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第22章 浄人

 浄人きよひとは、兄・道鏡どうきょうに呼ばれるや、喜び勇んで平城京へやって来た。河内国かわちのくにの片田舎に埋もれたまま一生を終える運命だと諦めていたところ、とつぜん上皇の授刀衛じゅとうえいの一員に取り立てられることになったのである。空を覆っていた灰色の厚い雨雲が急に吹き飛ばされ、青空が眼前に、眩しい太陽の光と共に、ヒリヒリする熱波を肌に感じながら、鼓動の高まりに合わせて、バーンと劇的に、奇跡的に、感動的に現れるのが浄人の目には見えた。

(せっかく手に入れたこの好機を俺は逃さないぞ)

 このとき浄人は三十歳。道鏡は端正な顔立ちをした、理智的で、物静かで、生まれついての気品を感じる男だが、腹違いの弟である浄人は、兄弟なのにこんなにも違うのかと驚くほど兄とは真逆の、粗野で、武骨で、下卑た感じの、胡散臭さが全身から溢れ出ている、絵に描いたような俗物の下郎であった。対面した孝謙上皇こうけんじょうこう

(これが道鏡の弟? わたしの嫌いな玄昉げんぼうにちょいと似てるんだけど・・・)

 とめまいがした.

 しかし、浄人が「汚れ仕事ならわたしにお任せください」と言うものだから、これから始まる戦いにはこのような無頼の輩も必要だと思い直し、とりあえず採用することにした。

「兄貴、ありがとうよ、俺に未来を世話してくれて」

 首尾よく授刀衛に潜り込めて喜んだ浄人が満面の笑顔で感謝の言葉を述べると、道鏡は少しばかり困惑した表情を浮かべながらこう言った。

太上天皇だいじょうてんのうさまの御名を汚さぬよう精いっぱい励んでくれよ」

「ああ、兄貴がくれた運を、今度は俺の力で大きく育ててみせるさ」

「太上天皇さまのため頑張ってくれ」

「任せてくれ。俺はあのおばさんの為に気張って働くぜ」

「あのおばさんとは何だ! 口を慎め!」

「そう怒るなって。俺たち二人だけの会話じゃねえか」

「たとえ二人きりの時であっても、太上天皇さまに対する無礼は許さんからな」

「わかったよ。これから気をつけるよ」

「本当に・・・わたしに恥をかかせないでくれよ」

「大丈夫だよ、うまくやるから。俺は俺のやり方で太上天皇さまに気に入られてみせるさ」

 天平宝字六(762)年十月十四日、聖武天皇しょうむてんのうとの間に、井上内親王いがみないしんのう不破内親王ふわないしんのう安積親王あさかしんのうという三人の子供を設けた県犬養広刀自あがたいぬかいのひろとじが死去した。生年月日は不明だが、二年前に亡くなった光明皇太后こうみょうこうたいごうの同世代であろうから、享年は六十歳前後であったものと推定される。

 孝謙上皇は淳仁天皇じゅんにんてんのうおよび恵美押勝えみのおしかつを討伐する計画を進めており、その仲間作りを密かにおこなっていた。まず由利ゆり広虫ひろむしという側近が孝謙上皇のそばにいる。他に相談役の道鏡がいる。授刀衛という上皇の親衛隊があって、その中に広虫の弟・清麻呂きよまろと道鏡の弟・浄人がいる。皇族の大多数は、押勝の操り人形である淳仁天皇よりも、孝謙上皇を応援するだろう。藤原一族の中にも藤原永手ふじわらのながてら押勝に反発している者は少なくない。彼らが味方に加われば相当よい線まで持っていけそうである。ただ、孝謙上皇側には、いくさの際に戦略を立て戦術を駆使する軍師がいなかった。

(この大役を任せられるのは吉備真備きびのまきびしかいないわ)

 孝謙上皇は大宰府にいる真備を呼び戻す算段を始めた。

 天平宝字七(763)年五月六日、鑑真がんじん大僧正遷化。享年七十六歳。来日して約十年、日本仏教の発展に多大な貢献をした上での死だった。孝謙上皇は我が国に対する鑑真の献身に心から感謝した。

 同年九月、藤原宿奈麻呂ふじわらのすくなまろ石上宅嗣いそのかみのやかつぐ佐伯今毛人さえきのいまえみし大伴家持おおとものやかもちの四人は押勝の暗殺を計画するが、密告により逮捕されてしまう。この事件に動揺した押勝は、孝謙上皇もまた自分への謀反を企んでいることを察知していたので、その計画がどれくらい進捗しているのか、どれくらい危険度が高まっているのかを探る為、表向きはこのところすっかり疎遠になった孝謙上皇と淳仁天皇の仲を取り持つという名目で西宮を訪れた。

