第23章 恵美押勝の乱
恵美押勝を倒す為には、まず第一に授刀衛の支配権を掌握しなければならなかったが、孝謙上皇が自由に使える軍事力を持つことを警戒した押勝は、念のため授刀衛の長官に自分の娘婿である藤原御楯を充てていた。
「わたしにやれるかしら?」
土壇場になって迷いがでた孝謙上皇がそう尋ねると、道鏡は即答した。
「いちばん大切なものを守る為、心を鬼になさいまし」
覚悟を決めた孝謙上皇は、西宮に浄人をこっそり呼んで秘密の指令を与えた。天平宝字八(764)年六月九日、御楯が酔っぱらって川に落ち、溺死するという事件が起きる。暗殺されたとの噂もあったが、真相は不明のままだった。いずれにせよ、邪魔者の御楯がいなくなったお陰で、授刀衛は完全に孝謙上皇の支配下に入った。同年七月、浄人は宿禰姓を賜与されている。
「太上天皇め、小癪な」
御楯の死が孝謙上皇の仕業だと確信している押勝は、それに対抗すべく同年九月二日、新設の「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使(ととくしきないさんげんおうみたんばはりまとうこくひょうじし)」に就任した。これにより畿内およびその近国での兵士徴発権を手に入れた押勝は、当初は諸国の兵士二十名を都に集めて訓練する予定だったものを、その三十倍の六百名もの兵士を動員することに決めた。やられる前にやっつけようという肚である。
しかしながら、孝謙上皇の動きが一足早かった。舎人親王の孫で、淳仁天皇の甥でもありながら、上皇側についた二十歳の和気王から、押勝が予定の三十倍もの兵士を集めているとの情報を得た孝謙上皇は、同年九月十一日の夜、先手必勝とばかりに少納言・山村王に命じ、天皇が居住する中宮院から皇権の発動に必要な駅鈴、すなわち律令制で駅馬を利用するときに必要な鈴と、天皇の印鑑である御璽を奪わせた。以前、橘奈良麻呂が謀反を起こした際も、まずはこの二品を狙ったが、当時は三種の神器ではなく、駅鈴と御璽が権力の所在を示していたのである。このとき和気王が淳仁天皇の身柄も押さえ、軟禁している。
「なに? 駅鈴と御璽が奪われただと?」
急報を聞いた押勝は狼狽したが、すぐ冷静に戻るや、三男の訓儒麻呂に山村王の帰路を襲撃させ、駅鈴と御璽を奪い返した。ところが、救援に来た授刀衛の少尉・坂上苅田麻呂(この人は有名な征夷大将軍・坂上田村麻呂の父親である)が訓儒麻呂を射殺し、再び駅鈴と御璽を奪還する。負けじと押勝は、矢田部老という天皇を警護する中衛府の将監とその部下を投入して駅鈴と御璽を取り戻そうとしたが、激しい市街戦の末、老が授刀衛の舎人・紀船守に射殺され、失敗した。この夜の市街戦では、新入りの浄人の奮戦がめざましかった。仲間に認められようとして必死だったのである。
この間、孝謙上皇は西宮でハラハラしながら吉報を待っていた。そばに侍る由利と広虫も、ここでしくじったら自分たちに未来は無いとわかっているので、顔から血の気が失せるほど緊張していた。道鏡も近くにいたが、こちらはいつもの如く静かに瞑想していた。やがて駅鈴と御璽を無事に確保したという知らせが届くと、孝謙上皇はホッと胸をなでおろし、由利と広虫は抱き合って喜んだ。道鏡の表情も少し緩んだが、
「まだ前哨戦を勝利したにすぎません。本番はこれからです」
と冷静に釘を刺すのを忘れなかった。それを聞いた由利と広虫は「相変わらず嫌な奴」としかめっ面をした。
授刀衛の兵士たちの活躍により駅鈴と御璽を手に入れた孝謙上皇はすぐさま勅を発し、押勝一族の官位剥奪および全財産の没収を宣言。さらに押勝を朝敵とした。
「まずい。ここはいったん退却だ」
旗色が悪くなった押勝は一族を連れて平城京から脱出し、近江国へ向かった。保良宮を作ったように、近江国は長年国司を務めた、いわば押勝のお膝元であるから、ここで体勢を立て直し、都へ攻め戻ろうと考えたのである。
「俺が朝敵だと? ふざけやがって。そんなもの、いくさに勝てば、いくらでもひっくり返せるわ」
