほら、これがパスポートと出国ビザだ」


 俺が差し出した書類を受け取ったヴァイスは、その中身を見た瞬間、目を見開いて絶句した。


「ば、馬鹿な……!! これは……私の直属の上官、ヴェパロスキ将軍のパスポート!? 国境警備隊の特別通過許可証まで揃っているだと……!?」

「そういうこった。書類上、俺たちは『将軍の特命を受けた重要人物』だ。あんたの権限じゃ止められないぜ?」


 空間転移で将軍の執務室に忍び込み、少しだけ書類を『錬成』させてもらったのだ。

 ヴァイス少佐はギリッと音を立てて歯噛みし、書類を持つ手を震わせた。その顔には、己の信じる国家のシステムを根底からコケにされた屈辱と、底知れぬ怒りが浮かんでいた。

 だが、彼が銃を抜くよりも早く、ガーベラがスッと前へ進み出た。


「お主、本当に良い男じゃの」


 ガーベラは、呆然とするヴァイス少佐の分厚い手を、両手で優しく包み込んだ。

 その瞳には、からかいの色は微塵もなかった。彼女は最強の賢者としての真理の眼で、この男の魂の奥底を見透かしていたのだ。


「西側から見れば、お主は血も涙もない恐ろしい猟犬じゃろう。融通も利かず、ただ命令に従うだけの男。……じゃが、お主の根底にあるのは『己の保身』ではないな。その怒りも、疲労も、すべては心の底から『この国の人民を守りたい』と願う、純粋な愛国心と献身ゆえのもの」

「何を……貴様、私の何が……っ!」


 ヴァイスが手を振り払おうとした瞬間、ガーベラは俺の記憶から引き出した『ある映像』を、直接彼の脳内へと流し込んだ。


 ――それは、数年後に訪れる『ソビエト連邦の崩壊』の歴史だった。


 ベルリンの壁が崩れ落ちる熱狂。

 モスクワで起きるクーデターと、戦車の前に立つ市民たち。

 クレムリンから静かに降ろされる、赤地に鎌と槌の国旗。

 そして崩壊後、ハイパーインフレと物資不足に喘ぐ市民たちと、国営企業を食い物にして私腹を肥やす新興財閥オリガルヒ、街を牛耳るロシアン・マフィアたちの姿。


「……あ、あぁ……あぁっ……!!」


 ヴァイス少佐は膝から崩れ落ち、頭を抱えて呻き声を上げた。

 自分が生涯をかけて、命を賭して守り抜こうとした巨大な祖国が、音を立てて崩壊していく未来。そして何より、彼が守りたかった『人民』が、泥水のような困窮の中で苦しむ姿。

 それは、誇り高き彼にとって死よりも辛い絶望のビジョンだった。


「あんたを痛めつけるために、あんな未来を見せたわけじゃない」


 俺は、膝をつくヴァイス少佐を見下ろして、静かに語りかけた。


「共産主義ってのは、人が増えれば必ず腐るシステムだ。いずれあの未来は必ずやってくる。……だが、あんたみたいに『私心なく人民のために働ける人間』がいるのも、また確かな事実だ」


 列車の発車を知らせる甲高い警笛が、冷たい空気を切り裂いて鳴り響いた。

 俺はガーベラの手を引き、列車のデッキへと足をかけた。


「あんたのその執念と能力があれば……あの絶望の未来が訪れた時、少しでも『ソ連の人々』がマシな生活を送れる方法を、今から準備してやれるんじゃないのか?」

「……ッ」


 俺の言葉に、ヴァイス少佐は弾かれたように顔を上げた。

 俺とガーベラは彼に向けて軽く敬礼を送り、そのまま東西急行の車内へと姿を消した。


 重い鉄の車輪が軋みを上げ、列車がゆっくりと動き出す。

 プラットフォームに残されたヴァイス少佐は、遠ざかる列車を追うことはしなかった。西側へ逃亡しようとすることも、自暴自棄になって泣き叫ぶこともなかった。


 彼はゆっくりと立ち上がり、乱れたトレンチコートの襟を正した。

 そして、毅然と顔を上げると、踵を返してモスクワの街――いずれ崩壊し、絶望に呑み込まれるであろう魔都の奥底へと、力強い足取りで歩き始めた。

 その背中には、これから訪れる地獄の泥を一人で被り、人民を救い上げてみせるという、とてつもない覚悟が宿っていた。


 ♦


 ――それから、約十年後。

 俺たちが見せた歴史の通り、ソビエト連邦は崩壊した。

 国は資本主義の荒波に呑み込まれ、かつての特権階級やマフィアたちが富を独占し、一般市民はハイパーインフレと深刻な食糧不足に苦しんでいた。


 だが、そんな絶望のどん底にあったロシアで、一つの奇妙な噂が囁かれていた。


『困窮する民衆に対し、どこからか大量の食糧や生活物資が、公平に、かつ無償で配給されている』という噂だ。

 それを行っているのは、国営企業を不当に手に入れた汚い実業家オリガルヒでもなく、暴力を振るうギャングでもない。


 誰よりも早く崩壊の未来を察知し、旧KGBのネットワークと独自のルートを使って、密かに莫大な『人民のための資産と物資』を準備し続けていた、影の実業家。

 マフィアすらも手を出せない強大な武力と情報網を持ちながら、決して私腹を肥やすことなく、ただ愚直にロシアの復活と民衆の生活保護のためだけに暗躍する、正体不明のフィクサー。


 その男の名を、人々は畏敬の念を込めてこう呼んだ。

『同志・ヴァイス』と。


 彼が再び表舞台に姿を現し、ロシアという大国が本当の意味で復活への道を歩み始めるのは、もう少し先の話である。

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