朝の日常と逃亡劇
目が覚める。体を起こすと真っ先に確認するのは隣のベッドだ。すうすうと寝息を立てる少女がいる。その細い首筋に触れる。規則正しい脈動に触れる。今日もちゃんと生きている。
ほっと息を吐きカイは大きく伸びをした。
視界に入った机には整頓された魔導書とインク壺が置かれている。あの茶色の魔導書は見つからない。母から受け継いだのだと大事そうに抱えていた魔導書は異空間にしまってあるのだろう。
いつもと同じように服を着替え、顔を洗い、黒い鎧を身につけていて気づく。いつもより体が軽い。
特別何かした覚えはない。一瞬ベッドで呑気に眠る少女の仕業かと考えた。だが荷物運びと読書しかしていない日の夜に疲労回復の魔法を使うだろうか。
不思議だが、体の調子が良いのは好都合だ。今日はモンストロ討伐の依頼が入っている。思い切り動けると思うと今から胸が踊った。
黒鎧を身につけたら、次は少女を起こす作業に入る。この女は意外と寝汚い。気合いを入れて起こさないと目すら開けない。
「おい、起きろ」
いつもの習慣で肩を軽く叩く。起きない。
「…起きろ」
布団を剥がす。起きない。
「おい」
肩を大きく揺さぶっても、耳元で呼んでも起きない。仕方なく拳を握る。肩に振り下ろした。手加減はしない。
女相手に暴力?聞こえないな。こいつは女ではない。本人もそう認めていた。変に女扱いすると笑われたな。女扱いするだけ無駄だ。
「…?…ああ、カイか。おはよう…」
ほら、こういう奴だ。寝ぼけなまこで起き上がり、ぼーっとそこら辺を見つめている。のそのそと動いているから起きる意思はあるのだろう。
長い黒髪が朝日に煌めく。ぼんやりとした眠たげな黒曜石の瞳は見方によっては儚げにも見えるだろう。桜色の唇に、華奢な体は見る者が見れば庇護欲をそそるだろう。お世辞抜きで美人のくせに残念な女だと思う。
だが、相棒としては心強い。それにあいつはあの寝起きのぼんやりした目よりも、いつもの強い光を宿した目がよく似合う。
また布団に潜ってしまわないよう見張りながら今日の依頼内容を確認する。
相変わらずローブを被ってその中でのそのそ着替える相棒には目を向けないようにし、朝ごはんのパンを取り出す。この宿に飯はつかない。
黒く長い髪を慣れた手つきでひとつにまとめあげる。カイがやった緋色のローブにその全てを隠す頃には、ソラの目にはいつもの輝きが宿っていた。
「カイ、今日はモンストロ討伐か?」
「ああ。あんたはシュタインのところか」
「そうだ。天使の古代言語について調べてくる。他に調べて欲しいことはあるか?」
「…竜の生息地を頼む」
「わかった」
短く今日の予定を確認する。
それにしても天使の古代言語。こいつは何の魔法を使うつもりなんだ。
胡乱げな目を向けた先。そいつは質素倹約で清廉と言われる白魔導士とは思えないくらい大きく口を開けてパンを頬張っていた。
天使のことについてはおとぎ話程度だが聞いたことがある。かつて人間が生まれる前に栄えた、白魔法と光の魔法の扱いに長けた種族だ。その白魔法は死んだ者でさえ生き返らせたという。
その天使が残した魔導書でも読むつもりか。こいつならありうるな。何せこいつは今まで会った魔導師の中で一番白魔法に長けている。それでも幼なじみの呪いを解くためにと、前に進むことをやめない奴だ。
その幼なじみは幸せだろう。こいつなら何があっても呪いを解く。それだけの根性がある。
パンを平らげる。カイが1つ分食べている間にソラは2つペロリと食べ終わり、食後の紅茶を飲んでいた。