まったく押勝の言う通りである。朝敵の汚名など戦いに勝ちさえすればどうにでもなるというのは自明の理であるから、この段階での押勝はまさか自分が敗れるとは夢にも思っていなかったし、すぐに逆転勝利できると楽観視していた。しかし、駅鈴と御璽の威光は押勝が思っていた以上に強かったし、朝敵にされたことも、平城京から脱出する際に淳仁天皇を一緒に連れ出せなかったことも、大きな痛手となった。これにより兵士の士気が一気に下がったし、新たに味方する者が現れなくなったからである。加えて権力を独り占めしていた押勝への反撥の強さも想定外だった。藤原永手ら味方になってくれるはずの藤原一族の加勢が得られず、逆に上皇側に回られたのである。
(俺はこんなに嫌われていたのか)
押勝はおのれの人望の無さに愕然とした。
孝謙上皇側の軍師である吉備真備の老獪な用兵も大きな想定外だったと言えるだろう。押勝一行は近江国へ向かったが、それを見越した真備は自軍を先回りさせ、瀬田川に架かる橋を焼き落とした。その上で対岸からさかんに矢を射ったものだから、押勝は歯ぎしりをして悔しがった。
「真備のジジイめ、抜け目なく・・・この先に進むのは難しい。やむを得ん。越前へ向かおう」
近江国への道を閉ざされた押勝一行は琵琶湖の西岸を北上して、押勝の八男・藤原辛加知が国司を務める越前国へ向かうことにした。ところで、このとき辛加知には政変の情報が届いていなかった。何も知らない辛加知は、真備がいち早く都から早馬で送り込んだ上皇軍の兵士に、あっさり殺害されてしまう。
「押勝を越前に入れるな」
真備は越前国への入口である愛発関を占拠し、北上してきた押勝一行を迎え撃った。愛発関の守備は固く、現有戦力で突破するのは困難と判断した押勝は、船で琵琶湖を渡り、越前国へ入ることにした。辛加知が殺害されたことを、押勝はまだ知らなかったのである。ところが、「泣きっ面に蜂」というか「弱り目にたたり目」というか、その日はもの凄い強風が吹き荒れていて、とても渡湖できる状態ではなかった。
「天は我らを見放したのか」
押勝が弱音を吐いたくらいだから、一般の兵士たちはもっと弱気になり、逃亡する者が続出した。その様子を不安げに見守っていたのが氷上真人塩焼、すなわちかっての塩焼王である。淳仁天皇を都から連れ出せなかった押勝は、五十歳になる塩焼を淳仁天皇に代わる今帝に擁立したのだった。妻の不破内親王は「危ない橋を渡るのはおやめください」と泣いて止めたが、塩焼は「わしは負け犬のまま終わる男ではないぞ。今回は大師に賭ける」そう言って押勝について来たのである。
「大丈夫かの、大師?」
塩焼が怯えた顔で尋ねると、押勝は強気にこう答えた。
「現在は苦戦しておりますけど、いましばらく辛抱すれば近江と越前から援軍が到着しますから大丈夫です」
しかし、今が勝負時と考えた真備は押勝側に時間的余裕など与えず、激しく攻め立てた。その勢いに押された押勝一行は南下し、三尾(現在の滋賀県高島市)に退いた。上皇軍の総攻撃が始まる。押勝は自ら前線に出て勇猛果敢に戦ったが、所詮は多勢に無勢、じりじりと追い詰められると、
「俺が、この俺が、こんなところで死ぬのか?・・・」
最後は全身血まみれの姿になり、信じられないといった表情をしたまま、琵琶湖の湖畔で絶命した。享年五十九歳。討ち取られた押勝の首は都大路に晒された。
押勝側の兵士は全員殺され、同行していた押勝の妻と子供も殺害された。十三歳になる末娘は評判の美少女で、将来は天皇の后になるものと期待されていたが、千人もの兵士に犯されて死んだという話が伝わっている。千人は大袈裟にしても、無惨な最期を遂げたのは確かであろう。
塩焼も殺された。身から出た錆とはいえ、聖武天皇の娘婿として将来を嘱望されていた過去を思うと、哀れさを禁じ得ない。ただ、孝謙上皇の異母妹という理由もあってか、妻の不破内親王と息子の志計志麻呂に何のお咎めも無かったのは不幸中の幸いであった。五年後、この母子には新たな不幸が襲い掛かるのだが、その話はまた後にする。
押勝が死んでから一か月後、廃位され大炊親王となった淳仁天皇は、着の身着のままの姿で、母親の他数名の従者と共に、平城京から淡路島へ追い払われた。孝謙上皇の温情により淡路国の国主になったのである。大炊親王の兄弟である船親王と池田親王の二人は、それぞれ隠岐と土佐へ流罪となったから、優遇措置であることは間違いない。まがりなりにも先の天皇であった人間に対しては、さすがの孝謙上皇もそこまで酷い仕打ちはできなかったのであろう。それでも監視付きで幽閉されている事実に変わりはなかったが。




