第20章 問答
孝謙上皇は相変わらず保良宮で琵琶湖の風景を眺めながらのんびり静養している。そばには道鏡が付き添い、世話をしている。もちろん由利と広虫も世話をするが、孝謙上皇は両名を下がらせ、道鏡と二人きりになることが多かった。二人きりになったからといって特に何かするわけではない。半日黙ったままで過ごすことも多かった。孝謙上皇は道鏡がそばにいるだけで満足するらしかった。道鏡もそれをよく弁えており、普段は部屋の隅に無言で控えていて、たまに思い出したように孝謙上皇が話しかけてきた時だけ相手するようにしていた。
「大師が新羅に出兵したがっているのよ」
ある日、孝謙上皇が不意にそう呟くと、道鏡は「恵美押勝さまがですか?」と尋ねた。
「うん。どう思う?」
「いま我が国にそのような余力は無いように思えますが」
「無いのよ、実際」
「新羅が我が国に攻めてきたというのなら応戦して国土と国民を守らなければなりませんけど、そうではありませんので外交でうまく決着をつけるのが上策だと思います」
「わたしもそう思うのだけど、権力を手に入れた人間はそれを使って他国を恫喝しなければ気が済まないのかしらね?」
「さぁ? 人によると思いますが」
「そうね、人によるわね」
別の日、孝謙上皇が
「仏教って来世ばかりを重んじ、現世を軽んじているのではないの?」
と尋ねると、道鏡は答えた。
「そんなことはありません。現世をちゃんと生きてこそ素晴らしい来世があるのです」
「そもそも来世って本当にあるのかしら?」
「ございます」
「それなら、なぜ人間は死ぬのを怖がり、親しい人が亡くなると悲しむの?」
「現世での別れがあるからです」
「来世でまた会えるのなら悲しむ必要なんか無いじゃないの」
「たった一日会えないだけで悲しくて泣く人が世の中にはいるのではありませんか?」
「そういう人もいるでしょうけど、全員ではないわ」
「人間は最終的な結果を喜んだり、悲しんだり、苦しんだり、怖がったりするのではないのです。結果に至る過程のひとつひとつの場面で喜んだり、悲しんだり、苦しんだり、怖がったりするのです」
「せわしいのね、人間は」
また別の日、孝謙上皇は尋ねた。
「道鏡のご両親は、わたしもそうだけど、既に亡くなったのよね? 兄弟はいないの?」
「いいえ、おります」道鏡は答えた。「浄人という弟がひとりだけ生き残っております」
「どういう意味?」
「たくさんの兄弟姉妹がおりましたが、浄人とわたくし以外は、貧しさの中で、みな死んでしまったという意味です」
「そうだったの。可哀想に。弟さんはいま何をしているの?」
「河内国で実家の畑を耕しながら細々と暮らしております」
「ふーん、わたしにも弟がいたのよ、二人」
「あ、そうでしたか」
「でも、二人とも死んじゃったわ。一人は一歳で、もう一人は十七歳で」
「お気の毒に」
「弟が生きていれば、わたしの人生も変わったでしょうに」
「どのように変わったのですか?」
「少なくても天皇にならずに済んだでしょうね」
「天皇になったのが、お嫌だったのですか?」
「嫌じゃないけど、お陰で普通の人生が無くなったわ」
「普通の人生とは何ですか?」
「結婚して、子供を育てて・・・こういうのが普通の人生っていうんじゃないの?」
「それならわたくしにもありません、普通の人生が」
「そうね、道鏡もわたしと一緒ね」
「普通の人生の方が良かったとお思いなのですか?」
「わかんないわ。ただ人生の中でいちばん大切なことをしないまま、ここまで来てしまった、そう思わせる心の穴が、どうしても埋まらないのよ」
「世間の人間は太上天皇さまの生活を羨んでいるのですよ」
「自分が贅沢な悩みを口にしているのはわかっているわ。生まれてこのかた飢えたことは無く、毎日おいしい御馳走を食べ、高価な着物や宝飾品を身につけ、優雅に暮らしてきたものね。不平や不満を言えた義理じゃないのは承知している。でも、何だろう、これで人生と言えるのかしら、わたしの一生は・・・そう思ってしまうのよ」
