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第09話:偽装と現実(凛視点)

 パレードの大音量よりも、周囲の歓声よりも、今の私の鼓膜にはたった1つの音しか響いていない。その音は、私を抱きとめた蓮の胸から聞こえてくる。


 私を抱きしめる彼の両腕は、私の体をどこにも逃げられないほど力を込めている。突然の出来事から私を守るために彼が取ったとっさの行動。私が顔を上げるとゼロ距離に彼の顔があった。いつもは私が少しだけ見下ろす形になるが、今の私は彼の腕の中にすっぽりと収まっている。


ブブッ。ブブッ。ブブッ。ブブッ。ブブッ。ブブッ。

ブブッ。ブブッ。ブブッ。ブブッ。ブブッ。ブブッ。


 私のスマートウォッチが振動するのと同時に、私の背中で何かが同じように振動している。私は彼の背中に腕を回し、彼の心臓に耳を当て、力強くハグをした。伝わってくるのは早すぎる心臓の音と確かな体温。


──……蓮の心拍数も私と同じ?


 ビジネスパートナーであり冷徹な高校生CEO。効率を重視し、合理的な男。それが最上蓮。


──でもこの心臓は全然耐えきれてないじゃん。バグとかアドレナリンとか、言い訳ばっか並べてるけどそんなの絶対におかしい。ただのビジネスパートナーだったら、ここまでドキドキしない。蓮だって私のことをハグしたまま離さないし……。


 パレードの極彩色の光が通り過ぎていく。私は「完璧な白神凛」の仮面が完全に剥がれ落ちるのを感じながら、全てを蓮に委ねようとしていた。


──ここで顔を上げて蓮に気持ちを伝えれば、偽装交際が終わって本物の恋愛が始まるかもしれない……。


「蓮、私……」


 胸の奥から溢れ出している本心を口にしようとしたその時。


「凛、そのまま動かないでくれ」


 蓮が突如として、いつもの声色で私の言葉を遮る。彼が私を抱きしめる力がわずかに強くなったが、眼鏡の奥の瞳は鋭い目つきに変わり、周囲を見渡しているように感じた。


「僕の視覚データによる簡易解析によれば、現在、この地点の人口密度は1平方メートルあたり、約5.5人に達している。更にパレードのフロート進行に伴い、周囲からのプレッシャーも継続中だ」


──はあ!?何言ってんのよ、バカ蓮!


「君の安全を100パーセント確保するためには、群衆のランダムな動きが沈静化するまでの約40秒間、僕自身の体を君のファイアウォールとして機能させる。そのため、この状態を維持するのが最も効率的となる」

「……」


 今まで熱を帯びていた私の心臓は、氷水を浴びせられたかのように急速に冷えていった。


──……バカみたい。


 彼が私をハグし続ける理由。それは私のことを好きなわけでも、離れたくないわけでもない。最も効率的なリスクヘッジのため。彼の異常な心拍数は私にドキドキしているわけではなく、ドミノ倒しのような事故を恐れた一時的な発作。このデジタルバカの脳内には、ロマンチックという概念そのものが排除されていた。


「よく理解したわ、CEO。リスクヘッジには感謝するわ」


 私は無理矢理「白神凛」になり、彼の背中に回していた腕の力を抜き、40秒が経過する前に彼の腕の中から自分の体を強引に引き剥がした。


「凛、まだ周囲のプレッシャーが……」

「もう大丈夫。ほら、2人も私たちのことを心配してこっち見てる。『PR活動』として十分な『演技時間』だったんじゃない」


 私はPR活動であることや演技であることを強調した。蓮の目が一瞬だけ傷付いたように見開かれたが、彼はすぐにいつもの顔に戻る。


「PR活動というタスクは滞りなくコンプリートできただろう」


──ほらね、蓮の中では今のハグですらPR活動の一環でしかない。


 遠のいていくパレードの残光に冷たさを感じた。私は自分のスマートウォッチの画面をちらりと確認する。多少落ち着いたとはいえ、蓮に抱きしめられた余韻で心拍数は「100」を下回らない。私の気持ちとは裏腹に、私の心臓は未練たらしく力強い鼓動を続ける。


