第19章 道鏡
「同じ年齢の人間がそばにいると嬉しいものね」
孝謙上皇が横になったままそう言うと、病室の隅に正座している道鏡が「そうですか?」と微笑した。
「わたしは考えてしまうのよ、この人はわたしと同じ年に生まれて、それから同じ時間をどのように過ごしてきたのだろうって」
「太上天皇さまとわたくしとでは、育った環境がまるで違います」
「道鏡はどこで生まれたの?」
「わたくしは河内国の片田舎で生まれました」
「実家は何をしているの?」
「弓削という名の貧しい地方豪族です」
「弓削? 知らないなぁ」
「伝承によれば物部氏に連なる一族だそうですけど、本当かどうか・・・今はただの百姓と変わりません」
「物部ね。聞いたことがあるわ。確か蘇我氏に滅ぼされたのよね?」
「そうらしいです」
「由緒ある家柄じゃないの」
「没落した一族です」
「それでどうして僧侶になったの?」
「貧しい家の子供は売られるか、そうじゃなかったら寺に入れられるのです、口減らしの為に」
「道鏡が自ら進んで僧侶になったわけじゃないのね?」
「小さい時分でしたからね、最初は何もわからないまま寺に連れて行かれ、下働きの小僧になっていたという感じでした」
「苦労したのね」
「わたくしだけじゃありません。同じ境遇の子供はそこらじゅうにたくさんおりましたし、今もおります。死んだ子供も多かったです」
「可哀想に。逃げ出そうとは思わなかったの?」
「どこへ逃げても同じですから。それに幸いわたくしは学問が好きで、寺には多くの書物がありました」
「え? もう読めたの?」
「いいえ、寺の住職さまや先輩の僧に字を教わりながら、少しずつ学んでゆきました」
「偉いのね」
「あの頃は字を読むのがいちばんの楽しみでした。新しく字が読めるようになると嬉しかったです」
「わたしも、小さい頃、父上や元正太上天皇さまから字を教わったわ」
「それまで知らなかった事を次々と知り、出来なかった事が次々と出来るようになった成長期の頃は、いま考えればとても刺激的な時間でした」
「そうね、人間は成長している時がいちばん美しいわね。歩みを止めたら、そこで腐ってゆく」
「わたくしも歩みを止めぬよう今も学問を続けております」
「それが良いわ。向上心を持って常に前進し続けることが大切なのよ、人間は」
「肝に銘じます」
「僧を辞めて他の道へ進もうと考えたことはなかったの?」
「はい、お陰さまで経典を学べば学ぶ程その奥深さに魅了されまして、他の道は考えたことがありませんでした」
「よほど僧侶が向いていたのね」
「あと、わたくしには語学の才能があるのか、梵語(サンスクリット語)が得意でよく出来ましたものですから、その能力を買われ、とても偉い僧正さまの下で修業できる機会に恵まれたのも大きかったです」
「とても偉い僧正さまって、まさか玄昉じゃないわよね?」
「違います。玄昉さまは昔そのお姿を遠くから拝見したことがありますけど、接点はまったくありませんでした。わたくしが教えを受けたのは、義淵さまと良弁さまです」
「それは良かった。玄昉が大嫌いだったのよ、わたしは」
「確かあの方は、父帝さまのご生母さまを、見事に治療なさったのではありませんか?」
「その点は感謝してるわよ。わたしが嫌いだったのは、玄昉の性格というか人間性よ。傲慢な態度よ」
「そうなのですか・・・あ、そろそろ薬湯を飲む時間です」道鏡は椀に薬湯を注ぎ、孝謙上皇のところへ運んだ。「少々苦いですけど我慢してお飲みくださいね」
道鏡の手で上半身を抱き起こされた孝謙上皇は薬湯を一気に飲み干し、「本当に苦いわね」と渋面を作った。
「でも、太上天皇さまのお体の為には良いのですよ、この苦さが」
そう言って道鏡が再び孝謙上皇を寝かせようとすると、「ちょっと待って」と止められた。「もうしばらくこのまま抱いていて」
戸惑った表情を浮かべて道鏡はじっとしている。道鏡の腕に抱かれたまま目を瞑っている孝謙上皇の顔には、何とも言えない透明感と、清潔感と、生まれ持っての高貴さが漂っている。「美しい」と道鏡は思った。
(わたくしを実年齢よりも若く見えるとおっしゃったけど、太上天皇さまこそがまさにそうだ。生まれたての赤子のように清らかでいらっしゃる)
静かな時間が流れた。
「もういいわ。横にして」
そう命じられた道鏡は、ゆっくりと孝謙上皇を寝かせた。孝謙上皇はすぐにすやすやと寝息をたて始めた。それを見届けた道鏡は部屋の隅へ戻り、ひとり瞑想を始めた。
由利と広虫の二人は道鏡をただの看病禅師だと思い、最初は特に意識することが無かった。ところが、孝謙上皇が道鏡を自分の専属看病禅師にするに及んで、心中が穏やかでなくなった。
(あんな中年坊主のどこが良いのよ、ウチの姫さまは?)
