第10話:アウトバックの星空と、風の通り道(イルンティ)
冬のメルボルン市街地。
歴史ある石畳の街並みと、コートの襟を立てて歩くオージーたちが行き交う中、俺の愛車は異様なまでの存在感を放っていた。
シャンパンゴールドとブラウンの上品な極上ツートンカラー。美しく張り出したブリスターフェンダーの奥には、ポルシェターボ用の極太で深リムなBBSホイールが鎮座している。限界まで車 高を落としつつも、フェンダーアーチとタイヤがピタリとツライチに収まる、至高のセッティング。
当時のオージーたちが、まだ概念すら存在しない『JDM』の洗練された暴力的な美しさに度肝を抜かれる中、札幌ナンバーのソアラは重低音を響かせてメルボルンを出発した。
俺たちはアデレードを経由し、大陸を縦断する大動脈『スチュアート・ハイウェイ』へと車を進めた。
……進めたのだが。
「ストップストップ! あかん、これ以上は無理だ!!」
ハイウェイに入ってしばらくした所で、俺は泣く泣くソアラのブレーキを踏んだ。
1981年当時のスチュアート・ハイウェイは、場所によっては未舗装の悪路が果てしなく続く、文字通りの『荒野の道』だったのだ。
限界まで車高を落とし、極太タイヤを履いたソアラの腹下を、容赦なく赤土の轍と石が削っていく。車内には「ガリッ」「ゴスッ」という、車好きなら卒倒しそうな嫌な音が何度も響いていた。
「どうしたのじゃ太。ずいぶんと顔色が悪いぞ?」
「俺のソアラの寿命がマッハで削られてるんだよ! こんな悪路をシャコタンで走破できるか! ガーベラ、ここは大人しく空間転移で一気に……」
「ならぬ。時間はいくらでもあるのじゃ、のんびり行くのも一興だろうて。……それにの、太」
ガーベラが、助手席で目をキラキラと輝かせながら身を乗り出してきた。
「この先にある『ロードハウス』と呼ばれる休憩所では、ウォンバットやカンガルーと触れ合えるらしいぞよ! わしは絶対に行くのじゃ!」
最強の賢者様は、すっかりオーストラリアの有袋類に心を奪われていた。
こうなったら仕方がない。
「わかった、ちょっと待ってろ。車を変える」
「む?」
俺はソアラを空間収納にしまい込み、ガーベラの手を引いて一度『ガーベラアース』で札幌へトンボ返りした。
向かったのは、以前ソアラを買った馴染みのディーラーだ。
「おや、太田さん! 今日はまた……」
「細かい手続きはいい。私有地で使うからナンバーも登録もいらねえ。表に停まってるあの『ランクル60』、今すぐ現金で持っていくわ」
俺は唖然とする店長の手へ、札束ビンタの勢いで現金を握らせ、頑強なオフローダーであるトヨタ・ランドクルーザー60のキーを奪い取った。
そのままランクルに乗り込み、再びオーストラリアの荒野へと空間転移で舞い戻る。滞在時間、わずか五分。
「おお、今度は随分と背が高くて無骨な鉄の馬じゃの!」
「オーストラリアのアウトバックをナメちゃいけねえ。こういう道は、ランクルの独壇場だぜ」
そこからの道中は、まさに快適そのものだった。
ランクル60は赤茶けた悪路をものともせず、力強くオーストラリアの広大な大地を駆け抜けていく。
腹が減れば、ロードサイドに車を停めて昼食にした。
現地のスーパーで買い込んだ巨大なオージービーフの塊を豪快に焼き上げ、削り出した岩塩と、日本からわざわざ持参した『本ワサビ』をたっぷりと乗せてかぶりつく。
「んんっ! このツンとくる辛味が、赤身の肉汁をさっぱりと食わせてくれるのう! たまらん!」
「だろ? 荒野で食う肉に、ワサビと岩塩。シンプルだがこれが最強のグルメなんだよ」
そんな楽しい食事の最中、唯一の悩みの種が『ハエ』だった。
オーストラリアのハエは日本のそれとは違い、顔の周りに大群でまとわりついてくる。
「ええい、鬱陶しい!! 『炎槍』!!」
顔に止まろうとしたハエにブチギレたガーベラが、あろうことか火炎魔法をぶっ放し、荒野の空を一部焦がした。
「バカ! ハエ一匹にどんだけ火力出してんだ! 山火事になったらどうすんだよ!」
「だ、だって目の中に入ろうとしてくるんじゃもん! ……むぅ、ならばこうじゃ」
ガーベラは少しムスッとした後、指先で器用に魔力を編み上げた。
すると、俺たちの周囲数メートルに、目に見えない薄い結界が展開される。ハエたちがその境界に触れた瞬間、見えない壁に弾かれるようにポロポロと落ちていった。