「凛ちゃーん!最上くーん!大丈夫だった!?」


 人混みをかきわけ、2人は血相を変えて飛んできた。


「転びそうになったけど蓮が庇ってくれたから大丈夫」

「もうマジでびっくりしちゃった!でも、最上くんが凛ちゃんを抱きしめた時はめちゃくちゃカッコよくてキュンとしちゃった!」

「俺もビビったわ。最上にあんな反射神経あるなんて思わなかった。やる時はやるんだな!」


 蓮は大貴くんに肩を強めに叩かれていた。


「今のは絶対に『デスティニーリゾートでの胸キュンハプニング』としてSNSに上げなきゃ!2人の好感度は爆上がりだよ!」

「お手柔らかにね。でも本当に頼りになる自慢の、……彼氏よ」


 私はいつものように蓮の右腕に自分の腕を絡め、偽の恋人を演じた。


──胸が痛い……。


 遠くの方では煌びやかなフロートがどんどん遠ざかっていった。愉快な音楽に合わせてキャラクターたちが手を振ると大きな歓声が沸き起こる。


──みんなはここで心の底から笑ってる。由華ちゃんと大貴くんも楽しそうに笑い合って……、手を繋いで……。


 溢れ出しそうになる感情を女神の仮面で隠し、隣でスマートフォンを操作する蓮を見る。


「蓮、それは?」

「ログアウトに最適なタイミングを計算している。パレード終了と同時にエントランスに向かう群衆は、現在の250パーセントに膨れ上がる。駅の混雑を回避するため、5分以内にはここからエントランスに向かうのが効率的だ」


──ほんと、ブレないね。


 小さくため息をつき、視界から彼を外した。私は彼のこういうところが大嫌いで、世界で1番大好きなのだ。いつも数字と効率ばかりで私の気持ちなんて1ミリも理解してない。でも私がピンチの時は、持てるリソースを全て費やして私を守ってくれる。


──でも今は違う。こんなに好きなのに。あの時、蓮に抱きしめられた時に聞いた鼓動が私を意識してる音じゃなかったとしたら?私はいつまでビジネスパートナーを演じ続けなきゃいけないの?


◇◇◇


 私たちはデスティニーリゾートのゲートを抜け、現実世界へと向かう。蓮の事前の計算によって混雑のピークを回避し、スムーズに駅まで到達することができた。


「今日は本当にありがと!最高に楽しかった!」

「私も楽しかった!また学園でね!」


 私と由華ちゃんが抱き合うそばで、大貴くんが蓮の肩を叩きながら言葉を交わしていた。


「最上、また遊ぼうぜ。今度は俺がお前を論破してやるからな!」

「君の語彙力と論理的思考能力では僕のファイアフォールを突破することはできない。しかし、挑戦はいつでも受けて立とう」


 2人とは乗る電車が違うため、改札の手前で別れ、私と蓮は同じ電車に乗り込む。幸か不幸か車内は空いていて、私たちはボックス席に向かい合って座ることができた。


 電車のドアが閉まり、ゆっくりと動き出す。窓の外の暗闇の中にはリゾート内にある光のお城が見えた。


「白神、本日のPR活動の最終レポートだ」


 沈黙を破ったのはビジネスライクな蓮の声。蓮はスマートフォンの画面を操作しながら淡々と文章を読み上げていく。


「小西のSNSにアップロードされたダブルデートの数々の投稿は閲覧数が1万を突破している。パレード中に起こったハプニングについても、過剰な脚色が施されてしまっているが、市場は極めてポジティブに捉えている」


 蓮が顔を上げると眼鏡の奥の瞳は満足そうな光を放っていた。


「本日のPR活動のコストパフォーマンスは最高の結果だったと考えていい」

「そうね……」


 私は窓際に肘をつき、窓ガラスに反射する自分の顔をカラーサングラス越しに見つめた。反射する自分の顔は学園の女神でもトップモデルでもない。恋に破れた惨めな女の子だった。