二人には、自分たちこそ忠実なしもべとして、気の置けない同性として、何でも言い合える仲間として、これまで孝謙上皇を支えてきたという自負があった。時には政策に関する有益な助言をし、時には主の健康に気を遣い、時には理不尽な勘気に耐え・・・それでもたまには教育的指導の見地から完膚なきまでに言い返して思いきりへこませてやった事もあったけど、何はともあれ女三人、仲良く信頼し合ってやってきたはずなのに、急に男を一匹招き入れ、しかもその新入りを自分たちよりも頼りにするなんて、そういう浮気は、背信行為は、仲間への裏切りは、どうあっても容認し難いというのが、由利と広虫の正直な気持ちだった。
「ウチの姫さまからあの坊主を引き離す良い手はないかしら?」
由利から相談された広虫は頭をひねった。
「もっと若くて二枚目の男を連れてくればいいんじゃね?」
「そういう男の心当たりはある?」
「二枚目かどうかは微妙だけど、ウチの弟なら空いてるけどね」
「弟って、あの清麻呂?」
「うん。清麻呂がちっちゃかった頃、由利はよく遊んでくれたよね」
「懐かしいわね、あの頃が」
「清麻呂も今ではすっかりいい大人になったわ」
「子供の頃の姿しか見てないけど、広虫と違って可愛い顔をしてたから悪くないかもしれないわね。とりあえず呼んできてよ」
「わたしと違ってというところが余計だけどね」
さっそく広虫は弟を連れてきた。その弟・和気清麻呂は、このとき二十八歳。小柄ながらもよく引き締まった敏捷そうな体型で、姉と違って愛嬌のある可愛い顔をしていた。広虫が「ぜひ従者の一人にお加えください」と頼むと、孝謙上皇はあっさり承諾した。
「広虫の弟なら信用できるわ。よろしくね、清麻呂」
これで道鏡への執着が弱まるかと期待したが、残念ながらその効果は現れず、相変わらず孝謙上皇は道鏡を四六時中そばから離そうとしなかった。落胆した由利と広虫は腹立ちまぎれに清麻呂を
「この役立たずの穀潰しが!」
と罵ったが、何も悪くない清麻呂にしてみれば突然の災難に遭ったようなもので、いい迷惑であったろう。
孝謙上皇が寝所に若い男を連れ込み、夜な夜な淫らな行為に耽っているという噂が、恵美押勝の耳に入った。
(太上天皇さまも人の子だから、時にはお寂しい気持ちになり、男が欲しくなることもあるだろうな)
押勝はぼんやりとそう考え、一旦は可哀想だから放っておこうとしたが、後々役に立つかもしれないから情報だけはしっかり確保しておくべきだと思い直し、部下に命じて密かに探索させた。その結果わかったのは、連れ込んでいるのは若い男ではなく中年の男であり、しかもその正体は看病禅師で、夜な夜なの淫行といったものは何ひとつ確認できなかった、ということだった。
(何だ、看病禅師が看護のため同室していたというだけの話か。これでは醜聞にならないじゃねえか)
押勝は苦笑いし、この件は忘れることにした。しかし、押勝から話を聞いた淳仁天皇は、
(本当に二人の間には何もないのだろうか?)
と疑った。
(看病禅師とはいえ男は男。太上天皇さまの方も、姉君が出産したばかりだし、まだまだ色気を失っていないはず。もし太上天皇さまが妊娠するようなことがあれば、俺は一体どうなるのだろう?)
淳仁天皇の胸に強い不安がよぎった。