特に話すことはない。だが沈黙は気まずくない。こいつも口数が多い方じゃない。静かな空気を好んでいる節がある。
「これ、片付けるぞ」
紅茶も飲み終わったらしいソラがパンを乗せていた皿を持ち上げる。宿から借りたものだ。
「ああ。…これも頼む」
宿の共同洗い場に持っていくのだろう。皿の上にカップを重ねる。その上にコーヒーが入っていたカップも重ねた。
「任せてくれ。もう行くのか?」
「…今回のモンストロは少し多い。早めに出て終わらせたいところだ」
「そうか。いってらっしゃい」
「…行ってくる」
告げて使い慣れた大剣を背負い部屋を出る。あの子どもの頃は当たり前だった懐かしいやりとりにもだいぶ慣れた。これまではひとりでいたからか、ああいうやりとりとは疎遠だったはずなのに。
だが、悪くない。
小さく笑み浮かべ、カイは依頼に書かれた草原へと向かった。
シュタイン宅へと訪れた帰り道。夕暮れの街でソラはのんびりと市場を歩いていた。
今日の成果は上々。母の魔導書で読めない文字や単語をあらかじめまとめておいて良かった。
自分用の古代文字辞書を作り上げ、達成感はひとしおだ。これで今夜の解読はさらに進むだろう。シュタインは後輩を育てるのも良いものだね、と笑ってくれた。
もちろんカイから頼まれた竜の生息地も調べた。
竜は種類によって生息地が違うらしい。水龍なら澄んだ水がある滝や泉。火竜なら火が近い火山や乾燥した砂漠。飛竜なら岩場や荒地だ。
その他にも人に姿を変え、街で生活する竜もいるらしい。街にいるのならば、一度は会ってみたいものだ。
貴重な本も見せてもらい、お礼の代わりに菓子を贈ったのが今日の昼間。そろそろ兄弟が追いかけてくる頃合いだ。何しろ弟の勘は鋭い。それまでに街を出なければならない。
それにステラがここにいた。ということは近くにまだステラがいるかもしれないのだ。探すなら今しかないと思っている。
「そろそろこの街を出ることになると思う」
そう告げるとシュタインたちは驚いていた。
「もうかい?」
「ああ。…ステラの行方が気になる」
そう答えると、そうか、とシュタインは柔らかく笑んだ。
「そういうことなら引き止めれないね。ソラくん、良い旅を」
「ああ、ありがとう。シュタインたちも、元気でな」
挨拶を終え出てきたのが先ほどだ。
ゆっくりと道を歩いていると、トンと誰かの方にぶつかった。
「…!すまない」
「こちらこそごめんなさい!」
すれ違う。ふわりと香る優しい香り。…身に覚えがあった。
駆け出す。同時に、
「見つけたよ、兄弟!」
という声が市場に響き渡った。まずい、もう見つかったか。
風を纏う。本当はこっちの魔法は使いたくなかった。駆ける。風よりも速く。捕まるわけにはいかない。
あれでも弟は力が強い。捕まったら終わりだ。
「見つけたのか、シアン!」
「うん。あの赤いフード!」
「よぉし、いっちょやってやろうじゃねえか!」
ヴォルフガングもいるのか!嫌な汗が流れる。弟との隠れ鬼での勝率は五分五分だ。そこに体力が底なしのヴォルフガングが加われば一気に勝率は1か2になる。
市場じゃ走りにくい。人にぶつかる。謝って、屋根に飛び乗る。遠くでどよめきが聞こえた。
「逃すかよ!」
ヴォルフガングが剣を抜く。一閃、首のあった場所に剣の冷たい煌めきが過る。
嘘だろう。自分の剣の威力を考えてくれ。
「あんた俺を殺す気か!」
「ソルなら首だけでも回復できんだろう!」
「ヴォルさん、兄弟はスライムじゃないよ!」
もっと言ってやれ兄弟。…って、そうじゃない。