「どう出来れば満足なのですか?」
道鏡にそう尋ねられた孝謙上皇は。指を咥えてしばらく考えたあと「変なこと訊いていい?」と言った。道鏡は「どうぞ」と答えた。
「道鏡は・・・その・・・女の人と・・・したことがあるの?」
「つまりそれは」道鏡は言いにくそうに口ごもった。「わたくしが女性と性交した経験があるのかとお尋ねなのですか?」
「うん・・・」
恥ずかしそうに下を向いた孝謙上皇に向かって道鏡は、ためらうことなく堂々と答えた。
「わたくしは出家ですので、女性と性交した経験はございません」
道鏡の答えを聞くと孝謙上皇は少しホッとした表情をしたが、すぐにまた恥ずかしそうに下を向いた。
「わたしも経験が無いわ、男性と・・・出家したわけじゃないのに」
「自ら望んで出家したわたくしは女性と性的関係を結べないことに異存はございませんが、太上天皇さまはご自分が望んだわけではないのに純潔を強制されていると思い、ご不満なのですか?」
「不満というか・・・理不尽かなと思って・・・」
「しかし、太上天皇さまの場合、結婚を禁じられているわけではないのでしょう?」
「うん・・・でも、女の天皇は巫女でもあるから・・・」
「色々と厄介なのですね」
「ねえ」と、孝謙上皇の言葉に力が入った。「道鏡は若いころ体が火照ったりしなかった? ムラムラしたりしなかった?」
「確かにそういう時期もありましたが、一心に経を唱えていたら、いつの間にか無くなりました」
「それが人間として自然といえるの?」
「自然か不自然かと問われたら、不自然だと答えるしかないでしょうね。しかし、もともと人間は不自然な存在なのです。そこに人間と犬や猫との違いがあるのです」
「そういうものかしら?」
「人間が作りだす文明というものは自然への反逆といえるかもしれません。不自然だからこそ人間は今日の繁栄を手に入れたのです」
「ふーん」
「つまり反逆こそが人間らしい行動と言えましょう」
「そうなの?」
「太上天皇さまの場合も、そんなに現在の境遇が嫌だとおっしゃるのなら、そこから逃げ出して、お好きに生きれば良いのです。これも立派な反逆です。いくら太上天皇とはいえ、女ひとりくらい宮中から姿をくらますのは、そんなに難しくないはず。どこか遠くへ逃げて、百姓の妻にでもなって、思い描いていらっしゃる人間らしい暮らしとやらを満喫なされば良いではありませんか」
「でも・・・」
「これは自分が選んだ人生じゃない、無理やり誰かに押し付けられた暮らしだ、わたしが望んだ生き方ではない、そうおっしゃるのなら、ご自分で選べば良いのです、お好きな人生を。今からだって選べるし、これまでだってその気があれば選べたはずです」
「ええ・・・」
「ところが、そうなさらなかった」
「うん・・・」
「それなのに文句ばかり言っている。ご自分では選ばないくせに、そもそも選ぶ勇気も無いくせに、被害者ぶってウジウジ文句を垂れている」
「それは・・・」
「この際、はっきり言わせて頂きます、太上天皇さま、あなたは弱虫で卑怯です」
「弱虫で卑怯?」
「そうです。何でも他人のせいにして逃げてばかりいる卑怯者です」
「無礼な」
孝謙上皇は顔を紅潮させて立ち上がった。
「わたくしが無礼な事を申しましたか? 真実を指摘するのが無礼ですか? そう思われるのでしたら、どうぞわたくしを処罰なさってください」
そう言って道鏡も立ちあがった。
「さあ、わたくしを斬るなり焼くなり、お好きになさってください」
道鏡はじりじりと孝謙上皇ににじり寄ってゆく。
「人生は誰のせいでもない。ご自分の責任なのですよ」
孝謙上皇が後退りする。
「逃げてはいけません。ご自分で選択し、責任を持つのです」
孝謙上皇の顔が怯えた表情に変わる。
「さあ、早くおやりなさい」
孝謙上皇の目から涙がこぼれ落ちる。
「さあ、どうしました?」
道鏡がさらに近づく。
「さあ!」
道鏡が一喝すると、孝謙上皇はへなへなとその場にへたり込んだ。