「お忙しい中、わざわざご足労いただき、申し訳ないわね、大師たいし

 以前にも書いたが、大師というのは太政大臣を唐風に表記した役職名であり、押勝はその地位にあった。孝謙上皇の言葉に押勝は「畏れ入ります」と頭を下げた。

「それで今日は何の御用かしら?」

「はい、太上天皇だいじょうてんのうさまに何度面会を申し込んでも会ってもらえず、謝罪の書簡を何度送っても返事を頂けない、と陛下がたいへんご心痛なものですから、わたくしが、その、様子をお伺いに参った次第でして・・・」

「だって、あいつはわたしに無礼をはたらいたんだもの」

 孝謙上皇がそう言ってそっぽを向くと、押勝は腰を浮かせて弁明した。

「その件につきましては陛下も深く反省していらっしゃいますので、何卒お許し願えませんか?」

「当分ゆるす気にはならないわね」

「そこを曲げて何とか・・・」

「いやーよ」

「太上天皇さまと陛下が対立していると、社会の平穏が乱される恐れがありますので、どうかお願い致します」

「無理無理」

「国家安寧の為、ぜひともお願い申し上げます」

 そう言ってひれ伏す押勝を見た孝謙上皇が「ま、大師がそこまでおっしゃるのなら、考え直さないでもないけれど・・・」と言うや、押勝は顔を上げ「ありがとうございます」と笑顔で礼を述べた。

「大師も大変ね。色んなところに気を遣って」

「国政をあずかる者の使命ですから」

「大師がいれば、この国は安泰だわ。みんな大師に感謝していることでしょう」

「それがそうでもないようで・・・」と、押勝は口ごもった。「先日もわたくしを亡き者にしようと企んでいる者がおりまして、逮捕したばかりです」

「あ、そうだったわね」孝謙上皇は頷いた。「四人はどう処分されるんだったっけ?」

「主犯の宿奈麻呂は解官のうえ姓を剥奪。他の三名は地方へ左遷いたします」

「他にはもういないのでしょう、そんな跳ねっ返り者は?」

「いえ、まだいるみたいです」

「どこのどいつが大師に悪さしようとしているのかしら?」

「おおよその目星はついているのですけど、まだ証拠が・・・」

「そういうバカ者たちはさっさと捕まえて刑に処すべきだわ」

「はい、わたくしもそうしようと思っております。それにしても、どうしてわたくしはこんなにも嫌われるのでしょうね?」

 押勝にそう尋ねられた孝謙上皇は少し考えて「嫉妬されてるんじゃないの? 大師があまりにも優秀だから」と答えた。

「嫉妬ですか?」

「小さい頃から大師は神童として有名だったのでしょう?」

「滅相もございません」

「そうじゃなかったら恨みかしら?」

「誰から何故に恨まれるのでしょうか?」

「そんなの本人に訊いてみないとわからないわよ」

「それはそうですね」押勝は笑った。「わたくしに反逆しようと企んでも、しょせん勝ち目は無いのですから、冷静になって諦めてくれれば良いのですけど」

「そうね」

「確か橘奈良麻呂たちばなのならまろたちが謀反を起こす前、太上天皇さまが宣命せんみょうを発して、彼らに自制を促していらっしゃいましたよね?」

「ええ」

「あそこで思い留まっていれば、奈良麻呂も、他の者たちも、死なずに済んだのに」

「確かにね」

「いま反逆を企んでいる者にも同じ事が言いたいです、わたくしは」

「大師の仏心がそいつらに通じれば良いわね」

「はい・・・それでは陛下との和解の件、宜しくお願い致します」

 一礼して押勝が立ち去ろうとすると、「ちょっと待って」と孝謙上皇が呼び止めた。

「和解の件は前向きに考えておくから、わたしの願いもきいてもらえないかしら?」

「何でしょうか?」

「大宰府にいる吉備真備を都に呼び戻して欲しいの」

「真備を?」

「ええ、高齢の先生には都へ戻って、楽な仕事に就いてもらいたいのよ」

「真備はいくつになったのですか?」

「もう七十歳よ。いつまでも遠方に置いておくのは可哀想だわ」

「あ、そんな高齢でしたか」

「そうなのよ、いま先生の娘がわたしのそばに仕えているのだけどね、彼女が老父の体をとても心配しているの。だから、お願いよ、大師」

「都へ戻した後、真備に相応しい役職がありますでしょうか?」

「造東大寺長官ならちょうど良いと思うわ」

「そうですか・・・わかりました。そのように手配いたします」

「ありがとね。感謝するわ、大師」

 天平宝字八(764)年正月、吉備真備が大宰府から帰京した。

(押勝の首を獲る準備はできた)

 孝謙上皇は不敵な笑みを浮かべた。

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