『ハエ専用の弾き結界』。最強の賢者が、旅行の快適さだけのために開発した超ニッチなオリジナル魔法の誕生である。
夜になれば、見渡す限りの地平線に沈む夕日を見送り、人工の光が一切ない満天の星空の下で、焚き火を囲んでスコッチウイスキーを傾ける。
そんな贅沢でスローな旅を続け、俺たちはついにエアーズロックの近郊にあるロードハウスへと到着した。
♦
その日の宿を確保し、併設されたダイナーで夕食を取っている時のことだ。
ロードハウスのすぐ横には、アボリジニの伝統工芸品である木彫りの置物や絵を売る小さな露店が出ていた。
「あなた達、どこから来たんですか?」
ふと、その露店のオーナーらしき初老のアボリジニの男性が、英語で話しかけてきた。傍らには、彼の娘だろうか、若い女性が静かに座っている。
「日本からさ! エアーズロックを見て、登りたくなってね!」
俺が屈託なく答えると、男性は穏やかに微笑んだ。
「そうですか。……良い所ですよ。楽しんでください」
その言葉自体に棘はなかった。
しかし、俺とガーベラは同時に『違和感』を覚えていた。男性の瞳の奥、そして俯いた娘さんの表情に、何か言いたげな、重く沈んだ感情の色が見えたのだ。
その日の夜。
俺とガーベラは、遠く闇夜に浮かび上がるエアーズロックのシルエットと星空をツマミに飲もうと、ボトルとグラスを持って外へ出た。
そこには、露店の片付けを終え、ただ一人でじっとエアーズロックの方向を見つめている先ほどの男性の姿があった。
俺たちの足音に気づいた男性は、少し身をこわばらせて、露店の裏にある居住用のテントへ戻ろうとした。
「お主、待つのじゃ」
ガーベラが声をかけた。
「ここに美味い酒があるのじゃ。よかったら、グラスを並べて少し付き合ってくれんかの?」
ガーベラの不思議と威圧感のない、自然体な誘いに、男性は少し迷った後、ゆっくりと頷いた。
焚き火の傍らに座り、お互いに自己紹介を交わす。
彼の名は、サミュエル・ウルルと言った。
「私の言葉に、何か引っかかるものを感じたのですね」
俺の注いだウイスキーを一口飲み、サミュエルはポツポツと語り始めた。
「あそこは、我々アナング族の聖地なのです。……白人がやってきて、勝手に『エアーズロック』という名前をつけましたが、我々は昔からあそこを『ウルル』と呼んでいます」
彼の声は静かで、しかし深い悲しみを帯びていた。
「ウルルの岩そのものだけでなく、あの周辺の土地すべてが、精霊と祖先が宿る神聖な場所です。ですが今、我々はその土地を取り上げられ、自由に近寄ることもできません。そして、白人や多くの観光客が、我々の聖地を土足で踏みつけ、登っていく……」
サミュエルの言葉に、俺は後頭部を殴られたような衝撃を受けた。
俺はオーストラリアの知識が乏しかったとはいえ、ただの「デカい岩」「観光地」としか思っていなかった。その土地に何万年も前から住み、そこを信仰の拠り所としている人々の存在など、想像もしていなかったのだ。
「こうして観光客相手に細々と商売をしながら、彼らが我々の聖地を踏み躙るのを黙って見ているしかない。声を上げても、政府には届きません。……それが、とても歯がゆいのです」
「……」
俺は何も言えず、ただ恥ずかしさで俯くしかなかった。ガーベラもまた、悲痛な顔でグラスを見つめている。
「すまない、俺たちはそんな事も知らずに……」
「いいえ、謝らないでください。知らないのは当然のことです」
サミュエルは優しく首を振った。
「今はまだ、あの場所は彼らのもので、法律上は登山もできます。せっかく遠い日本から来たのですから、『エアーズロック』に登っていってください」
そして、彼は少しだけ誇り高き瞳で、遠くの岩山を見つめた。
「ですが、いつか時代が変わり、あそこが本当の意味で『ウルル』に戻った時……もし登山ができなくなったとしても、また来てください。その時は、私が登らずとも素晴らしい『ウルル』の本当の美しさを案内しますよ」
その言葉の温かさに、俺の胸がギュッと締め付けられた。
――その時だった。
「キャアアアアッ!!」
サミュエルのテントの中から、娘の悲鳴が夜の荒野に響き渡った。
「な、なんだ!?」
俺たちが慌ててテントに駆け込むと、サミュエルの妻が腕を押さえて倒れ伏していた。その傍らを、太くて茶色い蛇がシュルシュルと逃げていくのが見えた。
「オ、オーマイゴッド……! ムルガだ!!」
サミュエルが絶望の声を上げた。