「顔色が優れないな。やはり長時間の外出で疲労が蓄積してしまったか?スケジュールの……」

「蓮」


 私は彼の言葉を遮り、窓の外に視線を向けたまま話し始めた。


「どうした?」

「私ね、蓮に抱きしめられた時、少しだけ期待しちゃったんだ」

「期待……?」


 スマートフォンをいじっていた蓮の指先が止まり、顔を上げたことが視界の端に入る。


「もしかしたら、蓮も私と同じ理由でドキドキしてたんじゃないかって。ビジネスとか偽装とかそういうんじゃなくて。ただの男女として、私のことを少しは特別に思ってくれてるんじゃないかって」


 電車の揺れに合わせて私の声も震える。言ってはいけない言葉だった。私たちの偽装交際に感情は必要ない。そして、これを言ってしまえば彼を困らせることはわかりきっていたが止められなかった。


「移動ルートがどうとか、ファイアフォールがどうとか。蓮が口にするのは最初から最後までそんな話ばっかり。私のことなんて、ただの便利なリソースだとしか思ってないんでしょ?」

「白神、僕は……」


 蓮は何かを言いかけたが、彼の瞳はかつて見たことがないほどの動揺を浮かべていた。でも、それ以上の言い訳を私は聞きたくなかった。


「もういい。ごめんね、わかってる。私たちはただの偽装交際でビジネスパートナー。今日のPR活動も悪くなかったと思うわ、CEO。ちょっと疲れたから少し寝る」


 私は強引に会話を切り上げ、腕を組んで目を閉じ、眠るフリをした。瞼の裏が熱かった。涙が零れ落ちないように必死で歯を食いしばった。


──バカ……。私のバカ……。こんなにも蓮が好きなのに。世界中の人が私たちを本物の恋人だって祝福してくれているのに。彼の1番近くにいる私が、彼の心から1番遠くにいる。


 電車の規則正しい揺れが私の胸を痛め続けた。


◇◇◇


 「ちょっと疲れたから少し寝る」


 その言葉を最後に凛は沈黙した。一定のリズムで刻まれる電車の走行音だけが、向かい合わせのボックス席の間にある僕たちのブランクを埋める。僕はスマートフォンに視線を落とし、彼女から言われたことを脳内で何度もループ再生させていた。


『もしかしたら、蓮も私と同じ理由でドキドキしてたんじゃないかって。ビジネスとか偽装とかそういうんじゃなくて。ただの男女として、私のことを少しは特別に思ってくれてるんじゃないかって』


 僕の視界の端では、彼女が目を固く閉ざして座っている。彼女のスマートウォッチから同期される心拍数のデータを解析するまでもない。肩の微細な上下運動。不自然に力が入ったままの腕。時折震える瞼。現在、彼女がスリープモードに入っていないことは明白。


──凛は寝たフリをしているが、僕がミスを犯したのだろうか?まさか、あの時どこかを痛めたのか?


 凛の体を抱き寄せた時のことを必死に思い出す。あの時、考えるよりも先に体が動いていた。僕は彼女を腕の中に閉じ込め、彼女に物理的なダメージが及ぶのを防ぐため、僕がファイアウォールとなった。何度計算しても彼女がダメージを負うような場面はない。


『ただの便利なリソースだとしか思ってないんでしょ?』


 むしろ、凛のこの言葉が鋭利なナイフとなって僕の心臓を抉る。


──白神凛は重要なリソースだが、代替不可能なリソースでもある。


 視界の端に捉えていた彼女の顔を、僕は視界の中心に捉え直した。彼女の唇はかすかに震えているように見えたが、バグは彼女の閉じた瞳に存在していた。


 電車がすれ違った時、暗闇だった窓の外は光の壁に覆われた。すれ違う電車の白い光が寝たフリをしている彼女の顔を照らす。その時、カラフルなサングラスの奥できつく閉じられた瞼の端がきらりと光った。


──泣いている……?


 僕は脳内CPUをフル回転させたが、この状況に対する答えは弾き出せなかった。


──僕は彼女に恋をしている。しかし、彼女の現在のステータスで突発的にそのようなアプローチを行った場合、この偽装交際そのものが破棄され、Chro-Noahのアンバサダーも失う可能性がある。それだけは回避しなければならない。


 僕は合理的な答えを見つけ、電車が下車駅に到着するまでスマートフォンに視線を落とし続けた。

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