囲まれる前に次の屋根に飛び乗る。弟は慣れたように追いかけてきた。なぜ慣れている。その手にはやはり剣が握られていた。あんたもか。
「…火よ」
短く呟く。言の葉は魔力を纏って火の玉となり弟たちの前で炸裂した。
「ちょっ…危ないでしょ!」
怒ったような弟の声が響く。…あんたたちなら死にはしないだろう。もし怪我をしても弟なら一瞬で治せる。
無視して走る。向かう先はこの街の外だ。
ふと道路に目を落とす。いつのまにか宿の近くまで来ていた。その路地裏に黒い鎧を見つける。
「待て!」
ヴォルフガングの手のひらが俺の腕を捕らえる一瞬前。
「…全ては陽炎、泡沫の夢。『白昼夢』!」
使うつもりもなく勉強した黒魔法で俺は姿を消した。
「なっ…!」
目の前でヴォルフガングが目を見開く。匂いで気づかれる前に屋根から飛び降りる。弟もヴォルフガングも匂いには敏感だ。見破られたら次はない。
そのまま黒い鎧の方へと駆ける。
「カイ!」
「ん?…あんた、どっから現れた?」
会の目の前で魔法を解く。姿を現した俺にカイは訝しげな目を向ける。鎧で見えないが。
「あとで説明する。逃げるぞ!」
「は?」
理解が追いつかないらしい。それもそうか。こいつに逃げる理由はない。
「見つけたぞ!あっちだ!」
「兄弟!そいつは誰⁈知らない人についてっちゃダメって僕教えたよね?」
怒鳴り声が響く。まずい、時間がない。
光の矢が降ってくる。黒い鎧が矢を弾いた。魔法を弾くのか。なかなか見れない光景だ。いや、感心してる場合じゃない。
「…っ!なんだ、あいつらは?」
「弟とその幼なじみだ!」
「逃げるぞ!」
腕を引っ張られる。カイが駆け出す。相変わらず重騎士の走りとは思えない速さだ。
「待て!」
光の矢が槍に変わる。ローブを槍がかすめた。悲鳴が上がる。どこかで憲兵を呼べ!という怒号が上がる。
「あいにく捕まるわけにはいかないんでね」
涼しげな低い声が黒鎧から響く。追われているというのになかなかの精神力だ。
光の槍が地面を抉る。美しいタイルの道は見るも無残に粉々になっていく。
「遅いっ!」
「っ!」
弟の剣が迫る。黒い鎧の隙間に突き刺さる寸前。大剣が受け止めた。一振り。弟が飛び退く。カイを睨むその青い目が獰猛な光を宿す。
「シアン!」
ヴォルフガングの一太刀。弟よりも威力は高い。狙いはカイだ。間に合わない。
「燃やせ!」
「…っ!くそっ!」
咄嗟に魔法言語を紡ぐ。炎の壁が俺たちの間に燃え上がる。
「…あんた、黒魔法も使えるのか」
「………」
それについてはノーコメントだ。角へ走る。今度は俺がカイを引っ張る。
遠くで鐘が鳴る。憲兵が出て来たのだろう。
路地裏、人の目がない位置まで走る。
「あんた、どこに行く気だ⁈」
「魔法で街の外まで出る」
「…できるのか?」
「…俺は魔導師だぞ」
ニヤリと笑ってみせる。足は止めない。
カイがその兜の内側で同じように笑った気がした。
「頼んだぞ、魔導師殿」
「任せろ、黒騎士様」
足を止めず暗い路地裏を駆け抜ける。忍び寄る闇が俺たちを隠してくれる。
「あいつら、どこ行った!」
「まだ近くにいるはずだよ!」
ヴォルフガングと弟の声が遠く聞こえた。
すまない、兄弟。まだ捕まるわけにはいかないんだ。目的が済んだらちゃんと帰る。それまで許してくれ。
心の中で謝って息を吸う。近くの家の夕飯の香ばしい匂いが肺を満たした。
「居場所はいつでも入れ替わる。『転移』」
唱えた途端。白い光が目の前を迸り、路地裏の匂いを消した。