ムルガ、別名キングブラウンスネーク。オーストラリアでも屈指の猛毒を持つ巨大な毒蛇だ。毒の量が桁違いに多く、血清のある大きな病院まで何百キロも離れたこんな辺鄙なロードハウスで噛まれれば、まず助からない。
妻の顔色はすでに土気色に変わり、呼吸が荒くなっている。
サミュエルと娘は、為す術もなく泣き叫ぶことしかできなかった。
俺とガーベラは、スッと目を合わせた。
やるべき事は、一つしかない。
「サミュエル、どいてくれ!」
俺は妻の傍に膝をつき、噛まれた腕に両手をかざした。
「太さん、何を……! もう駄目だ、毒が……!」
「落ち着け。俺はな、実は日本の『拝み屋』なんだ」
俺は真剣な顔で嘘を吐いた。
「この土地の精霊たちに祈りを捧げれば、きっと力を貸してくれる。俺に任せてくれ!」
元々精霊信仰の文化を持つアボリジニであるサミュエルと娘は、俺の言葉に縋るように「お願いします!」と祈りの姿勢をとった。
俺は即座に最高位の『解毒』と『治癒』の魔法を並行して展開した。
それと同時に、隣にしゃがみ込んだガーベラが、俺の手元からフワァ……と幻想的な「光の粒子」を発生させた。ただの視覚効果(VFX)だが、この空間においては何より説得力のある演出だった。
「おお……光が……」
「精霊様……!」
サミュエルたちが祈る中、妻の腕の腫れがみるみるうちに引き、土気色だった顔に血の気が戻っていく。荒かった呼吸は、やがて穏やかな寝息へと変わった。
「終わったよ。もう大丈夫だ。毒は完全に抜けた」
「あ、ああ……! あなたと、力を貸してくれた精霊に感謝を!!」
サミュエルと娘は、俺とガーベラ、そして目に見えぬこの土地の精霊たちへ向けて、地面にひれ伏して涙を流しながら感謝の言葉を繰り返した。
♦
翌朝。
すっかり元気になった奥さんと、泣いて喜ぶ娘さんに見送られながら、俺たちはロードハウスを出発する準備をしていた。
その時、サミュエルが俺たち二人を、少し離れた岩陰へと呼んだ。
彼は懐から、ボロ布に包まれた何かをそっと取り出した。
中から現れたのは、長い年月を感じさせる古びた『小さな石の板』だった。表面には、ウルルを象徴するような同心円の模様が深く刻み込まれている。
「これは『チュルンガ』と呼ばれる、我々の最も神聖なものです」
サミュエルは、その石板を愛おしそうに撫でながら、静かに語りかけた。
「白人は、この土地をただの金儲けの観光地だと思っている。だが、私の祖先の魂は、そして我々の歴史は、すべてここ(石とウルル)に生きているのです」
「サミュエル……」
「あなた方は、精霊の声を聴き、妻を救ってくれた。あなた方に出会えたことは、大いなる精霊の導きでしょう」
彼は深く頭を下げ、俺とガーベラのために無事の祈りを捧げてくれた。
そして、まっすぐに俺たちの目を見て言った。
「私のシークレットネームは、『イルンティ(Irunti)』と言います。『西風』や『風の通り道』という意味です。……どうか、この名を覚えておいてください。あなた方は、私の永遠の友人です」
アボリジニにとって、真の名を明かすことは、魂の底からの信頼を意味する。
俺たちはその重みを受け止め、深く頷き返した。
その後。
俺たちはサミュエルから、アボリジニの礼に外れない『正しいウルルの歩き方』を教わり、車で聖地へと向かった。
目の前に聳え立つ、赤茶けた巨大な一枚岩。
近づけば近づくほど、その岩肌が放つ圧倒的な気配――ノリディアでいうところの、濃密で神聖な『マナ』の波動――が肌をビリビリと震わせた。
俺たちは、当然のごとく登山道には向かわなかった。
ただ下からその荘厳な姿を見上げ、教えられた通りに静かに祈りを捧げた。
「ああ……なんという力じゃ……」
精霊の気配に人一倍敏感なガーベラは、ウルルの圧倒的な存在感を前に、大粒の涙をポロポロとこぼしていた。
「わしは、何でこんな神聖な場所を、土足で踏みつけようなどと考えておったのか……。恥ずかしい……自分がひどくちっぽけで、愚かに思えるのじゃ」
「……気付くことができて良かったじゃないか。俺も同じ気持ちだよ」
俺は泣きじゃくるガーベラの肩を抱き寄せ、共に聖地を見上げた。
その後、俺たちはサミュエルに教わった、白人の観光客が誰も知らない周辺の小さな聖地をいくつか巡り、静かに感謝の祈りを捧げて回った。
ただの観光地巡りになるはずだった俺たちのオーストラリア旅行は、イルンティという名の風に導かれ、生涯忘れることのない、深く意味のある旅となったのだった。




